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うおあああああああああああああああきたあああああああああああああああ。 ということで、昨年から待ちに待ち望み続けていたダライアスバーストCSが、ついに、ついに、ついに発売されました。 今のところはPS VITA版で遊んでいるのですが、Steam版も購入予定です。というかむしろPS4買っちゃおうかしらという勢い。ACも数コース遊んだのですが、今のところはどちらかというとCSモードメインです。20ミッションくらいクリアしたのかしら。 結論としてダライアスバーストCSは超絶面白いですし、個人的には地球というこの小さな星に住む全人類が購入を検討してよい出来なのではないかと思いはするのですが、まずはどの辺が特に超絶面白いのか論じてみようと思います。あまり冷静な筆致にならないことはご承知おきください。 以下、ダライアスバーストCSは「DBCS」と略します。 ○バーストが余りにも気持ち良すぎる これはP
「人生にリセットボタンはねえんだ!!」 「最近のゲーム機にもリセットボタンねえよ!!」 「えっ。じゃあ人生にセーブ&ロード機能はねえんだ!!!」 「最近のソーシャルゲームにもそんな機能ねえよ!!!」 「えっ。えっ。じゃ、じゃあ人生に課金システムは」 「あるよね」 「うん、あるね」 私の長男(8歳)は、「リセットボタン」という機能を知らない。 以下、既出議論かもしれないが、気にせず話を進めることにする。 ゲームに対してあまり興味や親和性をお持ちでない中高齢の方が、「リセットボタン感覚」「リセット感覚」という言葉を若者批判・ゲーマー批判の種として用いることは、今でもそれほど珍しくはない。Web上ではあまり見なくなってきているが、一時期のゲーム脳議論なんかでは頻繁に引き合いに出される内容であったし、「人生にリセットボタンはない」というお説教を、私はつい最近、この耳で直接聞いた。 しかるに、みなさ
モンハンクロスを遊んでおります。 昨日最序盤での感想を書いたんですが、今のところ非常に楽しくプレイ出来ております。 私はP2Gからのハンターなんですが、P2G時代やそれ以降のフィールドやらキャラクターやらが大量に復活しており、懐かしキャラのオンパレード、モンハンシリーズの同窓会という風情。流石、「クロス」の名にふさわしいいろんなシリーズタイトルの交錯感。お祭りゲームと考えて相違ないと思います。 その他にも、例えば採取はボタンおしっぱで異常に楽になっていたり、チュートリアルの「もう一度聞きますか?」の罠がなくなっていたりと、細かいところの改善点も数多く、非常に遊びやすくなっていると感じます。序盤こそ採集クエストや小型モンスターの狩猟クエストが多く、若干煩わしい部分もありますが、ぼちぼち手ごたえのある大型クエも出てきました。 で、今回も、シリーズ初登場の要素であるとか、シリーズをやっていない人
さあ、歌おう。声の限りに、Song of manaを。 以下、かなりの長文ですので、忙しい人は画面をスクロールして最後の3行だけ読んでください。デカい字で書いてあるので目立つ筈です。 プレイステーションというハードが1994年に世に出てから、もう21年が過ぎました。ファミコンが出たのが83年ですので、実は「ファミコン→プレイステーション」の時間的距離よりも、「プレイステーション→現在」の時間的距離の方が倍近く長い、ということになります。 かつて、プレイステーション・セガサターン・PC-FX・ニンテンドー64辺りの、いわゆる「次世代機戦争」を間近で経験した私にとっては、今でもプレイステーションは次世代機ではあります。とはいえ、流石にぼちぼち、レトロゲームネタとしてプレステゲームを取り上げても良い頃かと思いました。皆さまにとって、プレステやサターンにおける「レトロゲーム」はどんなゲームでしょう
