タグ

ブックマーク / gitanez.seesaa.net (7)

  • 記憶とサイン(あるいは、デザインされた内面のなかで生きるということ): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日は、新宿ピカデリーのサイン計画などを手がけたことで知られる早川克美さんの「情報コミュニケーション環境のデザイン」(Ustreamログ)というトークイベントに参加させていただきました。 自分でセミナーでお話させていただく機会はたびたびあるものの、他の方の講演を聞くことがほとんどない僕にしては、こうしたイベントに出向くこと自体、とてもめずらしいことなのですが、参加した価値があった!と思わせてくれる楽しい時間をすごさせていただきました。 早川さんとは昨年からTwitterで何度かやりとりをさせていただいていたり、今年のはじめにお会いしてお話をさせていただいたりする中で、とても共感する部分が多いので、今回はぜひ話を聞いてみたいと思って参加させてもらったのですが、あらためて早川さ

    zichao
    zichao 2011/02/14
    印刷以降の「記憶力の低下」
  • 語彙が少ないと仕事の能率もわるい?:DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 1つ前の「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」に続いて、原研哉さんと阿部雅世さんによる対談集『なぜデザインなのか。』より。 今回は、さすが情報のデザイン、コミュニケーションのデザインを仕事にしている原さんならでは、というところをご紹介。 ある企業で聞いた話ですが、工場で働いている人たちの仕事の能率があまりに悪いので、試しに国語のテストをしたら、びっくりするくらい語彙が少なく、成績がよくなかったそうです。たしかに「うぜーな。うぜーよ。メシいこうぜ。マジっすか?」くらいの言葉で済んでしまう世界がある。(中略)それはマズいと思って、その企業は国語教育を始めたんだそうです。それで、彼らが国語が少し面白いと思い始めたあたりから、俄然仕事の効率が

  • 古代日本の月信仰と再生思想/三浦茂久: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 さてさて怒涛の年明け書評エントリー5連発の最後を飾るのは、三浦茂久さんの『古代日の月信仰と再生思想』。 このはまさに最後を飾るのにうってつけなヤバい一冊。 なにしろこの国がある意味ずっと信じてきた日の国としての日の太陽信仰を根底からくつがえす、日は古代、月信仰であったという考えを明らかにしている一冊なんですから。 居宣長や契沖のような江戸期の国学者も、柳田國男や折口信夫のような民俗学者も、土橋寛のような国文学者も、誰も根幹からは疑うことがなかった太陽信仰の日というものを、月信仰の日に全面的に書き換える試みを展開しているのだからヤバい。もちろん、「ヤバい」というのは危ないという意味ではまったくなく、すばらしい!という賞賛の意味でヤバいんです。 アマテラスはかつて

  • フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 以前から読みたかったヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四になったか 実用品の進化論』が文庫版にて復刊されます(1月9日発売です)。 そして、「読みたかった」この書評を発売前のこの時点で書いているのは、実は文庫版出版にあたり、光栄にも僕が巻末の解説を書かせてもらったからです。 ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。 ヘンリー・ペトロスキーの著作に関しては、このブログでも以前に『失敗学―デザイン工学のパラドクス』(書評)や『

    zichao
    zichao 2010/01/07
  • 身体感覚で「論語」を読みなおす。/安田登: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 能楽師(下掛宝生流ワキ方)である安田登さんによる『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』。 これはおもしろかった。 白川静さんが好きな僕には納得感もあった。 有名な「四十にして惑わず」も、「惑」という文字自体が孔子の時代になかったのだから、「40才になったら迷わない」という意味ではないだろう、と著者は考えます。 白川静さんも『漢字―生い立ちとその背景』で「人が神とともにあり、神とともに生きていた時代には、心性の問題はまだ起こりえなかったのであった」と言っているように、「心」という漢字自体が孔子が活躍する、ほんの500年前にできたにすぎない。「心」がついた「惑」は孔子の時代のさらに500年以上あとにようやく登場する。 であれば、孔子が「四十にして惑わず」などと

    zichao
    zichao 2009/12/30
    孔子の「四十にして惑わず」の時代に「惑」の字はなかった。
  • 書くことがないというのは考えてないというのに近い: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日ちょっとインプットとアウトプットのことについて書きましたが、アウトプットという点では、書くことがないというのは考えてないというのに近いんだろうなと思います。 書けるくらいに考えているかどうか。それに満たない考えというのは、たぶん意識がゆらゆらしてるだけであって考えてるとはいわない。 もちろん、この「書く」は、絵を描く、見積もりを書く、ワイヤーフレームを描く、日記を書く、ブログを書く、報告書を書く、など、いろんなアウトプット形式があっていい。ただし、ある程度の量はないと考えというのはまとまったり展開したりしないので、140文字だと話にならない。 考えるというのは頭のなかでアウトプットを構成し組み立て展開する作業だと思います。自主的に「書く」という行為を行っているかは別にし

    zichao
    zichao 2009/12/19
    はい、その通りです。考える習慣が身についてませんです。
  • メタ認知や抽象的思考ができない人が心がけ実践すべき3つの事柄: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 自分で物事を考えて答えを出すということができない人というのがいる。「思考停止」なんて言葉もあるけど、そういう人たちにとって「停止」は動いていた状態からの変化を示す"stop"ではなく、そもそものはじめから思考がスタートしていない場合が多く、最初から思考が働いていない。 そうした人たちに共通するのは、メタ認知ができないこと、抽象的な思考を苦手とすることだとだと思います。見たまんまのことしか考えられない。だから、手法を扱えないし、戦略的な話ができない。 そうした人びとは、抽象的な記述や理論的な話題に対する想像力が著しく欠けていて、それが世界の記述であることをイメージできずに、すぐに「具体的な事例がないとわからない」という。それが自分のメタ認知や抽象的思考力の欠如からくる想像力の

  • 1