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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/matsuiism (19)

  • 城山三郎『辛酸――田中正造と足尾鉱毒事件』 - heuristic ways

    この小説は1961年(昭和36)、今からちょうど50年前に発表されている。常盤新平氏の「解説」によると、当時は田中正造の存在はほんの一部にしか知られておらず、「公害という用語さえ、なじみのあるものではなかった」(中央公論社版の作者あとがき)らしい。 辛酸―田中正造と足尾鉱毒事件 (角川文庫 緑 310-13)作者: 城山三郎出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング発売日: 1979/05メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 23回この商品を含むブログ (15件) を見る  武田晴人『高度成長』によると、「深刻化する環境破壊は、五〇年代後半にはすでに熊県水俣地方の「奇病」の発生や、大気汚染、水質汚染、地盤沈下などの問題として認識されていた。しかし、これらが企業活動に伴って発生している人為的な加害に基づくものであるとの認識は薄かった」という。政府がようやく「有機水銀説を認め、水俣病

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    sarutora 2011/12/23
    本来問題とされるべきなのは加害側の企業の隠蔽工作や国家の不当な弾圧であるはずなのに、いつの間にかそれが反転して被害民のぎりぎりの抵抗や抗議のほうが「不法」な「迷惑」行為として有徴化(mark)されてしまう
  • 荒畑寒村『谷中村滅亡史』など - heuristic ways

    G.K.チェスタートンのブラウン神父シリーズのある有名作品(1911年発表)に、「木を隠すなら森の中へ」云々という有名な言葉がある。正確には、次のようなセリフらしい(某サイトより引用)。「賢い人は葉をどこへ隠す? 森の中だ。森がない時は、自分で森を作る。一枚の枯れ葉を隠したいと願う者は、枯れ葉の林をこしらえあげるだろう。死体を隠したいと思う者は、死体の山をこしらえてそれを隠すだろう」  足尾銅山の経営者はまず、「銅山の廃棄物(捨石)を隠すには川の中へ」と考え、それを実行したわけだが、川に大洪水が起きると、そのためにかえって近隣の地域と住民に鉱毒の被害が拡大してしまった。では、鉱毒の被害を隠すためには? 荒畑寒村『谷中村滅亡史』を読むと、奇想天外なまでに大掛かりで、ポウの「盗まれた手紙」の大臣を思わせるほどに大胆不敵な犯行の手口(トリック)が、フィクションではなく、現実に組織的に実行されたと

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    sarutora 2011/12/12
    刑法で言うところの窃盗のごときは児戯にしか過ぎません。諸君が谷中村で見られたように、国家の権力者による掠奪―これが白昼公然と官憲の手を借りて行われる。法律の名に於て、はたまた国家の名に於て(木下尚江)
  • 高木仁三郎『原子力神話からの解放』 - heuristic ways

    数日前、書店に行ったとき、二冊の文庫を買った。高木仁三郎『原子力神話からの解放――日を滅ぼす九つの呪縛』(講談社+α文庫、20011年、原著2000年)と堀江邦夫『原発労働記』(講談社文庫、2011年、原著1979年)で、どちらも旧著の復刊である。 とりあえず高木仁三郎氏のから読んでみたが、私のような素人にもわかりやすく、ほとんど違和感なく読めた。原発に対する理論的且つ実証的な批判は、すでに十年以上前の時点で可能であり、喫緊の課題として提起されていたのである。 書の目次を以下に掲げる。 文庫版まえがき 的中した原発事故の予言   西尾漠 プロローグ――原子力の歴史の総括として 第1章 原子力発電の質と困難さ第2章 「原子力は無限のエネルギー源」という神話第3章 「原子力は石油危機を克服する」という神話第4章 「原子力の平和利用」という神話第5章 「原子力は安全」という神話第6章

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    sarutora 2011/05/28
  • 「助けて」という声 - heuristic ways

