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*Artと批評に関するtxmx5のブックマーク (44)

  • 新年度向け!美術必読リスト|みなみしま

    当は必読なんてはないけど、以下は手始めに気にしておくと良いかもってです。(順不同) 2024年4月24日から始まるアートの新番組「みなみしまの芸術時評」内で、100冊から選出したベストブック10を発表しますので、まずはどこから読めばいいか分からない方は、ぜひご視聴ください。 なお100冊のリストについては過去の視聴者の特典とさせていただいていましたが、もし気で100冊読むという意欲のある方はご連絡ください。 松井みどり『アート:“芸術”が終わった後の“アート”』 山浩貴『現代美術史 欧米、日トランスナショナル』 →ぱっと読んで自分と関係のある現代アートの歴史を知ろう。そして気になるものは調べ始めよう。 デイヴィッド・ホックニー『絵画の歴史』 →作家の語る美術史というジャンルがあるんです!たぶん エルンスト・H・ゴンブリッチ『棒馬考』、『美術の物語』 →『棒馬考』が面白いよ。

    新年度向け!美術必読リスト|みなみしま
  • 文化時評9:松江泰治の『gazetteerCC』と濱谷浩の『日本列島』「風景」ではなく(前編)文:清水 穣|REVIEWS & ARTICLES|REALKYOTO FORUM|ICA京都

  • 「誰が」そこから見ているのか? 清水穣評 松江泰治「makietaTYO」展

    「誰が」そこから見ているのか? 清水穣評 松江泰治「makietaTYO」展自身が設けたルールに沿って、世界各地の地表を捉える写真作品を手がけてきた松江泰治。東京の都市模型を被写体とした新作展「makietaTYO」がTARO NASUで、「CC」「makieta」の2シリーズを紹介する個展「松江泰治 マキエタCC」が東京都写真美術館にてそれぞれ開催された。地上から撮影した「CC」、空から撮影した「JP-」、そして模型を撮影する「makieta」の手法が露出させる政治的な意味や、眺める主体について清水穣が論じる。 文=清水穣 松江泰治 TYO 211249 2021 発色現像方式印画 50×62.5cm (C) TAIJI MATSUE Courtesy of TARO NASU マキエタ、仮構される主体 TARO NASUでの松江泰治の個展は、同時期に開催された東京都写真美術館での「マキ

    「誰が」そこから見ているのか? 清水穣評 松江泰治「makietaTYO」展
  • アートとラップ、アート・ラップの再検討(Earl Sweatshirtとbilly woodsを例に)|久世

    アートとラップ、アート・ラップの再検討(Earl Sweatshirtとbilly woodsを例に) はじめに私たちの生きる現代が獲得したものは、言うことの疚しさだった。 現代という「最新」の時代は、全ての時代にまして物質的な可能性が開かれるのと同時に、「最も経験した時代」として概念的な不可能性が現出する時代でもあった。 例えば思考と存在の統一の崩壊、動物倫理という破壊的な論理的正当性、自由意志が存在しないという事実の確認―そういった不可能さ、不条理が押し上げられ、現前されていくだけの時代。 しかしそれでも突き動かされなければならず、大きな物語を失いながら退屈と繰り返しという平和の暴力性と処世上の苦悩に悩まされ、より正義らしいものを選択するしかない時代。 つまり"自分の限界を避けることができず、さりとてそこに留まることもできない不可能性"をまざまざと見せつけられる時代。 そんな大きな苦悩

    アートとラップ、アート・ラップの再検討(Earl Sweatshirtとbilly woodsを例に)|久世
  • いとうせいこう meets 久保田成子。シリーズ:私が見た「Viva Video! 久保田成子展」(1)