一言で言うと、「なんか楽しそうでうらやましいけど、だからといって入っていきたいか?と言われるとぶんぶん首を横に振る」という場所でした。 「自分はあの中にいないんだ」という安心感と、「あの中に入ったら面白いかもなあ」という実現させる気もない願望。嫉妬と、恐怖感と、羨望と、優越感と、劣等感が、全てちょっとずつ入り混じった感情だったのかも知れません。 今から、ちょっと昔話をします。 2004年の11月に、それまでやっていた趣味のwebページを畳んでブログを始めました。seesaaを選んだことに深い理由はありません。当時は、ブログを始めることがプチブームになってまして、ブログサービスの比較ページなんてものもまだあちこちにありましたので、それらの中から「どれにしようかな」で適当に選んだ結果です。 そのころはまだ「はてな」のことを、「Googleで検索するとなんか妙な上位によくわからんQAサイトが引っ
いつものことですが、こういうのを可視化する意味もあるかと思って、整理も兼ねて書いてみます。一般化する気は特にないです。 長男、8歳。小学二年生。 ちょっと前から気になっていたことですが、長男は「頑張らなきゃいけないことに対するハードル」が高い気がします。 ポイントは、大きく分けて二つです。 ・サッカーのリフティングなど、練習すれば出来そうなことについて、(出来るようになりたい、という意志はありそうなのに)何かと理由をつけてやろうとしない。 ・学校の宿題や片付けなど、出来るけれど時間がかかりそうな(面倒な)ことについて、同じくなかなか手をつけようとしない。 早い話、「努力が必要なこと」について、始めるまでの精神的障壁が高いようです。いや、面倒なことが後回しになり勝ちなことなんて大人だって一緒ですし、いざ始めれば集中力はあるんで結構あっという間に終わるんですが。 やればすぐ出来るんでそんなに気
ファミコンにおける「RPG」って何だったんでしょう、という、結構大きな話から始まるわけです。 もちろん、コンピューターゲームにおける「RPG」とは、当初は「D&Dをコンピューターの世界に持ち込んだもの」でした。最初、メインフレームで動いていた幾つかのダンジョン型ゲームは、やがて「Ultima」や「Wizardry」「Rogue」になって世界中のパソコンユーザーたちに知れ渡るようになりました。 そして、それらのゲームは海を越えて、日本では「ダンジョン」や「ぱのらま島」、「ドラゴンスレイヤー」、あるいは「ハイドライド」、「ザ・ブラックオニキス」「夢幻の心臓」といった、数々の国産パソコンゲームタイトル名作群に姿を変えました。 この頃、こういったパソコンRPGの流れを熟知していたであろうファミコンゲームの開発者たちが、RPGをファミコンの世界に持ち込む時、どういうことを考えていたのかなあ、などと私
タイトルで完結しているんですが。 今回の大阪の件でもそうなんですが、殺人事件の加害者についての実名報道の是是非非が議論される中、何故か被害者については、昔から一貫して実名報道が貫かれております。 加害者、ないし加害容疑者の実名報道について、社会的なメリットが存在し得ることはまだ理解出来ないでもないです。まあ、こちらについても議論の余地は色々とあると思うんですが。 それに対して、被害者の実名やら個人情報やら遺族の情報やらがガンガン報道される件については、もう本当に、社会的にはどんなメリットがあるのかさっぱり分かりません。実際のところ、「興味を引いてメディアが視聴率を稼げる」以外のメリットってあるんでしょうか。 デメリットなら色々と思いつきます。 ・単純に、被害者、及び被害者遺族のプライバシーが侵害される ・被害者遺族に対する嫌がらせ、誹謗中傷などが行われるリスクが上がる ・被害者遺族の情報が
はい。 私にもそういう記憶、あります。例えば学生時代に交わした、「飲みにいこうぜ」「すまんゲームやってる」「暇なんじゃん」という会話。自分にとっての大事な時間が、「暇な時間」とみなされることの理不尽さには結構悲痛なものがあります。 確かに、ゲームを「暇つぶし」と考えている側と、ゲームをやる時間を必死にひねり出している側とでは、根本的に時間間隔は合わないでしょうね、と思うわけです。我々ゲーマーにとって、ゲームとは「時間を作ってやるもの」なのであり、「その時間はゲームやるから」というのは「その時間は仕事するから」とか「その時間は子どもと遊ぶから」というのと少しも変わらず、大事な行動計画なのです。 「ゲームをする時間」というものは、ゲーマーにとって、必死に作った大事な時間なのです。 ただこれ、ゲームでよく聞く話ではありますが、考えてみるとゲームだけの話ではないなあ、と。自分にとって理解出来ない時
