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批評と哲学に関するtxmx5のブックマーク (27)

  • 日本精神分析再考(講演)(2008) - 柄谷行人

    今日、私が「日ラカン協会」に招かれたのは、かつて「日精神分析」という論文の中でラカンに言及したからだと思います。そこで私は、ラカンが日について、特に、漢字の訓読みの問題について述べたことを引用しました。今日、それについて話すつもりなのですが、その前に少し経緯を説明させていただきます。「日精神分析」という論文は一九九一年頃に書いたもので、「柄谷行人集第4巻」(岩波書店)に収録されています。これは『日精神分析』(講談社学術文庫)と題するとは別のものです。後者は2002年に書いたもので、この時点では、前に書いたものに嫌気がさした、というようなことを述べています。かつて「日精神分析」を書いたとき、自分は日人論、日文化論を否定するつもりで書いたけど、結局その中に入るものでしかなかった、と。実際、それ以後、私は「日論」について一切書いていません。だから、現在の気分としては、読み返す

  • 東浩紀さん、大ヒット著書「訂正する力」の源は…「僕は本が読めれば、それで十分、幸せなんです」 - スポーツ報知

    新書「訂正する力」(朝日新聞出版)が好調だ。1万部売れたらヒットの今の出版界で昨年10月末の発売以降、6万部突破という驚異的な売れ行きを見せている。著者は批評家・東浩紀さん(52)で、哲学の専門家でもある。討論番組などでも知られた論客だが、聞いてみると、30年間活動していてスポーツ新聞のロングインタビューは「初めて」とのこと。難解な話は抜きにして一体どんな素顔の持ち主なのでしょうか。「時の人」に会いに行ってきました。(内野 小百美) 優しい目をした人だ。映像で時折見せる舌鋒(ぜっぽう)鋭いやり取り。普段から“ピリピリの人”だったらどうしよう…。こちらから取材を申し込んでおきながら一抹の不安。しかし心配は杞憂(きゆう)で、どこか「くまのプーさん」を思わせるほんわかした印象。受け答えも柔和そのもの。「スポーツ紙の取材は今までなかったので珍しいなと思って」。話題の「訂正する力」が、これまでの読者

    東浩紀さん、大ヒット著書「訂正する力」の源は…「僕は本が読めれば、それで十分、幸せなんです」 - スポーツ報知
  • 毎日コウメ太夫を批評していたら〜〜〜本人から感涙もののアンサーが来ました〜〜〜

    哲学者コウ・メダユー @koume_philo 一般に流布している言説だが、北斎の描く波は、ハイスピードカメラで捉えた波と似ているという。映像技術の発達が波の仔細を明らかにする以前に、北斎は波を鋭く観察していた。一方、小梅氏は波をさらに観察し、北斎とも異なる鑑賞方法としてちゃんちゃんこが「ふぁふぁ」している様を波に見出すのだ。 twitter.com/dayukoume/stat… pic.twitter.com/7ibRkzphsn 2022-11-14 23:45:31 哲学者コウ・メダユー @koume_philo 芸人、コウメ太夫氏の持ちネタであるチクショー!において、“〜と思ったら、〜でした”というフレーズが頻出する。 この何気無いフレーズは我々に人類史における地位転変―天動説から地動説への転変など―を思い起こさせる。 一体、小梅氏は何を伝えようとしているのか。 哲学的視点だけで

    毎日コウメ太夫を批評していたら〜〜〜本人から感涙もののアンサーが来ました〜〜〜
  • アートとラップ、アート・ラップの再検討(Earl Sweatshirtとbilly woodsを例に)|久世

    アートとラップ、アート・ラップの再検討(Earl Sweatshirtとbilly woodsを例に) はじめに私たちの生きる現代が獲得したものは、言うことの疚しさだった。 現代という「最新」の時代は、全ての時代にまして物質的な可能性が開かれるのと同時に、「最も経験した時代」として概念的な不可能性が現出する時代でもあった。 例えば思考と存在の統一の崩壊、動物倫理という破壊的な論理的正当性、自由意志が存在しないという事実の確認―そういった不可能さ、不条理が押し上げられ、現前されていくだけの時代。 しかしそれでも突き動かされなければならず、大きな物語を失いながら退屈と繰り返しという平和の暴力性と処世上の苦悩に悩まされ、より正義らしいものを選択するしかない時代。 つまり"自分の限界を避けることができず、さりとてそこに留まることもできない不可能性"をまざまざと見せつけられる時代。 そんな大きな苦悩

    アートとラップ、アート・ラップの再検討(Earl Sweatshirtとbilly woodsを例に)|久世
  • 場をしのぐこと——命令形についての一考察|森脇透青

