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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (14)

  • なぜ日本人はこれほど外来文化にかぶれやすいのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「同化吸収」 ああ、それで思い出した。和むかどうかっちゅーと、またちょっと微妙な話だけど、欧米系から見た日の評価の話。俺の友人の飲み友達に、人類文化学の教授がおってな。彼の分析と、同じ研究者として向こうの連中と話しあった結果、欧米が深層心理で日をどう思っているかって結果が「同化される恐怖」なんだと。 たとえば、日になにか新しい文化が投入されるとする。普通の国の反応ってのは、大概それに対して拒否反応を起こして反発するか、事大主義のようにそれ一色に染まる二極分化らしいんだけど。日の場合、「自国の今ある文化と矛盾がないように、ゆっくり吸収して、同一化する」傾向が強いんだって 同じように日文化海外に出た場合、はじめは拒否反応を起こされることが多いんだけど、いつのまにか「COOL!」であると評価をひっくり返し、その後、ゆっくりとその国の文化の中に溶け込んでいく傾向が強いんだと。 この「

    なぜ日本人はこれほど外来文化にかぶれやすいのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    yugui
    yugui 2010/10/26
    面白い。けど、引用元のコピペの先を見たら限りなく眉唾であった。面白いのに。
  • なぜアニメは成熟した喪失感を描くのに適しているのか 映画「スカイクロラ」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    映画「スカイクロラ」 遅まきながら、映画「スカイクロラ」(ASIN:B001NAW2MK) http://sky.crawlers.jp/tsushin/をDVD鑑賞。小説など事前の知識なく見たら、噂と違って?かなり楽しめました。平和を維持するために続けられる戦争。そしてその戦争のために生きるパイロットたち。大人になることがなく、戦死しても再生される。すなわち戦争劇のために永遠にいきることを強いられる。 "彼ら"の不思議はなぜ働きつづけるのか。ある意味で彼らは充足しているのでしょう。大人にならないこと、空を飛び戦うこと、また生き返ること、そして自分達の社会的な役割を。そこには、生きることの喪失感の第一段階である苦悩し自分探しをする青春ドラマではなく、もっとさめたアイロニカルなドラマがある。それはどこにも行き場かないことを受け入れるところからはじまる。 生きることの喪失感を描かせたら、現代で

    なぜアニメは成熟した喪失感を描くのに適しているのか 映画「スカイクロラ」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    yugui
    yugui 2009/03/28
  • オタクは市民へと進化するのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

  • デカルトによるコギトの発明 <わたくし的読解>二日目 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1)フーコーの権力論と主体の不在 昨日の続きですが、フーコーは19世紀ごろに全面化した生政治を明らかにしました。生政治は生権力と規律訓練権力の両輪でできています。生権力は国家内の人口をいかに管理・運営するか。それによってグローバルな国家間の競争に勝っていくこと、それぞれが競争することによる均衡が目指されます。このような国家的な戦略は規律訓練権力によって末端へと実践されます。規律訓練は管理された環境によって、身体を訓練・教育する装置です。学校、企業、病院などなど。 しかし間違いが多いのですが、これは必ずしも軍隊のように画一した身体を作り出す強制的なものではありません。目的は経済的な競争力であり、国力に役立つ人材の育成のために、自主的で、向上心があり、創造的な人材が求められます。日人が4人もノーベル賞を取りましたが、彼らのような人々が国を挙げて歓迎されるのは、日の生政治の成果とされるからで

    yugui
    yugui 2008/10/19
  • なぜ「真実」には規律社会が必要なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    司法モデルと戦争モデル 現代人のボクたちは真実が相対的なものであることを知っている。真実は空間的、 時間的によって変化する。しかしフーコーが系譜学的に真実について語るとき、ただ相対的であるということではない。 たとえばある人Aがある人Bにお金を盗まれたと訴える。それに対してある人Bは盗んでいないという。多くにおいてAは警察に通報するだろう。警察は双方から事情を聞き、さらには状況を「調査」する。そしてその調査結果は司法の場へ持って行かれ、真実が明るみに出される。 このように調査によって明るみに出すものは「事実」である。実際にそこでなにかが行われたのであり、それが明るみになれば、Aが正しいか、Bが正しいかわかるはずである。このような「事実が正しい」ということは現代社会生活の中で疑いえないものである。 フーコーによれば、現代では当たり前とされる「調査」によって真実を明らかにする「司法モデル」は、