    「もうひとりのローズ・セラヴィ」 振り返れば、久保田成子はつねにそこにいた。しかし私が気づかなかった。 たとえばナムジュン・パイクのパートナーとしてその名前を現代美術史のなかに見ることは少なからずあった。しかし彼女自身の作品に注目したり、そのアクションの先見性に感嘆したりということがなかった。 これは恥ずべきことであった。 今回新潟県立近代美術館を皮切りに東京都現代美術館へとグランドツアーした「Viva! Video 久保田成子展」がなければ、私は無知蒙昧なまま現代美術を、とくに映像系のそれを見る晩年を送っていただろうし、にもかかわらずなんらかの発言などをしていたに違いないわけで、これは当に恥ずかしい。 ことに自分がある程度くわしいと思っているマルセル・デュシャンの傍らにはっきりと久保田が存在していたことに、私はいまになって目を開かされたのである。 大学に入学してすぐ、私の二十代の始まり

    いとうせいこう meets 久保田成子。シリーズ:私が見た「Viva Video! 久保田成子展」(1)
  • 畠中実 meets 久保田成子。シリーズ:私が見た「Viva Video! 久保田成子展」(2)

    未来が映ったヴィデオを見るとき〜 久保田成子は明日のヴィデオ風景を予見した ヴィデオ・カメラを持った久保田成子のポートレートが印象的である。それは、この展覧会のタイトル「Viva Video!」(ヴィデオ万歳!)とともに、久保田成子というアーティストがいかにヴィデオというメディアの持つ表現に可能性と希望を感じていたかを表しているように見える。たしかに、ヴィデオ・アートの時代とでもいうべき熱が、あの時代のニューヨークにはあっただろう。展覧会カタログに再録された久保田によるテキスト「ヴィデオ—開かれた回路」(1974)を読めば、「メディアの改造なしに社会の改造はありえない」と、まるで「ヴィデオ芸術」宣言のようである。それは、ヴィデオ・アート以前に、久保田も関わりを持っていた「ソニック・アーツ・ユニオン」の活動のように(今回、メアリー・ルシエらとの「ホワイト ブラック レッド イエロー」の活動を

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  • デリケートな協働──3.11を契機として制作された映画・映像の、その後:フォーカス|美術館・アート情報 artscape

    私は2014年に、「映像の交換性──3.11を契機として制作された映画・映像について」と題した文章をここに寄せて、「震災以後の映画・映像は、作品を作品として完結させることよりも、さまざまな行為や出来事を媒介する方向──言い換えるならばアーカイブ的な方向においてこそ開かれていると言えるだろう」と結んだ。そして震災から5年目をむかえる2016年。原発事故などなかったかのように再稼働は進められ、丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだものは、今なおこの社会に根深く存在しているようにみえる。このような状況の推移のなかで、その後、映像表現の変化はどのように表われたのだろうか。今回、私は3.11を契機として制作された映画・映像のその後について、思うところを論じてみたいと思う。 濱口竜介監督『ハッピーアワー』 酒井耕とともに東北記録映画三部作『なみのおと』(2011)、『なみのこえ 気仙沼』(2013)、『な

  • 歴史との関わりをどう展示するか。ダニエル・アビー評「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展

    歴史との関わりをどう展示するか。ダニエル・アビー評「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展東京都現代美術館で開催され、話題を呼んだアートディレクター・デザイナーの石岡瑛子(1938〜2012)の個展。展について、写真研究者のダニエル・アビーが「形(form)」をキーワードに論じる。 文=ダニエル・アビー 肉体を持った形:神殿としての石岡瑛子展 平日の昼間に東京都現代美術館で開催された石岡瑛子の回顧展「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」に行った際には、大勢の人がいたにもかかわらず奇妙な、言ってみれば礼拝的な沈黙が会場に広がっていた。石岡は多くの領域にまたがって活躍した巨大な存在だからこそ、この展示はある意味その人物を崇拝する場になっていた。 展覧会冒頭のいちばん広い展示室「Timeless:時代をデザインする」に展示されていたのが、石岡の初期のデザインの仕事だ。主にポスタ

    歴史との関わりをどう展示するか。ダニエル・アビー評「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展
  • 芸大受験マンガ『ブルーピリオド』を男性性から読み解く(阿部 幸大) @gendai_biz