    ※ 『文藝』2021年春季号に掲載されたいくつかの論考についての感想、14700文字程度。有料設定は投げ銭用なので、無料で全文読めます。 現代とは何の謂いか現代。/着地点はねえ/ずっと飛んでるキブン/ヘンタイの思想は共感できん/四季が巡り/色とりどりの人類模様/俺はいつも動揺を押さえきれん(KIMOCHI - ZAZEN BOYS)それにしても「現代」とはいつ、どこにあるのでしょうか。周りを見渡す限り、私を含む数多くの人たちが、「現代」の不定形さや流動性に怯え、その不確かな輪郭を掴もうとしているように思われます。あるいは、他の時代と異なる、「現代」の特徴、そのダイナミズムを捉えようとしているとも言えるでしょう。 何が新しくて、何が旧いのか。思想とか批評とか哲学とか文学とかいわれる極めて抽象的で、どこか現実実のない営為が、たとえわずかでも一定数の読者を獲得している背景に、「いま・ここ」を特徴

    場をしのぐこと——命令形についての一考察|森脇透青
  • 東浩紀「これからの知識人は"もの書き"より"話し手"に変わっていく」 なぜ「動画配信」に力を入れるのか

    人は「文章に」ではなく「人に」お金を払いたかった 【東】これまでも人はコンテンツではなく、人間にお金を払ってきたんだと思うんです。ライター、言論人、なんでもいいんですが、みんな自分たちを「もの書き」だと思ってきた。なぜならば、いままでは文章を書くしか方法がなかったから。でも、人がお金を払いたかったのは「文章に」ではなく「人に」なんですよ。その意味で、しゃべるとか、動画っていうのはすごく向いてるんですよね。 文章の役割がなくなったということではけっしてないんだけど、すごい昔に戻れば、知識人だって街頭でしゃべる人間であって、文筆を生業としているわけではなかった。近代、新聞とか雑誌のシステムが普及していくなかで知識人は文章を書く人になった。そう考えると元の状態に戻ってるんじゃないかとも思うんですよね。こいつおもしろいぞっていう部分をいかに効率よく世界に届けていくか。 そのベースで集めたお金で取材

    東浩紀「これからの知識人は"もの書き"より"話し手"に変わっていく」 なぜ「動画配信」に力を入れるのか
  • 東浩紀「緊急事態に人間を家畜のように監視する生権力が各国でまかり通っている」 | AERA dot. (アエラドット)

    東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン代表。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数この記事の写真をすべて見る ※写真はイメージ(gettyimages) 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。 *  *  * 生権力(せいけんりょく)という言葉がある。フランスの哲学者フーコーの概念で、人間を家畜のように捉える権力を意味する。たとえば税制を変えれば出生率も変わるが、そのようにして集団を「管理」するのが生権力である。 生権力の働きは、非人称で政治的に中立なふりをしてくるので抵抗が難しい。

    東浩紀「緊急事態に人間を家畜のように監視する生権力が各国でまかり通っている」 | AERA dot. (アエラドット)
  • 東浩紀、『動物化するポストモダン』刊行から18年後の現在地を語る

  • ニュータウンとプロレスからひもとく、町と身体と物語 | M.E.A.R.L.

    町には様々な語り口がある。歴史的な文脈から、地政学的な見地から、あるいは当事者への聞き取りから。近年では観光立国としての日のあり方をベースに、インバウンド対策や、それに応じたまちづくりのあり方なども積極的に議論されている。ここで時間を90年代に巻き戻そう。当時多くの社会学者や評論家によって、さかんに語られていた町としていわゆるニュータウンがあった。 それまでの土地の持つ歴史性から離れ、造成された土地の上に利便性や快適性をベースとしてつくられたニュータウン。1960年代から日各地でつくられたそんな「町」は、高度経済成長期の終わりとともに影を帯び始め、90年代には歴史の終焉というアングルでもって現代日を論じる上でのモチーフとしても盛んに活用されていた。 それから20年。居住者の高齢化、設備の老朽化など、ニュータウンが新たな問題を抱える中、ニュータウン出身の現代美術家・中島晴矢の個展「バー

    ニュータウンとプロレスからひもとく、町と身体と物語 | M.E.A.R.L.
  • 『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの

    ポストヒューマンから読み解く『天気の子』の可能性 新海誠の監督第7作となる最新作『天気の子』が7月19日に、いよいよ公開されました。興行収入250億3000万円という日映画歴代2位の大記録を打ち立て、ハリウッドでのリメイクも決定し、さまざまな意味で日アニメの転換点になったとも評価された前作『君の名は。』(2016)から3年ぶりの待望の新作です。公開後の観客動員も好調なばかりか、批評的にも、すでに『君の名は。』以上の賛否両論を巻き起こしているようです。 『天気の子』は、伊豆諸島の離島から家出してきた高校生の少年・森嶋帆高(声は醍醐虎汰朗)と、天気を局地的に操る不思議な能力を持った「100%の晴れ女」天野陽菜(声は森七菜)が、異常な降雨が続くオリンピック後の東京の街で出会うボーイ・ミーツ・ガールの物語です。周りに身寄りもなく、貧しい彼らが陽菜の特殊能力を活かして晴れ間を呼び寄せるビジネスを

    『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの
    txmx5
    txmx5 2019/07/31
    文:渡邉大輔
  • 思想・哲学をビジネスにするにあたって「ゲンロンがしないこと」は何だったか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【前編】|FINDERS

    CULTURE | 2019/04/01 思想・哲学をビジネスにするにあたって「ゲンロンがしないこと」は何だったか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【前編】 批評家・思想家・作家として、そして出版社「ゲンロン」の代表(インタビューののち退任)として日で類を見ない独自のポジショ... 批評家・思想家・作家として、そして出版社「ゲンロン」の代表(インタビューののち退任)として日で類を見ない独自のポジションを築き上げてきた東浩紀氏。同社の事業の核として発行してきた批評誌『ゲンロン』が、東氏の単著『ゲンロン0』を含め3年間で全10冊を刊行し、第一期が終了となった。 このタイミングで東氏にインタビューを敢行し、『ゲンロン』3年間の振り返りおよび、今後の事業展開、そして作家としての東氏がどんなものを書いていくのかということをうかがった。 思想を外へ外へ開いていこうという東氏の試みは、ますます硬

    思想・哲学をビジネスにするにあたって「ゲンロンがしないこと」は何だったか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【前編】|FINDERS
  • フィルカル

    分析哲学と文化をつなぐフィルカル、最新号『フィルカル Vol. 8 No. 3』が、12月20日(水)に発売となります。 書影 内容紹介 分析哲学と文化をつなぐ哲学雑誌「フィルカル」の最新号(Vol. 8, No. 3)。 特集「大澤絢子著『「修養」の日近代』」では、修養・自己啓発・〈宗教っぽいもの〉をめぐり、現代人の「自分磨き」の精神構造に迫ります。 赤江達也(社会学・関西学院大学)、島薗進(宗教学・東京大学名誉教授)ほか幅広い分野から集まった書き手が「修養」を考える。 特集「スピノザと分析哲学」では、合理主義の〈彗星〉スピノザを、現代英米哲学の視点から解きほぐす。ドゥルーズともゲル―ともちがう、アクチュアルなスピノザ像が浮かび上がる。上野修(大阪大学名誉教授)をはじめ、今日のスピノザ研究をリードする論者が集う。 特集「恋愛とセックスの哲学」では、セックスの価値、性的モノ化、第三者との

    フィルカル
  • なぜ今!?「エンドレスエイト」の悪夢を分析哲学で読み解く本がループまみれの奇書だった | オモコロブロス!

    ……え!? エンドレスエイトの!? 2018年に!? 『エンドレスエイトの驚愕 ハルヒ@人間原理を考える』p.389 何いってんの????? キョンくんでんわ 哲学者が書いた「エンドレスエイト」読解が出た…2018年に 『エンドレスエイトの驚愕 ハルヒ@人間原理を考える』というを読みました。2018年に出たです。 著者は三浦俊彦。東京大学文学部教授で、美学・分析哲学の専門家です。 読んでみたらハチャメチャに面白くてためになり抱腹絶倒、狂気と恐怖と謎のカタルシスすら感じるとてつもなく変なだったのでご紹介します。 エンドレスエイトって? アニメ『ポプテピピック』で、30分の前半・後半で同じ映像を繰り返していることが話題になりましたが…… もっとヤバい「繰り返し」が昔もありましたよね? そう、「エンドレスエイト」です。 アニメ『涼宮ハルヒの憂』シリーズ最大の驚愕と絶望と議論を巻き起こ

    なぜ今!?「エンドレスエイト」の悪夢を分析哲学で読み解く本がループまみれの奇書だった | オモコロブロス!
  • トップページ | 読書人WEB

    なぜ、を読むのか? Why do we need to read books なぜ、を読むのか?書『読書人カレッジ2022』の執筆者の一人である明石健五は、それを「考えるため」であると言います。 ある未知のものに出会ったとき、そこに驚きと感動が生まれる。そうして、初めて自分なりに思考することができ、それを人に伝えることができるようにもなる。 そういう過程を生きられる人のことを、「知性ある人」というのではないか。では、「知性」を自らのものにするためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「読み」「考え」「書く」ことを通してしか感得できないのではないか。 新しい出来事や局面に出会い、答えのない問題を考えることで鍛えられていくものが、確かにある。そういう問題は、すぐれたの中にいくつも見つけることができます。 繰り返し考えることによって、自分の思考を鍛えていく。それによって、今の世の

