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ブックマーク / bunshun.jp (54)

  • 「高畑勲監督解任を提言したあのころ」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #2 | 文春オンライン

    今年4月、映画監督の高畑勲さんが亡くなった。プロデューサーとして支えてきたスタジオジブリの鈴木敏夫氏が語る高畑さんの記憶――それは決して美談ではなかった。(#1より続く) ◆ ◆ ◆ 当時、高畑さんが作りたがっていたのが『平家物語』でした。企画としてはおもしろいものの、誰が絵を描くのかという問題がありました。宮崎駿が「平家の戦いのシーンを描けるとしたら自分しかいない」と豪語していたほどで、技術的にも非常に難しいことは分かっていました。高畑さんは『山田くん』でも活躍した田辺修に描いてもらおうとするんですが、田辺も頑固な男で、「自分は人が人を殺す話は描きたくない」と言う。 そこで僕が持ち出したのが『竹取物語』でした。言わずとしれた日最古の物語で、高畑さん自身、「誰かがいちどきちんと映画にすべきだ」と言っていたのを思い出したんです。あらためて高畑さんにその話をすると、「誰かが作るべきだとは言い

    「高畑勲監督解任を提言したあのころ」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #2 | 文春オンライン
  • 「緊張の糸は、高畑さんが亡くなってもほどけない」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #3 | 文春オンライン

    今年4月、映画監督の高畑勲さんが亡くなった。プロデューサーとして支えてきたスタジオジブリの鈴木敏夫氏が語る高畑さんの記憶――それは決して美談ではなかった。(#1、#2より続く最終回) ◆ ◆ ◆ この作品はいつ完成し、世の中に出せるのか。僕としてはいっさい考えていませんでした。完成したときに公開すればいい。そう腹を括って、予算を含めた態勢を組んでいたんです。間に合う間に合わないですったもんだすることに、ほとほとうんざりしていたということもあるし、高畑さんに気のすむまでやってもらおうという気分もありました。結果的に8年の歳月をかけて、日映画史上最大の50億円もの予算を費やすことになるわけですが、僕としてはいっさい焦りを見せないようにしていました。 「かぐや姫」と「風立ちぬ」同時公開というアイデア それでも、完成の目処がついたと報告を受けたときは心が揺らぎました。というのも、西村が言ってきた

    「緊張の糸は、高畑さんが亡くなってもほどけない」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #3 | 文春オンライン
  • 「あめぞうリンク」は日本のインターネット文化の底流だ | 集まれ「インターネット老人会」 | 文春オンライン

    私は1990年代のほとんどを全国紙の事件記者として過ごしていて、刑事宅への夜回りや現場の聞き込み取材に翻弄されていた。でももともとはそんな仕事を目指していたわけではない。大学を中退して26歳で新聞社に入る以前、ぶらぶらと執行猶予のようにボンクラ学生として過ごしていたころ、ふと思いついてバイト代をはたいて購入したパーソナルコンピューターにすっかりはまり、やがて漢字も使えるマシンに買い替え、ついには国内で販売されたばかりだった通信モデムも買った。 日夜活発に行われた政治や社会、経済の議論 マシンはエプソンのPC-9801互換機、PC-286U。モデムは1200bps。1987年の秋のことだ。Nifty-Serveなどの商用パソコン通信サービスが始まった直後のことで、パソコン購入で貯金を使い果たしていて入会する余裕もない。当時はパソコン通信のホストを個人が自宅で設置するのが小さなブームとなってお

    「あめぞうリンク」は日本のインターネット文化の底流だ | 集まれ「インターネット老人会」 | 文春オンライン
  • 「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1 | 文春オンライン