    先週土曜日に、NHKで『チャレンジド』(全5回)というドラマをやっていた。富田靖子さんや小池里奈さんが出るというので一応チェックしてみたのだが、「チャレンジド(challenged)」とは英語で障害者を意味する言葉とのこと。 都内の中学で国語を教える「熱血教師」塙啓一郎(佐々木蔵之介)は、「網膜色素変性症」という難病のため、やがて視力を失ってしまう。リハビリセンターで白杖の使い方やパソコン訓練、調理器具の使い方や点字の読み書きなどの生活訓練を受けるが、次に職業訓練という段になって、マッサージ師や鍼灸師の資格をとるよりも、教師の仕事を続けたいという情熱を諦めることができないことに気づく。調べたところ、盲目でありながら教師を続けている「盲目の教師の会」の人々がいることを知り、その会長に話を聞くために会いに行く。会長のアドバイスを得て、都内の各区の教育委員会にかけあってみるが、どこも取り合ってく

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    sarutora 2009/10/14
  • 祖母のいない世界で - heuristic ways

    年末に祖母が亡くなった。享年88歳。漠然と予期していたこととはいえ、いざ亡くなってみると、「心の準備」というものがまるでできていなかった。何か突然の出来事に驚き慌てふためくという感じで、この年末年始はバタバタと過ぎ去った。  祖母は昨年11月から近くの病院に入院していた。春頃までは母が連れ添って病院に通院したり、高齢者施設にショートステイしたりすることもできたのだが、足腰が弱ってだんだん歩くのが困難になり、家の中でも転ぶと危ないので、事のときやトイレのときは母や私が介助して移動を手伝うようになっていた。11月に入って急に右腕に力が入らなくなり、事や排泄にも全面介助が必要となった。夜中に一人でトイレに行こうとして、途中で転んで顔を打ったということがあったので、母がケアマネージャーの人に相談して、入院させることにしたのだった。 祖母はもともと耳が遠く、ここ2〜3年で認知症も進んでいた。母の

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    sarutora 2009/01/07
  • 契約と言葉 - heuristic ways

    私は週に1〜2映画をレンタルして見るようにしているが、今週見た『自虐の詩』(堤幸彦監督、2007年)は、特に期待していなかっただけに、予想外に面白かった。業田良家氏の原作漫画は読んだことがないので、とりあえずCGを駆使して表現したということで話題になった「ちゃぶ台返し」の場面が見たいという、その程度の気持ちだった(あと、安藤裕子さんが主題歌を歌っていることも)。実際、見始めてまもなく、お茶の間コントのように豪快なちゃぶ台返しの場面が繰り返されると、いつ幸江(中谷美紀)が「地雷を踏む」か、どのタイミングでイサオ(阿部寛)がちゃぶ台に手をかけるかという掛け合い(駆け引き)が絶妙に面白く、腹を抱えて笑ってしまった。ただ、実体験から言うと、ちゃぶ台返しというのは、後片付けが実に惨めなもので、子供の頃、親父が何回かこれをやって、ひどい目にあったことがある。知人の話では、『巨人の星』の星一徹がちゃ

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    sarutora 2008/06/21
    私は漫画しか読んでないですが、これを読むと長い原作にけっこう忠実のようですね。ちゃぶ台返しその後については http://portal.nifty.com/2006/11/27/a/
  • 自己抑制と外的強制 - heuristic ways

    1月から始まったTVドラマをひと通りチェックしてみて、とりあえず今のところ、『薔薇のない花屋』*1、『ハチミツとクローバー』*2、『あしたの、喜多善男』*3、『斉藤さん』、『交渉人〜THE NEGOTIATOR〜』*4、『だいすき!!』*5、『篤姫』*6ぐらいを続けて見ようかと思っているが、中でも『斉藤さん』はいろんな意味で面白い。このドラマの原作漫画である小田ゆうあ『斉藤さん』は読んでいないので、TVドラマを見た限りでの印象・感想になるが、私的にはミムラが幼稚園児のママ役をやっているというだけで感極まってしまうし、観月ありさがシリアス路線で社会的な正義や責任をあえて引き受けようとする凛とした大人の役を演じているのも頼もしい。前クールのドラマで同じく幼稚園の問題を扱っていた『暴れん坊ママ』(上戸彩・大泉洋主演)は、大仰なカリカチュアライズが鼻について途中で見るのを止めてしまったが、『斉藤さ