    なぜ「真実」には規律社会が必要なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    yugui
    yugui 2008/09/30
    フーコー、規律社会
  • なぜiPhoneは「ケータイネット世代のきもち」がわからないのか   - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    テクノロジーはオプティミズ(楽観主義)を生み出す テクノロジーにはある種のオプティミズ(楽観主義)がつきものです。このようなオプティミズを支えているのは「テクノロジーの外挿性」と言うべきものです。たとえば図表上にある2点があると、その2点を通る1の直線が引くことができます。この2点を繋ぐことは内挿ですが、その直線を2点の外側へと延長することが外挿です。外挿された直線は見かけ上は無限に延ばすことができます。 統計的にいえば、近似線の法則性はデータ範囲内での成立するものであって、外挿には根拠がありません。ただ多くにおいて人は内挿でとどめることなどできません。とくにデータが数値化されやすい科学技術において、「外挿する欲望」に打ち勝つことができるでしょうか。すなわちテクノロジーの外挿性は夢の未来というオプティミズ(楽観主義)を生みます。 そしてこのようなテクノロジーの外挿思考が新たな技術開発を生

    yugui
    yugui 2008/07/14
    そこは、2つの異質なフロンティアの間で止揚が起きると楽観するけどなぁ。
  • 「加藤」はなぜ「電車男」になれなかったのか 思想地図シンポレポを読んで - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    思想地図シンポジウム「公共性とエリート主義」 思想地図シンポジウム「公共性とエリート主義」に関してのレポートがいくつか上がっている。読んで考えたことを書いてみる。ボクは参加していなので、あくまでレポートを読んで感想である。 トラカレ! 『思想地図』発刊記念シンポジウム「公共性とエリート主義」レポまとめ http://torakare.com/archives/920 特に参照した 思想地図シンポジウムレポート - the deconstruKction of right http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080617/1213688976 宮台と東の考え方については、以下のようなエントリーでいままで言及してきた。東が考えるのは、「政治の環境管理化」、極端に言えば政治は環境管理システムによって行うことを目指せないか。宮台は流動性が高い今だからこそ、政治

    「加藤」はなぜ「電車男」になれなかったのか 思想地図シンポレポを読んで - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ人は人工知能化するのか  「陶酔する人工知能たち」その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか 人が世界と関わる二つの方法、認知と行為とはどのようなものだろうか。そのわかりやすい例が人工知能の「フレーム問題」だろう。人工知能にチェスのような「閉じた」ゲームを遂行させれば、計算によって最適解を求めながら遂行するだろう。しかしたとえば有名なダニエル・デネットの「フレーム問題の寓話」のような「開放系」の状況では、その過程で起こる場面(フレーム)が無限に考えられるために計算を収束させることができず、フリーズしてしまう。これを「フレーム問題」という。 「フレーム問題の寓話」 http://www.johf.com/logs/20070422b.html 昔、R1という名のロボットがいた。ある日、R1の開発者たちは予備バッテリーを別の部屋に隠して、その部屋に時限爆弾を仕掛け、まもなく爆発するようにセットした。R1は部屋をつきとめ、バッテリー回収作戦を立案し

    なぜ人は人工知能化するのか  「陶酔する人工知能たち」その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    yugui
    yugui 2008/05/22
  • なぜネオリベラリズムを批判することは難しいのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    近代というデジタル化 最近のネオリベラルや、動物化をめぐる議論は、アナログとデジタルの関係で語るとわかりやすいのではないだろうか。 アナログとはこの世界の連続性であり、決して反復されることがない。たとえば放り上げたボールの軌道を古典力学で計算できても、現象は空気や熱などの環境に左右され、あくまで近似的なものでしかない。では、そのような環境も含めて計算すればと思うが、原子単位のふるまいを観測することなど不可能である。物理学はどこまでも近似でしかない。このよな意味で、この世界(アナログ世界)は連続であり、決して反復されされないし、再現されることはない。 人はこのようなアナログ世界を単位で切り取り、その関係性を見いだし、近似的に記述してきた。それがデジタル化である。たとえば大量のリンゴがあり、品質管理するために大きさで分類するとする。長さが2cm単位で分けると、10cmも12cmも、10〜12c

    なぜネオリベラリズムを批判することは難しいのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    yugui
    yugui 2007/08/23
  • なぜ人はポスト・ヒューマンの夢を見るのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「特異点(Singularity)」 NHK-BS「未来への提言」の発明家レイ・カーツワイル(http://www.nhk-jn.co.jp/002bangumi/topics/2006/052/052.htm)はおもしろかった。情報技術が毎年2倍ずつ成長していることをベースに、2045年には人類全体の知能の10億倍の能力を持った人工知能が登場し、人間が制御できなくなる可能性のある未知の領域=「特異点(Singularity)」に入ると言います。ボクはまだ読んでいませんが、最近「ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき」(ASIN:4140811676) が刊行されています。 技術的特異点 彼らは科学技術の進展の速度が人類の生物学的限界を超えて意識を解放することで加速されると予言した。この意識の解放は人間の脳を直接コンピュータネットワークに接続することで計算能力を高める

