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ブックマーク / sk-44.hatenadiary.org (11)

  • 泣きと抜きの政治学 - 地を這う難破船

    ⇒id:seijigakutoさん、マジで言ってんのそれ? - あままこのブログ ⇒ポルノについての個人的な意見 - WinterMuteの日記 inspired byとしてリンクしますが、ほぼ独り言として。 『CLANNAD』を私はゲームどころかアニメもほとんど見ておらず、よって何も知らないのだが、人生と真面目に力説する友人の啓蒙にはよく触れていた。父になる男の成長物語で、男になることとは女性たちとの関係の中でまがりなりにも父になることだ、と。実際、友人はそうした問題と直面していた。 私はどういう話か知らないので聞くだけだったけど、それなら『莫逆家族』と同じだな、と思って、『莫逆家族』は私はとても好きなので頷いた。『莫逆家族』なんて家父長制肯定に決まっているのだが、あれを家父長制肯定として片付ける者を私は馬鹿と見なすだろう。『莫逆家族』の世界は歪んでいますね、って当たり前の話。イーストウ

    泣きと抜きの政治学 - 地を這う難破船
    yotayotaahiru
    yotayotaahiru 2010/06/09
    【夜中TVの前でむせび泣いた私のように、密室で泣くことや密室で抜くことさえ、新式のスターリンは統制せんとする。政治的なる条件付けを、無力化するために。】←表現規制問題のポイント、だと思う
  • 「クズ」であるということ - 地を這う難破船

    ⇒ヘイトスピーチに反対する会 1.24で逮捕されたAさんへの攻撃について ⇒はてなブックマーク - 子どもを徹底的に追い込もうとする、情けなさ丸出しの「主権回復を目指す会」【資料追加】 - 3羽の雀の日記 いますぐ『ワイルドバンチ』を観るんだ、そこに答えがあるから。――と、伝えたい人々がいたので、書くことにする。むろん、上記リンク先のことではない。私はサム・ペキンパーの感傷は基的に苦手だが、それでも現在、映画の終幕において長身を折りたたんでひとりたたずむロバート・ライアン演じるソーントンの心持ではある。だからそれこそが感傷であるが。 暴力を批判することとは、行為の形式的な合法性を云々することではない。何度も書いたことだが「立件されない暴力は犯罪ではない」という言明は何も言っていないに等しい。在特会が日国の法を盾にして行使しているのは「立件されない暴力」そのものである。「だから犯罪化せよ

    「クズ」であるということ - 地を這う難破船
    yotayotaahiru
    yotayotaahiru 2010/02/03
    ”有形力の行使を必ずしも歓迎しない私は、だからこそ、逮捕されたその人をこそ、無条件に支持する、ということ。"←同意します。
  • 他人と関わるということ - 地を這う難破船

    ⇒http://d.hatena.ne.jp/tak_f/20081118/1227008984 ⇒荻野はコンテンツとしてとても面白かった - phaの日記 ⇒http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/pha/20081119/1227040596 他人と関わることと受け入れることは違う。引き受けることも違う。関わってみたけれど受け入れられなかった、引き受けきれなかった、というのは全然ありだと思う。厄介払いであったとして、『スモーク』ではないが、責めるべきこととはまったく思わない。関わってその厄介を知る相手はいる。関わらないとそのことがわからないのが他人だから、関わったのだと思う。 関わらないとわからない他人と関わってその厄介を知ることがなぜ傍から責められるか私にはわからない。他人と関わることの厄介をよく知って物心含めて最初に他人と

    他人と関わるということ - 地を這う難破船
    yotayotaahiru
    yotayotaahiru 2010/02/03
    ”関わってみたけれど受け入れられなかった、引き受けきれなかった、というのは全然ありだと思う。"←この件に関してはこれに尽きるような気がする。
  • 自由の核心にあるもの - 地を這う難破船

    些か応答が遅れて申し訳ありません。更新の時間が取れませんでした。 ⇒ロクでもないけどこれしかない - 地下生活者の手遊び ■ まず第一に、国がマンガの美術館を作るということは何ら不自然ではない。すでにある国立の美術館に並んでいる芸術作品と同じくらいの気合で、我々はマンガを描いている。国立のマンガ美術館、やれるものならやってください、でも無理でしょう? というのが僕の考えだ。 アート全体にも言えることだが、マンガの中には政府や政治家にとって都合の悪いもの、眉をひそめるようなものがたくさんある。そういうものがほとんどだ、と言ってもいいくらいだ。国や政府が保護したり育成したりバックアップできる代物ではない。 例えば非常にエロチックなもの、あるいはくだらないもの、「くだらない」とくくられるもの、そんなマンガがすべて、国の建設した建物の、劣化を防ぐために空調が完備された部屋の棚にズラーッと並べられ