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    sarutora 2008/01/24
    ふーん、たしかに面白そうですね、これは。
  • 実力と立場 - heuristic ways

    われわれは、ここ最近のスポーツ界や芸能界の一連のスキャンダル報道を通じて、ある種の「道徳劇」(?)の上演を繰り返し見せつけられてきた。テーマは「下剋上とその挫折(自滅)」、ということではないだろうか。自らの「実力」で一気にスターダムにのしあがって(のしあがろうとして)きた者たちが、自らの無責任な・わがままな・無礼な言動によって、人々の怒りを買い、マスコミや世間から一斉にバッシングを受けることで、面目を失ってしまう…、というストーリー。「下剋上」とは、小林秀雄=柄谷行人によれば、「デモクラシイ(民主主義)」のことで、自らの実力で特権的な「立場」を勝ち取ろうとする激しい野望のことだと言っていいかもしれない。新自由主義的な「能力(実力)主義」の風潮も、こういう「下剋上」を歓迎するだろう。スポーツ界や芸能界は、一般社会よりも流動的で、「実力位」志向が強いといえるだろうから、スターダムの地位に上っ

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    sarutora 2007/11/01
    下克上/集団的な力能の合成(浅野俊哉『スピノザ――共同性のポリティクス』)
  • 井出草平『ひきこもりの社会学』 - heuristic ways

    私は特に深刻な「ひきこもり」の経験があるわけではないが、親「ひきこもり」的な資質があるとは思っているので*1、「自分の問題」を考える際の手掛かりとして、それなりに「ひきこもり」の問題に興味をもってきた。ただ、現実に「ひきこもり」の知人がいるわけでもなく、「ひきこもり業界」のこともまったく知らないので、最近はどうも自分には「ひきこもり」の問題に言及する資格がないのではないかという気がしていた(自分の経験以外に具体的な「判断材料」がないのだから)。つまり、それは「他者の問題」であり、当事者でもない人間が迂闊に軽率なことを言えるような事柄ではないように思えてきたのである。 ただ、先日、図書館で井出草平氏の『ひきこもりの社会学』(2007年)を借りて読んでみると、そこで紹介されている6人のひきこもり経験者の話、特に学校時代の話は自分の経験と重なり合うところも結構あるし*2、特別変わった人たち、特殊

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    sarutora 2007/10/01
  • 内橋克人『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』 - heuristic ways

    今の社会の構造や性格がどういうものかを考える上で、ヒューリスティックな物差しになるのは、「過去との比較」と「他国との比較」だろう。つまり、なぜ今のような社会になってしまったのかを歴史的に遡って検証することと、他国ではどうなのかを国際比較すること。 たまたま書店で内橋克人氏のこのを見かけて、パラパラと立ち読みしたところ、第一章「未来は見通せていた」で、日で80年代後半から90年代にかけて起きたこと(たとえば航空業界の規制緩和による賃金・労働条件の悪化、安全性の低下、公共性の喪失)は、アメリカではすでに70年代末から80年代にかけて起きたことと同じだということ、そのことを内橋氏は94年に文藝春秋の取材チームと組んで調査し、95年出版の『規制緩和という悪夢』で警告していたということが書かれている。 第四章「悪夢のサイクル」では、1970年代以降のチリ(ピノチェト政権)やアルゼンチンで進められ

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    sarutora 2007/01/06
    注2(追記)も興味深い
  • 岡崎玲子 meets ジジェク - heuristic ways

    岡崎玲子さんの名前は、前から『9・11ジェネレーション』という刺激的なタイトルの(未読ですが)の著者として知っていたが、昨日書店で『人権と国家――世界の質をめぐる考察』(スラヴォイ・ジジェク、訳・インタビュー岡崎玲子、集英社新書)というを見かけて吃驚してしまった。まさか直接ジジェク氏にインタビューしに行く日人の若い女性がいるとは思いもしなかったのだ。ただ、思い返せば、彼女は前にチョムスキー氏へのインタビューも出していたのだった(まだ19歳のとき!)。インタビューする側の知性や判断力が試される相手に会いに行くというのは勇気が要ることだと思う。今回初めて知ったのだが、岡崎さんは幼少時にアメリカ中国で暮らしたこともあり、なんと「公立小学校六年生で英検一級取得」したというすごい人なのだった。彼女の最初のが『レイコ@チョコレート校』ではないことにも初めて気づいた(『レイコ@チョート校』