  • 間テクスト性 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年11月) 間テクスト性(かんテクストせい)は、テクストの意味を他のテクストとの関連によって見つけ出すことである。テクスト間相互関連性と訳されたり、英語からインターテクスチュアリティーと呼ばれたりすることもある。 ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照したりすることをいう。但し「間テクスト性」という用語自体、ポスト構造主義者ジュリア・クリステヴァが1966年に作り出して以来、何度も借用され、変形されてきた。 批評家ウィリアム・アーウィンが言うように、この用語は使用者によって十人十色の意味を持って今日に至っており、クリステヴァの来の見

  • 先制第一撃批判――新芸術校成果展講評の余白に - REALKYOTO

    2016年2月26日に開催された「ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校」の第一期成果展「先制第一撃」の講評会に審査員として参加したのだが(他の審査員は岩渕貞哉と夏野剛、そして主任講師の黒瀬陽平とゲンロン主催者の東浩紀)、講評会という性格と時間の制約のため複雑な問題もかなり乱暴な形で語るほかなかった。講評会は公開され、ニコニコ動画でも中継されたので、誤解の余地を少なくしておいたほうがいいと考え、以下に私の発言の一部に補足を加えたものをあらためて公開する。 * 新芸術校の主任講師である黒瀬陽平さんは、どこかで授業を聞いて、ぼくは良い教師ではないと判断したらしい。それで、ぼくは新芸術校の授業に呼ばれたことがない。「そもそも良い教師・良い学校などという幻想を抱くべきではなく、すべての教師は反面教師でありすべての学校は廃墟であると考えるべきだ」という持論のせいかもしれませんが、確かにぼくは人にものを

  • サイト公開終了のお知らせ | ゲンロンスクール

    「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 新・批評家育成サイト」は、2022年8月31日をもって公開を終了いたしました。

    サイト公開終了のお知らせ | ゲンロンスクール
  • http://www.mammo.tv/interview/archives/no086.html

  • 『分析美学基本論文集』刊行記念「分析美学は加速する──美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ最新版」 - 紀伊国屋書店新宿南店ブックフェア(2015年9月8日~10月25日)

    このページは、森 功次さんプロデュースによるブックフェア 「分析美学は加速する」 をご紹介するために、WEBサイト「日曜社会学」の中に開設するものです。 ブックフェアは、勁草書房の企画協力を得て、紀伊國屋書店新宿南店5階にて2015年9月8日から10月25日まで開催されました。フェアの詳細については、紀伊國屋書店、勁草書房の特設ページもご覧ください: 紀伊國屋書店 新宿南店 勁草書房 フェア中、店舗では 選書者たちによる解説を掲載したパンフレットを配布しましたが、このページにはその内容の一部を掲載しています。 2015.12.30 解説文一つを掲載しました。これですべての項目が掲載されました。 2-B.「分析美学の基書」 (森 功次) 2015.12.24 解説文一つを掲載しました。 2-A.「分析美学史」 (西村清和) 2015.12.14 解説文一つを掲載しました。 3-G.「物語」

    『分析美学基本論文集』刊行記念「分析美学は加速する──美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ最新版」 - 紀伊国屋書店新宿南店ブックフェア(2015年9月8日~10月25日)
  • アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い

    稿は、ストリート・カルチャーの諸々の要素が、原因や責任を問われうる証拠=エビデンスを十分残さないでたちまちに変質し霧散していくという、そうした刹那性を、今日の文化状況に抗するかたちで改めて肯定しようとするものである。2010年代の日は、生のあらゆる面において、いわば「エビデンシャリズム」(エビデンス主義)が進展している時代ではないだろうか。 1 エビデンシャリズム批判 稿では、エビデンス(カタカナで言われる、広い意味での証拠・証憑、質的であるより量的なものを望む傾向がある)を残し続けなければならない、エビデンスを挙げていわゆる「説明責任」(アカウンタビリティ)を果たせるようつねに準備しておかねばならない──その種の説明はしばしばひどく形骸化しているが──、という強迫的な「正しさ」の緊張感をいや増しに増すことを「エビデンシャリズム」と名づける。(1)この用語は、エビデンスが健全な議論に

    アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い