    ※編集部注:記事には『ブルーピリオド』の物語の展開や核心にふれる記述があります。同作の魅力をより深く味わいたい方には、ぜひコミック編と記事をあわせてお読みいただくことをお薦めします。 少年の「男らしさ」を問いなおす 『ブルーピリオド』は、2017年から講談社の月刊誌『アフタヌーン』にて連載中のマンガである。そのストーリーは、男子高校生が芸大合格を目指して奮闘するというもので、作者の山口つばさも芸大出身であるという。 2019年の「マンガ大賞」第3位、同年「このマンガがすごい」オトコ編4位と、すでに高い評価を得ている。最新コミックス第6巻で「受験編」が完結したところだ。 稿の目的は、『ブルーピリオド』の魅力を語ることのほかに、この作品を読みながら、現代の少年マンガにおける「男性性」のありかたについて考えることにある。論に入るまえに、すこし背景を説明しておこう。 男性学(men’s

    芸大受験マンガ『ブルーピリオド』を男性性から読み解く(阿部 幸大) @gendai_biz
  • BLOGOS サービス終了のお知らせ

    平素は株式会社ライブドアのサービスを ご利用いただきありがとうございます。 提言型ニュースサイト「BLOGOS」は、 2022年5月31日をもちまして、 サービスの提供を終了いたしました。 一部のオリジナル記事につきましては、 livedoorニュース内の 「BLOGOSの記事一覧」からご覧いただけます。 長らくご利用いただき、ありがとうございました。 サービス終了に関するお問い合わせは、 下記までお願いいたします。 お問い合わせ

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  • 騒動を越えて、作家と作品の試みをレビューする。長谷川新 評 「あいちトリエンナーレ2019」

    騒動を越えて、作家と作品の試みをレビューする。長谷川新 評 「あいちトリエンナーレ2019」「表現の不自由展・その後」を発端に議論が巻き起こり、混乱のなか閉幕間際に全展示の再開が実現、会期終了を迎えた「あいちトリエンナーレ2019」。そのキュレーション、そして会場に「在り続けた」作品について、インディペンデント・キュレーターの長谷川新による展評の試み。 長谷川新=文 あいちトリエンナーレ2019 情の時代、展評。 たくさんの人が行動を起こし、多くの言葉を費やしている。まずそれらを読んでほしい(*1)。何よりもまず、河村市長や官房長官らの言動、電凸という手段でもって他者を一方的に攻撃すること、そして、文化庁による不明瞭な手続きのもとでの助成金の不交付決定は、それぞれ全力で非難しなければならない。こうした不正がなし崩し的に許容されてしまうような社会に自分たちが生きている、という現実を変えなけれ

    騒動を越えて、作家と作品の試みをレビューする。長谷川新 評 「あいちトリエンナーレ2019」
  • 演奏行為が織り成すメタ・ミュージック | ele-king

  • 現代の作家は「ジェンダー」に応答できているか? 美術家・黒瀬陽平インタビュー シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(7)

    現代の作家は「ジェンダー」に応答できているか? 美術家・黒瀬陽平インタビュー シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(7)美術手帖では、全11回のシリーズ「ジェンダーフリーは可能か?」として、日の美術界でのジェンダーバランスのデータ、歴史を整理。そして、美術関係者のインタビューや論考を通して、これからあるべき「ジェンダーフリー(固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること)」のための展望を示していく。第7回では、カオス*ラウンジの代表であり、「ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校」で5年にわたり講師を務め、アーティスト育成のための指導を行ってきた黒瀬陽平に話を聞いた。 ※編集部注:黒瀬陽平はカオス*ラウンジ 新芸術校の事業において、アシスタントスタッフへのハラスメント行為が発覚。被害者が詳細を告発する事態となった。こうした自体は深刻なも

    現代の作家は「ジェンダー」に応答できているか? 美術家・黒瀬陽平インタビュー シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(7)
  • ニュータウンとプロレスからひもとく、町と身体と物語 | M.E.A.R.L.