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    sarutora 2006/11/21
  • 多原香里『先住民族アイヌ』 - heuristic ways

    多原香里さんは、昨年秋の衆議院議員選挙で鈴木宗男氏擁する「新党大地」から比例区候補として出馬した人である。当時はよく知らなかったのだが、後で先住民族の問題に詳しい方から、月刊『現代』11月号掲載の魚住昭「ムネオの野望、新党大地の可能性」という記事をメールで教えていただき、そのとき多原香里さんがアイヌ民族出身で、フランスの大学院で先住民族の研究をしてきたという異色の経歴をもつことを知り、この人は一体どういう人なんだろうと関心を刺激させられたのだった。新党大地のことはいまだによく知らないが、党首の鈴木宗男氏が歌手の松山千春氏(「新党大地」は彼の命名)や元外務省の佐藤優氏らとコネクションをもっていることは興味深いと思っている。新党大地の比例区候補のもう一人、田中いづみさんも「札幌国際大学地域社会研究科の大学院生」とのことで、(当時無名の)多原さんや田中さんに注目するあたり、鈴木氏は只者ではないの

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    sarutora 2006/05/09
  • http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20060503

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    sarutora 2006/05/03
    エビちゃんと日本人!w
  • 仕事の「目的意識」 - heuristic ways

    米国とカナダの若者が今日就く典型的な仕事は、北米においてもっとも低賃金で地位のいちばん低い職種――小売部門と外産業と娯楽サービス部門の「行き詰まりの仕事」(dead-end jobs)もしくは「マック仕事」(McJobs)である。(スチュアート・タノック『使い捨てられる若者たち』) dead endとは道や道路の「行き止まり」「袋小路」という意味で、dead-end jobsとは「先の見込みのない仕事」ということだ。メルヴィルの『代書人バートルビー』にdead letter(配達不能郵便)という言葉が出てきたが、辞書を引くと、dead capital(寝ている資金)とかdead land(不毛の土地)という用例もあるらしい。私は20代の頃、とりあえず一時の「腰かけ」のつもりでアルバイト生活を始めたが、30代になっても出口(就職先や就職に対する内的動機)は見つからず、そういう生活がdead

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    sarutora 2006/05/03
  • スチュアート・タノック『使い捨てられる若者たち』 - heuristic ways

    こういうを待っていたのだ、私たちは! 思わずそう快哉を上げたくなる。このは私たちの職場で何が起きているか、私たちがそこで何を経験しているかを観察し、調査し、聞き取り、書き留め、分析し、理論化した素敵なだ。「私たち」とは、主に飲業や販売業などのサービス労働、一時的で不安定ないわゆる「腰かけ仕事」をしている若者や労働者の総称である。20代の頃から現在に至るまで、喫茶店・電器店・飲店・コンビニ等で働いてきた私には、こので取材・インタビューされている若者や労働者たちがまるで自分の同僚のように身近に感じられる。彼らのことが体験的によくわかる。たとえば、こんな声。人がひっきりなしにやってきて、何ごとも終わらないし、はじまらない、いつもサービスを提供している、しかも同じサービスを何度も何度も。客が当に意地悪だったり、意地悪な感じで話したりしてきたら、こっちも意地悪な感じで話し、嫌味ったらし

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    sarutora 2006/04/27
  • no more bases - heuristic ways

