最初に現れるのは、緑色の光に照らされてしゃがみこむ、悪魔のような妖精。冷たさをたたえた金属のピアスが、光を反射しながら怪物のように突き出た眉骨を飾る。全身には、よくある白の延長コードが絡みついている。 次は地元のラッパー、ムラーロ。ボロボロに裂かれたリトルブラックドレスをまとい、堂々と立つ。ドレスの裂け目から覗く全身の肌は、タイヤが走った跡で汚れている。 3つめはさらに奇妙だ。3人のゴブリンが、蛍光色に光る深海の底に横たわる。前景には巨大な硫黄の泡が浮かび、そのテカテカと光る表面は、ネオンの珊瑚や大きなキノコ、雄大な草木の風景を反射している。 これは明晰夢ではない。スタイリスト/フォトグラファー/デザイナーのローズ・ピュアが創り出す世界のなかだ。
ひとりの人間は、人生でどれくらいのモノを創り出せるのだろう。多くのアーティストにとって、自らの人生そのものが作品になるのが何よりだろう。現代、誰よりもこのゴールの近くにいるのはコージー・ファニ・トゥッティ(Cosey Fanny Tutti)だ。この50年近く、彼女は、それまであまり誰もやってこなかったようなかたちで、媒介や境界に囚われずに、クリエイティブな活動を絶え間なく続けている。COUM TRANSMISSIONSとしてのひときわ過激な活動(このおかげで、彼女を始め、メンバーたちは公益性を脅かす危険な芸術家としてレッテルを貼られたりもする)から、THROBBING GRISTLEのメンバーとしての〈インダストリアル・ミュージック〉確立まで、彼女が携わった初期のプロジェクトだけでもかなりの数になる。現在進行中のプロジェクトである、夫、クリス・カーター(Chris Carter)との〈C
LGBT市民の社会的地位改善を目指し、世界各地で意識と制度の改革が進むなか、ジャマイカのLGBTコミュニティは伝統と偏見に阻まれ四苦八苦している。新天地を求めてジャマイカ国外に難を逃れるLGBT市民も少なくないが、母国の状況を改善しようと奮闘する市民もいる。上掲の動画が制作されたのは2014年。2016年現在、いまだに「反ソドミー法」は効力を失っておらず、ジャマイカのLGBT市民を取り巻く状況は依然として厳しい。しかし、2007年にはBeenie Man、Capleton、Sizzla、Buju Bantonらによる「Stop Murder Music」キャンペーンで発表された「The Reggae Compassionate act」への署名(その後のSizzlaは首を傾げざるをえない所業を繰り返しているが・・・)、レゲエ、ダンスホール界初のLGBTQ擁護を謳うMista Majah P
もしかしたらあなたは、毎年クリスマスに『ラブ・アクチュアリー』の上映会を開催したり、サンドラ・ブロックの全作品にめちゃくちゃ詳しい、立派な〈ベーシック〉だったかもしれない。あるいは『JUNO/ジュノ』が好きとか言っておきながら、誰もいないときにこっそり『ホリデイ』を楽しんでいる、(口先だけの)人とは違うクールガールだったかもしれない。いずれにせよ、もしあなたが今20代ならば、ティーンの頃数々のラブコメ映画に出会ってきたはずだ。 ラブコメが人気を博したのは1990年代から2000年代。すなわち、すべてのひとがストレートで、シスジェンダーで、白人で、オフィスの棚にしまってあったサンプルサイズのPradaのワンピースも着こなせてしまう時代であり、世界にはニューヨークしか存在せず、〈うつ〉なんて誰も聞いたことのなかった時代だ。あの時代、コンデナストの女性誌編集部だけが唯一の仕事場だった。それでもよ
ヨーロッパにはノマド(遊牧民)の長い歴史がある。しかし1990年代には、この大陸をまたにかける新しい流浪の民が登場した。彼らはテクノトラベラーズ・トライブ(ちなみにこの〈テクノ〉のスペルは〈Techno〉ではなく〈Tekno〉)を自称し、落書きだらけのバスにサウンドシステムを詰め込み、自分たちもスシ詰め状態で乗り込んだ。そして古いトラックや機材を収集し、人里離れた場所でレイヴを開催。それは自由を祝うための政治活動だった。参加者の共通点はTeknoへの愛。Teknoとは、大都市の賑わうクラブから離れた場所で行う、入場料無料、ルール無用のフリーパーティシーンで誕生した、ジャングル、レイヴ、テクノ、ハードコアが融合した音楽ジャンルだ。 このムーブメントが始まった頃、フォトグラファーのトム・アニレーは故郷である南フランスのニースでパーティに興じるティーンエイジャーだった。友人や知人を通して数々のテ
日本におけるタトゥーカルチャーを取り巻く環境は、『ヤクザ、ダイバシティー、インバウンド!! タトゥーと温泉問題の行方』で紹介した通り。 そんな日本のタトゥー事情にも関わらず、世界最年少だろう日本人タトゥーアーティストがいる。その名はNOKO。彼女の父親は世界的にも著名なタトゥーアーティスト、ガッキン(GAKKIN)。3年前、大阪からオランダのアムステルダムに移住したのを機に、わずか10歳にして、タトゥーアーティストとしてデビューした。 アムステルダム時間の、日曜日の午前中。お団子ヘアに前髪パッツン。大振りのイヤリングに、総柄のニットを着たNOKOちゃんにスカイプで話を聞かせてもらった。 父親がタトゥーアーティストであるため、タトゥーが身近な環境で育ったことは容易に想像できる。「父さんがタトゥーを入れてるのを、はじめて見た記憶はないけど、多分赤ちゃんのころ(笑)」 タトゥーをはじめたのも両親