    自由の核心にあるもの - 地を這う難破船
  • スターリンを退けた場所では - 地を這う難破船

    来、佐藤亜紀氏への応答を先に行うべきなのですが、tikani_nemuru_Mさんへの応答をひとまず先に行います。佐藤亜紀様、「後回し」にして申し訳ありません。次回のエントリで応答させていただきます。 ⇒スターリニストなのでスターリンになりたくない(追記アリ - 地下生活者の手遊び だから私には「社会意識は言論や表現とその流通のあり方をメッセージとした表象に対する読解の文脈として反映される」がわからない。最初この一節を読んだときは、ただの言葉遊びだと思ったことを正直にいっておきます。今は、それが言葉遊びでも詭弁でもないことはわかりますが、その意味するところは正直なところ腑に落ちてはまだわからない。私にとって表象は、それはそこにあるもので、読み解くものではない。読み解く主体は私にとって同志スターリンになってしまう。 私も正直に申し上げるなら、『言論・表現への法規制に抗するために』を一読した

    スターリンを退けた場所では - 地を這う難破船
  • 表象と欲望 - 地を這う難破船

    ⇒2009.6.17: 日記 性の問題は聖域ですが、暴力の問題は当然聖域ではないし、蹂躙の肯定もまた聖域ではない、というのが私の認識です。むろん「聖域」とは社会的合意の問題ですが。そのような社会的合意を採らない、という立場はあると考えます。あるいは、そのような社会的合意の欺瞞性について指摘する立場も。だからこそ、性の問題を聖域と考える私は、聖域たらしめるために、暴力や蹂躙の肯定については問題と考えます。聖域とは神聖不可侵ということではない。神聖不可侵と考えることは近代の神話そのものです。 「聖域」だからこそ、私たちはその「秘密」を「告白」することにおいて個人の尊厳を贖ってきた――そうした発想の賞味期限がとっくに切れたのが現在です。そして現在において、私たちは告白さるべき秘密をネタ化し商業化し、結果、暴力的で差別的な欲望がインターネットを媒介として世界に伝播する。そのとき、野放しにされた欲望

    表象と欲望 - 地を這う難破船
  • 暴力と擬似暴力、ベタとメタ - 地を這う難破船

    ⇒「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。 ⇒「レイプレイ」と言論の自由、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。 ⇒「レイプレイ」と言論の自由、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。 そのような話をするのなら、「陵辱」を「陵辱」として愉しむことと人と人の間に暮らすことは普通に両立する、でFAです。「陵辱」を「陵辱」として愉しむことはヘイトスピーチではない。「陵辱」を「陵辱」として愉しむことと人と人の間に暮らすことは普通には両立しない、という結論は「差別意識は顔に出すな」以外のどこから出てくるのか。見当は付きますけど。メディアがメッセージとして機能している以上、ヘイトスピーチに等しい陵辱表現の、その意義を説け――か。 先日、交際相手からレイプゲームについて訊かれて心停止しかけた。ブログが彼女バレしたら死ねるが、そうではなかった、よかった。レイプシミュレータってな

    暴力と擬似暴力、ベタとメタ - 地を這う難破船
  • 憎悪の蓋 - 地を這う難破船

    ⇒2009.6.7: 日記 五十嵐氏の事件を引き合いに出したことは不穏当でした。弁明させていただきますが、雉を撃つな、と言っているのでは私はない。雉を撃つな、とは誰に対しても言いません。誰が何故やったのか、ではなく、官憲が仕事をしないとき表現の自由について国家の法治が公共の利益を実現する、という発想に到底賛成できない、ということです。表現の自由を法治の原則において守ることさえしなかった、あるいはできなかった日の丸の官憲に、公共の利益に基づく表現の自由の制限を委ねることには躊躇します。 日の官憲は、望むまでもなく、公共の利益を自称してポルノを弾圧してきました。この官憲に対する不信は、当然のことながら外国人排斥(日においては移民でさえない)と関係がない。むしろ、警視庁草紙以来、弾圧の発想と技術を近代日に積み上げてきた官憲は、公共の利益に基づく表現の自由の制限によって、マジョリティではなく