    ■Cocco、沖縄 私はほんの数年前まで沖縄のことにも、米軍基地のことにも、あまり関心がなかった。歴史的事実を知らなかったし、現状に目を向ける必要さえ感じていなかった。2000年7月に名護市で開催された沖縄サミットも、ほとんど無関心でやり過ごした。 かろうじて私が興味をもっていたのは、Coccoが沖縄出身の歌手であり、彼女が沖縄に特別な想いを寄せているということだった。*1 私はCoccoの「ポロメリア」という曲が特に好きなのだが、最近ようやく知ったのは、ポロメリアとは一般には「プルメリア」で知られている花であるということ。*2 「ポロメリア」は、次のような歌詞で始まる。 金網の向こう 陽に灼け果て 干からびてく 通り道 この「金網」とは、たぶん米軍基地の金網なんだろうなというイメージは、なんとなく私にもあった。だが、この「金網」にCoccoが、そして沖縄の人々がどういう想いを抱いているか

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    sarutora 2006/04/13
  • 自己差別と自己変化 - heuristic ways

    『知識人と社会』の著者・三宅芳夫氏のプロフィールを見て、氏が『批評空間』第Ⅱ期19号(1998年)に、「留保なき否定性――二つの京都学派批判」という論文を寄せていることに初めて気づいた。マイケル・ハートの「監獄の時間」も載っている号だが、どうやら私は三宅氏の論文を読んでいなかった。ざっと目を通すと、これは、竹内好と武田泰淳(二人は戦時期、ともに「中国文学研究会」のメンバーであった)が京都学派(高山岩男や高坂正顕)の「世界史の哲学」(「大東亜戦争」を正当化するイデオロギーであったとされる)に対してどういうスタンスを取り、いかに批判的な視座を獲得していったかを論じたもので、私が面白いと思ったのは、フランス第三共和制の下で「人間主義」「権利」「市民」といった普遍的概念に(人種差別的な帝国主義=植民地主義の)抑圧と隠蔽を見出したサルトルを論じている著者が、日の文脈では、竹内好と武田泰淳という二人

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    sarutora 2006/02/27
    >「ネグリチュード」を「フリーター」「ひきこもり」と読み換え「黒人性」を「非正規(労働者)性」あるいは「無職(無力)」と置き換えるならば、この一節はほとんど今日の日本の状況を物語っている
  • 共和制をめぐって(3) - heuristic ways

    ■天皇抜きのナショナリズム 1989年に昭和天皇が亡くなった日、私はたしか映画館に行ったと記憶する。何の映画を見たかは覚えていない。天皇の死に特に関心がなかった、というより、むしろ「無関心であるべき」というのが当時の私の考えだったように思う。*1 笙野頼子氏の『なにもしてない』(1991年)という小説は、「天皇即位式の前後」に「接触性湿疹をこじらせた」「私」が部屋に閉じこもって、いろいろ想像や妄想を巡らせたり、記憶や感覚を探ったりする日々を物語っているが、皇室報道や沿道の厳重な警備の様子が時折点描されて、「私」が「この国の無力な小市民」であることを対照的に浮かび上がらせると同時に、しかしその「私」のリアリティ(たとえば皮膚の「痒み」)こそが目下の関心事なのだという風に書かれていると思う。少なくともそこには、「私」の「密室空間」を、「皇室」の儀式や社会の「警備」状況に対置させるという意志があ

  • heuristic ways - 断想 怠惰な人間/「非人間化」のイデオロギー的前提条件

    ■スチューデント・アパシー 斎藤環氏の『社会的ひきこもり』(1998年)を読んでいたら、「一九六一年にスチューデント・アパシーを初めて記載したP・A・ウォルターズ」という記述があって、「!」と思った。ベティ・フリーダンが報告していた「大学を退学したある青年」の事例は、年代的に言っても「スチューデント・アパシー」に近いケースだったのではないかと。ウォルターズはハーバード大学保健センターの精神科医であり、1961年にアパシー学生の4症例を報告しているらしい。私が注目したのは、この「スチューデント・アパシー」が、「男らしさ」の問題と「競争の回避」に関わっているということ。 スチューデント・アパシーは男性にしばしばみられ、テストなどの競争的場面を避ける傾向があります。このため男性としてのアイデンティティが発達しにくくなり、これが主な原因となってアパシー状態が続きます。また、「競争の回避」は一種の攻

    sarutora
    sarutora 2006/02/18
    書こうと思ってたこととすごく関連します
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