「ダウンロードじゃわからない」「ストリーミングじゃわからない」はてさて、なにがわからないのだろうか? それは人からの言葉。RCサクセションもBLACK FLAGもジョン・コルトレーンもBUTTHOLE SURFERSもツェッペリンもMAYHEMもN.W.Aも、みんな誰かの口から聞いた。音楽が好みだったのか、そうじゃなかったのかは置いといて、先輩だったり、クラスのヤツ、好きな異性、おしゃれな友達の言葉があったからこそ、その音楽に出会えた。辿り着けた。周りの大好きなみんなからの言葉だ。 そしてレコード屋も。カウンター越に矢の如く放たれる聞きなれないアーティト名、バンド名、ジャンル名。矢が心のど真ん中に刺さるたび、音楽がどんどん好きになった。ずっとカウンター前を陣取っていた。今考えれば、大迷惑だったろうに。本当にすいません。そう、ダウンロードでもストリーミングでも、レコ屋さんの言葉は聞けやしない
At least five GitHub employees have quit their jobs in response to the software development platform’s $200,000 contract with Immigration and Customs Enforcement (ICE), according to three sources close to the company. The resignations come on the eve of GitHub Universe, the Microsoft-owned software development platform’s annual marquee event in San Francisco. Wednesday and Thursday, more than 1,70
ロンドン出身のデザイナー/ヴィジュアル・アーティストであり、パンク収集家の顔をもつトビー・モット(Toby Mott)に、スキンズとパンクスの違いから、ゲイ・コミュニティとの関係までを訊いた。 トビー・モット(Toby Mott)はロンドン出身のデザイナー/ヴィジュアル・アーティスト。1983年にアート集団「Grey Organisation」を設立し、ROLLING STONES、PUBLIC NENMY、A TRIBE CALLED QUESTのミュージック・ビデオから、DE LA SOUL、INFORMATION SOCIETYなどのジャケット制作、更には世界各国での様々なアート・エキシビジョンを開催。個人になってからはファッション・レーベルTOBY PIMLICOをスタートさせ、マリ・クレール誌の付録では女子大喜びのバッグも製作した。 そんなセレブリティーな彼のもうひとつの顔こそが
「詐欺の子たちはみんなカラフルですね。例えば、窃盗やってる人間には窃盗やってる人間のカラーがあります。一般社会にはないカラーで、それはそれで取材対象の彩りとしては魅力的なんですが、詐欺をやってる人間は『こいつ詐欺やってんな』というひとつの色ではなく、カラフルなんです」 特殊詐欺の被害総額は、警察が把握しているだけで559億円(2014年)。そして今日も、持てる者たちから持たざる者たちが奪い取っていく。加害者への取材を通してこの重犯罪の実態に迫ったルポ『老人喰い ─高齢者を狙う詐欺の正体』を上梓した鈴木大介にインタビュー。振り込め詐欺をシノギとする若者たちの生態や心情から、アウトローを取材する記者稼業の本音にまで話が及んだ。 * 鈴木さんが裏稼業の子たちを取材しつづけるのはどうしてですか? 取材を始めたキッカケは、純粋に需要があったからです。いまに始まったことではなく、さまざまな社会の裏側の
日本では週60時間の勤務は当たり前。勤勉を重んじる文化は今に始まったことではないが、特に顕著になったのは第二次世界大戦後だ。当時の吉田茂首相は、経済復興のため、企業の長時間労働を推奨した。それから数十年後経った今も、激務や禁欲主義を良しとする風潮は、根強く残っている。 日本の平均的なサラリーマンの労働観は、危険なほど不健全だ。過労による心不全の発症率、自殺率はいずれも非常に高く、政府は、休暇を取りやすくするための試みを何度も行なってきた。 過労が日本の労働者に与える影響を探るのに、念入りな調査は必要ない。写真家のパヴェウ・ヤシュチュク(Pawel Jaszczuk)によると、勤務時間後に街を歩きさえすればいいという。ポーランド出身のパヴェウは、東京で数年間生活するなかで、路上で眠る疲れ果てたサラリーマンを撮り続けてきた。そんな彼に、作品に込められたテーマ、被写体を搾取しているともいえる撮影