    憎悪の蓋 - 地を這う難破船
    yotayotaahiru
    yotayotaahiru 2009/06/10
    「自由も寛容も不可能と万民が知った、だから私は勝手にやらせてもらう、というのが日本的なポストモダン社会で、しかしその実市場の自由と官製の寛容が勝手な行動をどこまでも規定する。」←条件付の自由ってこと?
  • 自由と寛容を自称する社会 - 地を這う難破船

    ⇒2009.6.5: 日記 佐藤亜紀様 ファトワと自力救済はそれは違います。これは、日の法の問題です。問題は、ある書物を翻訳した日の翻訳家がおそらくはそのことを理由として日国内で殺害され、そしてそれは事件解決へと至らなかったことです。つまり、「ムスリム対ヨーロッパ」の文脈を私は問題にしているのではない。『悪魔の詩』を引き合いに出しておいてそれはないだろう、という指摘は受けます。しかしそもそも強姦ゲームの問題は「排他的な信仰に基礎を置く二つの文化が、相互の不信感と敵意は消え去ることがないとしても、当座は潰し合いに至ることなく休戦状態を保つこと」の問題ではないと私は考えるので、その点について、『悪魔の詩』を引き合いに出したことに対する誤解については、正させてください。 言明する必要があると思うので言明しますが、この問題の筋論については、私は所謂「西」の世界――つまり「自由で寛容な社会」を

    自由と寛容を自称する社会 - 地を這う難破船
    yotayotaahiru
    yotayotaahiru 2009/06/07
    「上から来る公共と下から来る公共なら、私は下から来る公共を採ります。日本においてトップダウンの公共が公共として信じられたことなどないからです。」←"下から来る公共"をどうやって作り共有できるのかが問題
  • 逆鱗と道徳 - 地を這う難破船

    ⇒2009.6.3: 日記 『悪魔の詩』がそのような小説であることは承知です。当然読んでいるので、ダシにしているのではない。ムスリムが表現の自由を圧殺する、ということではない。そういうのは単に「ゴキブリどもを殺せ」というプロパガンダであり、よく言って偏見の羅列です。問題は、ある表現が誰かの逆鱗に触れたとき、強制力の行使としての「自力救済」を私たちは認めるか、ということです。認める、というのが私の立場ですが、自力救済の範疇に人殺しが含まれうるか。むろん含まれますが、自力救済の範疇に人殺しが含まれることは認めない、というのが私の立場です。五十嵐一氏の事件は時効を迎えました。犯人が出国中は時効停止しますが。 尊敬すべきイスラム研究者であった氏に対して「五十嵐氏はあのを翻訳しなければよかったのに」と、後から言えるか。当然、読者が言えるはずもない。にもかかわらず、表現が必然的に誰かの逆鱗に触れうる

    逆鱗と道徳 - 地を這う難破船
    yotayotaahiru
    yotayotaahiru 2009/06/04
     <ただ、そのとき「法」を採用することは、こと日本におかれては端的に逆効果である、というのが私の見解です。>←同意。法規制は明示した「規則」を作ることで、かえって思考停止を助長する可能性が大きいと思う
  • 表象は読み解かれなければならない - 地を這う難破船

    ⇒言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び 仰りたいことはわかりました。趣旨には同意です。「まとめ」の部分にはほぼ異論はありません。率直に言って、NaokiTakahashiさんのブログのコメント欄での応酬を拝見した限りは、もっと突っ込んだ議論を展開されるのかと思っていました。 「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」の表での流通が「人権侵害と認めるところからはじめ」るというのは、相当に強い議論です。DV等を見るまでもなく、児童虐待を見るまでもなく、そして人身売買を見るまでもなく、私的セクターにおいて、あるいは商行為の名のもとに、侵害されている人権の回復には強制力の執行を伴います。その強制力を市民は国家に付託しています。むろん数多の非営利団体が活動していますが、彼らは強制力もまた強制的な執行の権限も持ち合わせません。そうした社会を、私たちは選択しているし、私は「自

    表象は読み解かれなければならない - 地を這う難破船
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