以前、といっても10年くらいは昔だったような気もするんですが、竹下登氏の回顧録を読みました。 政治とは何か―竹下登回顧録 強行採決がどうとかこうとかという話については、本当はその回顧録を読むとすっげえ色々書いてあって面白いんですが、手近なところではWikipediaでも色々まとまってまして、まあ内容もこんなもんだと思いますので、気になる人は読むといいと思います。 Wikipedia:強行採決 国会では議案に充当させる審議時間の配分や審議の順番など議事日程は議案ごとの均等割ではなく、議案ごとに議院運営委員会で調整され、ここでの調整が重要な政治上での駆け引きの材料となってきた(国対政治)。このため、議院運営委員会での優勢を背景に、野党の合意を取り付けないまま審議を終了させ、法案を採決することを「強行」とマスコミや野党が表現した。また与党が一方的に審議を打ち切ることから、「与党による審議拒否」と
ファミコンで「ドッグファイト」を表現した、最初のゲームなんじゃないか、と私は思うのです。 1983年~1985年あたりのファミコン市場は、一言で言ってしまうと「任天堂と愉快な仲間たち」が形成していました。ファミコン最初期の任天堂タイトルが、一から十まで一作も漏らさず佳作・名作揃いだったこと。それ抜きで、後のファミコンの隆盛はありませんでした。 前にも書いたことがありますが、1984年後期から1985年初めくらいのファミコンゲーム発売タイトルをざっと見た時、「当時の任天堂のスタッフが全員妖怪だった」という以外の結論を導出することは極めて困難です。 1984年11月2日 F1レース、同11月2日4人打ち麻雀、11月14日アーバンチャンピオン、11月22日クルクルランド、11月30日エキサイトバイク、85年に入って1月22日バルーンファイト、1月30日アイスクライマー。一本のゲームが数人、場合に
よくあるじゃないですか。「実は○○という言葉は失礼な言葉だった!」とか。「○○という言葉を使う人は、実は××(ネガティブな何か)だった!」みたいな、あーゆーの。 最近も観測しました。下記のような記事です。 口癖で分かる性格 「なるほど」が多い人は何も聞いていない こういう、ビジネスマナーとかライフハックの体を装って、言葉にネガティブなラベルを無理やりくっつけようとする向きが、私は好きではありません。というか嫌いです。 この手の記事の問題点は、箇条書きにすると以下のようになります。 ・根拠が全くない、ないし根拠が明示されないまま、言葉に対してネガティブなイメージ付けを行っている ・それを読んだ人が、「そうだったのか、知らなかった!気をつけよう」という印象を持ちやすい、いわば「気づき」を誘導する書き方になっている ・更に、上記の「気付いた」人が、その言葉を使っている他人に対してまで「あ、××な
タイトルで完結はしている。 勿論、口汚さと一口で言っても色々ある。ファウルラインも人それぞれである。 一応、程度問題は別として、私は以下二つを「口汚いテキストだなあ」と感じることが多い。 ・本論と関係ないところで、攻撃的な内容の言葉が頻出する。 ・同じく本論と関係ないところで、相手を貶めるレッテリングが頻出する。 上記のようなテキストは、どんなスタンスから産まれるだろうか? 幾つか考えられると思うが、 ・(意識的かそうでないかに関わらず)相手を貶めることによって、自分が優位になろうとしている ・自分が「攻撃者」であることを周囲に示して、攻撃的な言葉が好きな傍観者を味方につけようとしている ・相手を威嚇することによって、反論ないし反応を封じようとしている ・「強い言葉」と「口汚い言葉」を混同している ・「毒舌が俺の持ち味」とか、「口が悪い俺かっこいい」みたいな不思議な勘違いをしている といっ
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