無人島は世界のポップカルチャーにおいて重要なロケーションだ。難破船とその船員たちの行きつく先。海賊御用達の秘密の入り江があるかも…? エアコンの効いたオフィスでの、退屈な週40時間労働を乗り越えた私たちの目には、無人島はあまりに魅力的に映る。だからこそ巷には、〈無人島で聴きたいプレイリスト〉とか、高級アイランドリゾートとか、さらに高額なプライベートツアー(裕福なひとびとを無人島に連れていって数週間最低レベルの宿に置き去りにすることで、五つ星ホテル並みの金額をむしり取るサービス)がはびこっているのだ。 でも、無人島体験をするには、高額ツアー(ご興味のある金持ちのアナタは こちら)以外にも手はある。行き先さえわかっていれば、自分の力で、格安の無人島生活を実現できる。行き先ならどこでもいい。ジャカルタだけでも100以上(プロウスリブ(Pulau Seribu)のこと)、インドネシアとフィリピンを
1980年代末、アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国。都市部のゲットーでは、欧米からの影響で、ハウス・ミュージックがポピュラーな存在として定着していた。そこから発展して生まれたのが、「KWAITO(クワイト)」。テンポを落とし、ズールー語やスラングのチャント、そしてパーカッションからピアノなどを取り入れたアフロ・ハウスで、これを機に南アフリカのクラブ〜エレクトロニックミュージックは、独自の世界を生み出して行く。欧米のそれとは明らかに異なり、進化し続ける南アフリカ電子音楽シーン。各都市、各ジャンルを代表するアーティスト、プロデューサー、DJを訪れ、南アフリカ産エレクトロニックミュージックの今を三回に渡りレポートする。 第一回は、ダーバン、ヨハネスブルグ編。ディープなアンダーグラウンドハウス「GQOM」や、伝統的な民族音楽とミニマル・テクノをミックス&高速化させた「シャンガーン・エレクトロ(S
ひと目見て、嫌悪感を抱いた。その男は、私と友人のヘザーが入った空港のレストランで、メキシコの定番朝食料理、ウエボス・ランチェロス(彼が呼ぶところの〈不法入国者フード〉)を食べていた。そいつが実は、ヘザーの義理の兄弟だということが判明したので、私たちは、彼と朝食をともにせざるを得なくなった。 その男(ここではバフと呼ぼう)は、いかにも大学でフットボールやってました、という風貌だった。ただ、現役時代に比べればひと回りもふた回りもデカいだろう。高いスーツを着て、ロレックスの時計を着け、かの悪名高い米国大統領への支持を表明するピンバッジを光らせている。 私たちは同じテーブルについた。職業は何かと尋ねると、バフは、民営刑務所を運営する企業の重役だと答えた。不法入国者を監禁する事業で、政府と契約を結び、多額の収入を得ているそうだ。さらにバフは、自分の妻に対して性差別的なジョークをかますような男だった。
〈ブリガード・アンチセクシスト(Brigade Antisexiste, 以下ブリガード)〉の主催者のひとり、エルサ(Elsa)は、真っ赤なバンダナと、同じく赤地に、白文字で〈SEXISTE〉と書かれた小切手サイズのステッカーを配布した。 ブリガードは、2016年4月に始動した。以来、月1回のペースで活動している。ブリガードの活動内容は、ステッカーと油性ペンを手にパリを歩き回り、公共の場に掲げられた性差別的広告への異議申し立てだ。 2017年12月某日、あいにくの雨、突き刺すような寒さのなか、女性12名、男性3名がブリガードの20回目のパトロールに集まった。 ブリガードのFacebookページでは、「クリスマス目前の今、性差別的広告が店頭に並んでいます。一緒に性差別と闘いましょう」とパトロール参加への呼びかけがUPされた。 参加者がパリ1区と2区にまたがる、ヴィクトワール広場に集合する。高
半生をセックスワーカーとして働いてきた。10代で始め、まずは6年間。その後、12年、セックスワークから離れていた。当時は、またこの業界に戻ってくるなんて想像していなかった。現在は、フリーランスで他の仕事をしているが、収入の大半はセックスワークから得ている。 英国の小さな田舎町に育った私は、13歳の頃、道を踏み外し始めた。パーティーに参加しまくり、ドラッグに耽溺した私は、正真正銘の〈パーティーガール〉だった。時には、学校でドラッグをキメたこともある。当時の状況について、ひとつひとつ検証したわけではないが、もしあの時代に、メンタルヘルスの啓蒙活動が盛んだったら、私の人生は違っていただろう。 17歳のとき、友人数名とアムステルダムへ移住した。若さを謳歌していた私たちは、非常に楽しい日々を過ごした。とにかくパーティー三昧で、常に酩酊状態だった。自分のお金でドラッグを買ったのは、25歳になってからだ
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