    町には様々な語り口がある。歴史的な文脈から、地政学的な見地から、あるいは当事者への聞き取りから。近年では観光立国としての日のあり方をベースに、インバウンド対策や、それに応じたまちづくりのあり方なども積極的に議論されている。ここで時間を90年代に巻き戻そう。当時多くの社会学者や評論家によって、さかんに語られていた町としていわゆるニュータウンがあった。 それまでの土地の持つ歴史性から離れ、造成された土地の上に利便性や快適性をベースとしてつくられたニュータウン。1960年代から日各地でつくられたそんな「町」は、高度経済成長期の終わりとともに影を帯び始め、90年代には歴史の終焉というアングルでもって現代日を論じる上でのモチーフとしても盛んに活用されていた。 それから20年。居住者の高齢化、設備の老朽化など、ニュータウンが新たな問題を抱える中、ニュータウン出身の現代美術家・中島晴矢の個展「バー

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  • 椹木野衣 美術と時評 84:ジェフ・クーンズ「ラビット」——空気を売る - ART iT(アートイット)

    連載目次 2019年5月15日、クリスティーズ・ニューヨークでの戦後・現代美術セール © Christie’s Images Limited 2019 久しぶりにジェフ・クーンズについて書いてみようと思う。欄は時評だし、それで言えばクーンズの彫刻作品「ラビット」(1986年)が去る5月、ニューヨークのオークション、クリスティーズで存命の美術家として史上最高額となる9107万5000ドルで落札されたことが伝えられたばかりだからだ(*1)。まあ、額の詳細はこの際どうでもよい。日円に換算して、だいたい100億円で落札されたと頭に入れておけばそれでよい。どちらにしても一般の個人には無縁の数字だ。 今回、ジェフ・クーンズについて書こうと思った理由はもうひとつある。それはちょうど昨日(5月29日)のことになるけれども、渋谷で試写会があり、そこで見た映画『アートのお値段』(ナサニエル・カーン監督作品

    椹木野衣 美術と時評 84:ジェフ・クーンズ「ラビット」——空気を売る - ART iT(アートイット)
  • サミュエル・ベケットから見るボルタンスキーの「生」。多木陽介評「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」展

    サミュエル・ベケットから見るボルタンスキーの「生」。多木陽介評「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」展フランスを代表する現代アーティストのひとり、クリスチャン・ボルタンスキーの国内初となる大型回顧展が大阪・国立国際美術館で開催中だ。作家自身が「展覧会をひとつの作品として見せる」と語るように、インスタレーション作品としても構想されている。初期作品から最新作までを網羅する展から、ローマ在住の批評家、社会活動家の多木陽介が、ボルタンスキーと劇作家サミュエル・ベケットの交点を読み解く。 文=多木陽介 クリスチャン・ボルタンスキー スピリット 2013 作家蔵 © Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019 撮影=福永一夫 ヴァニッシング・ヒューマニティ ――サミュエル・ベケットとクリスチャン・ボルタンスキーの見つめる歴史の消失点 今回の国立国

    サミュエル・ベケットから見るボルタンスキーの「生」。多木陽介評「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」展
  • 第16回芸術評論募集 【次席】ウールズィー・ジェレミー「インターネット民芸の盛衰史」

    第16回芸術評論募集 【次席】ウールズィー・ジェレミー「インターネット民芸の盛衰史」『美術手帖』創刊70周年を記念して開催された「第16回芸術評論募集」。椹木野衣、清水穣、星野太の三氏による選考の結果、次席にウールズィー・ジェレミー、北澤周也、佳作に大岩雄典、沖啓介、はがみちこ、布施琳太郎が選出された(第一席は該当なし)。ここでは、次席に選ばれたウールズィー・ジェレミー「インターネット民芸の盛衰史」をお届けする。 2018年6月に東京藝術大学で、アメリカ人の政治学者、ジョディ・ディーンの特別講義「コミュニケーション的資主義」が催された(*1)。彼女の研究について簡潔に述べておくと、彼女は、SNSや電子掲示板におけるイメージとテキストを組み合わせた画像を「二次的視覚性」と名付け、新しいコミュニケーションの形態(イメージを中心とする言語)として理論を展開している。彼女によれば、二次的視覚性を

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  • 「マルジェラ・デュシャン批判」――コンセンサスレス・コンプレックス・コンセプチュアル・ファッション - Fashion,Fine-art,and Forecast.