    なぜ人はポスト・ヒューマンの夢を見るのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    yugui
    yugui 2007/08/18
    "新しい技術は「神」"; 最後の段落には違和感あり。
  • 動物化したら何が困るのか 「動物化」をめぐって その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    考える名無しさん 動物化したら何が困るのか教えてください。 考える名無しさん 動物化はできるできないじゃなくて、人間工学が進んだ結果避けられないもの 考える名無しさん 「東京から考える」(ISBN:4140910747)の北田のような態度は確かに必要かも知れない。ただその「人間的」なものが当に必要なのかどうか。必要ならなぜ必要なのか。人間工学は快適な環境を提供してくれるけれど、その先、動物化する流れがなぜいけないのかということは誰も言えていない。社会学者よりも哲学者がもっと強く非難しないといけない立場なんだけどね。 第三の波平 工学的、そして経済学的にいうと以下のようになる。ボクはこれを「高速欲望」と呼ぶが、明らかに「動物化」だよね。isedでは「3秒ルール」の話として出ていたね。 2ちゃんねるとは板、スレと興味に分類された場にすみやかに到達し、耐えず誰かがいてすみやかにコミュニケーショ

    動物化したら何が困るのか 「動物化」をめぐって その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    yugui
    yugui 2007/08/18
    "東がリバタリアンを自称するのは、政治でなく、環境管理技術が創発性を管理すると考えるから"
  • なぜウェブは資本主義を超えないのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「なぜウェブは資主義を超えるのか」 池田信夫氏のインタビュー「なぜウェブは資主義を超えるのか」http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Interview/20070802/278983/は面白い。*1ここで重要なことは「ムーアの法則」でしょう。インターネットが成功しているのは、資源が無限にあることで、「ユートピア」が実現されている。 さらには、情報が溢れるように提供された時,相対的に希少になるのは、情報が消費するもの,すなわち「人間の関心」である。そして関心を取り合うことで、ネット上の経済は活発化している。「Googleの検索広告はその典型です。世の中に何十億もページがある中で,自分のページを見てもらうために1クリックいくらで費用を払う。(池田)」ということです。 「書き込みは必ず宛先に届く」 たとえば、ネット上にテクストを書くことによって他者に見られる

    なぜウェブは資本主義を超えないのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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    yugui 2007/08/18
  • 続々 デジタル製品を買うとなぜわくわくするのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    テクノロジーの「確実性」と「高速化」 ある日ボクは昼下がりの小さな公園にいた。親たちが公園の隅で立ち話しを続けるなかで数人の子供たちがやっと補助車輪がとれたのだろう。やや危なっかしい操作で小さな自転車で小さな広場のまわりを懸命にぐるぐると走り回っていた。その生き生きとした姿は今にも空へ飛び上がりそうな勢いである。 たとえばこのような「速度の快楽」はバイク、車を運転する人なら感じたことがあるだろう。速度を上げていくときのスリル、快楽、超越感。これは「フロー体験」の一種ではないだろうか。・・・ このような「フロー体験」は単に乗り物の速度だけのことではない。ラカンにとってコミュニケーションとはすれ違うことで成り立っている、「他者」とのコミュニケーションはかならず失敗する。(ラカン的にはコミュニケーションとは言わないだろうが、)このような「テクノロジーとのコミュニケーション」は必ず成功する。それは

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    yugui 2006/07/04
    私/我々は私/我々を接続する
  • なぜ「涼宮ハルヒの憂鬱」はセカイ系なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「外部産出型」としてのセカイ系 「涼宮ハルヒの憂」の最終回を見たが、なかなかおもしろいかった。最終回の前半まで退屈が描かれ、突如クライマックスが訪れる。ボクは「涼宮ハルヒの憂」が「セカイ系」の構造があるといっていたが、最終回はまさにそのものの展開として終わった。 ボクは、「なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか」*1においてセカイ系を以下のように説明した。 ■セカイ系は、無理矢理にでもハルマゲドン(外部)を産出しようとする表現=「外部産出型」の系列にある。 ■外部産出型は、「内部/断絶(ファルス)/外部」の構造を持つ。社会(大きな内部)の閉塞感の中で断絶(ファルス)の存在が外部への道を開く。たとえば「デスノート」では断絶(ファルス)とはデスノートであり、外部とは死神界である。 ■「外部」とは、未知であり、なんの背景もなくただ不気味に殺戮にやってくる敵である。そしてこちらもなんのためら

    yugui
    yugui 2006/07/04
    セカイ系について
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