    コンセプチュアル・アートの創始はデュシャンに由来する。クールベ以来の絵画を「網膜的」と批判したデュシャンは、既製品の便器を逆さにして展示し、芸術の成立する条件を最小限の形式で示すことにした。作品物から美的な厳めしさを丁寧に排除し、単なる物(オブジェ)であらしめることによって、その美的な意味の空白に意味深長な疑念を抱かせ、観者のコンセプション(構想力)を喚起させたのだ。有名なあの便器には元々は花が添えられるはずだったが、それでは花の美しさに観者は低俗な美的関心を寄せてしまうだろうために、花を添えるコンセプト(意図)は放棄された。パイプを取り外して有用性を無くした何の変哲もない便器、このオブジェの性質についてある批評家は「まさに、つつがない(筒がない)」とくだらない冗談で評するが、的確ではある。マルジェラもまた1997年のコレクションではあたかも未完成で袖の付いていない服、袖に腕を通せない服を

    「マルジェラ・デュシャン批判」――コンセンサスレス・コンプレックス・コンセプチュアル・ファッション - Fashion,Fine-art,and Forecast.
  • 1980年代をどう「括る」か。椹木野衣評 「起点としての80年代」、「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」、「バブルラップ」、「アーカイヴ/1980年代│静岡」展

    1980年代をどう「括る」か。椹木野衣評 「起点としての80年代」、「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」、「バブルラップ」、「アーカイヴ/1980年代│静岡」展1980年代をテーマとした展覧会が、静岡市美術館、国立国際美術館、熊市現代美術館をはじめとする各地の美術館で立て続けに開催されている。1980年代日の現代美術はどう括られるべきなのか? 各展に見られる重複と反復、思惑を椹木野衣が読み解く。 文=椹木野衣 「起点としての80年代」展、静岡市美術館での展示風景。左から吉澤美香《無題(テーブル)》《無題(茶だんす)》《無題(掃除機)》《無題(三脚)》(1982) 千葉市美術館蔵、杉山知子《themidnightoasis》(1983) 作家蔵 月評第122回 泡と砂のなかの80年代重複と反復の80年代美術展 このところ、1980年代の日の現代美術をめぐる企画が目白押しだ。昨年の夏

    1980年代をどう「括る」か。椹木野衣評 「起点としての80年代」、「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」、「バブルラップ」、「アーカイヴ/1980年代│静岡」展
  • 空白の焦り、それか気楽な無党派層たち——「即興的最前線」に寄せて

    気楽な無党派層たち とても熱心な二元論や二項対立を示されてまごついたという経験はないだろうか。少なくともわたしは非常にまごついたことがある。思考の覇気がない現在にあって、二項のいずれかに振り分ける手はわれらがコンパスの針をすべてまさぐろうとするかのような必死さだ。するとわたしはその焦燥に居心地が悪くなって、無党派層がただよう海のようなところへと紛れようとする。調査のYES / NOではなく「どちらでもない」を選んだ無気力な難民たちの群れだ。いつもそうだ。急な選択肢が出てきたら、すぐに逃げ出したくなっている。「わたしの合理的な判断によっていずれかに属することを選んだ」ことがおぞましい。まるでわたしが矯正されているようだ。熱烈に「どちらかであること」を余儀なくされれば余儀なくされるほどに。こういう機会は日々のものごとが複雑になるにつれ、極端に単純化されつつ強い信仰心を伴って増えていく。わたしは

    空白の焦り、それか気楽な無党派層たち——「即興的最前線」に寄せて