    高畑さんが亡くなり、「お別れの会」を終えたいまも、気持ちが収まる気配がありません。徳間康快や氏家齊一郎さん、あるいは親父やお袋が死んだときも、葬儀を終えてしばらくしたら、心の整理はついたんです。ところが、今回はなかなか落ち着かない。気がつくと、すぐそこに高畑さんがいるんですよ。こんなことは生まれて初めてです。それだけ強烈な人だったということなんでしょうけど、正直なところ困っています。 お別れの会でも話しましたが、高畑さんと僕は最後の最後まで監督とプロデューサーでした。ある種の緊張関係がずっとあったんです。 鈴木敏夫(スタジオジブリ 代表取締役プロデューサー) ◆ ◆ ◆ 最初にじっくり話をしたのは、高畑さんが『じゃりン子チエ』を作っているときでした。当時の僕は『アニメージュ』の編集者。制作会社テレコムがあった高円寺の喫茶店でインタビューすることになりました。席に着くやいなや、高畑さんは先制

    「なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #1 | 文春オンライン
  • マリンスタジアムの新エース! 球場に広がる「ホンビノス貝」の魅力 | 文春オンライン

    ホンビノス貝の酒蒸し。ZOZOマリンスタジアム内外には1000品を超える飲メニューがあるが、この一品は特別な存在感を示している。海に近いスタジアムならではのメニュー。潮風を感じながらべるとまた一層、味わい深さが出る。貝殻に入った大きなホンビノス貝の身。潮の香りと濃厚な貝のうまみが口の中に広がる。これこそ東京湾に隣接して拠地を持つ千葉ロッテマリーンズならではの味だ。知る人ぞ知るマリン名物だったこの一品を5年前に取り入れた飲業者も胸を張る。 「ホンビノス貝は千葉ブランド水産物にも認定されており、いま注目の材です。東京湾で初めて発見されたのがマリンスタジアム付近の沖であることから、この球場とゆかりを感じて、ぜひ取り入れてみたいと思いました。販売開始は5年前で最初は1日10ほどの売り上げでしたが、2年前くらいから常連のお客さんに定着し始めました」 こだわりにこだわった一品である。オーブ

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  • 桂歌丸さん死去 生前語っていた「笑点」のすべてと「妻」とのやりとり | 文春オンライン

    落語家の桂歌丸さんが、7月2日に81歳で亡くなりました。 『笑点』出演卒業を期に「初代司会は談志さん、わたしの髪もフサフサでした」と番組の50年を振り返った手記を、追悼とともに掲載します。 (出典:文藝春秋2016年7月号) 謹んで、ご挨拶を申し上げます。 わたしが司会を務めさせていただいていた番組『笑点』が、5月の放送をもちまして、めでたく50周年を迎えることと相成りました。 いまの大喜利メンバーの中で、わたしだけが第1回目から出演をさせていただいておりました。当時は新進気鋭の若手で、髪もフサフサ、ひとたび通りに出れば、群がる女性をかき分け、かき分け歩いたものでした(笑)。 50年間、しゃかりきになってやってきました。色々なことがございましたが、これだけ長く続けてこられたのは、ひとえにファンの皆様のお陰でございます。 そしてこのたび、司会の座から降りることに致しました。ここで若い方に譲ら

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  • 千駄ヶ谷・将棋会館の青春――今日もこの街で、勝者と敗者が生まれる | 文春オンライン

    寝静まる真夜中の街。 対局室の光は消えない。 死闘を終えたばかりの男が2人いる。 瀬川晶司、47歳。 今泉健司、44歳。 勝った者は安堵の囁きをもらしている。敗れた者は自嘲の笑みを浮かべている。両者とも髪は乱れ、ネクタイは緩んでいる。紅潮した顔は白熱の余韻を漂わせている。 2018年3月15日、東京・千駄ヶ谷、深夜零時。新しい日付を迎えても4階の対局室「飛燕」での感想戦は続いている。戦い終えた勝負を互いに振り返り、読み筋を語り合う儀式である。 第76期順位戦C級2組最終10回戦。瀬川五段対今泉四段戦は午前10時に始まり、昼休憩と夕休憩を挟んで夜戦に突入した。2人が何度も繰り返してきた一日のリズムだった。 激闘の果てに、瀬川は勝勢を手繰りよせた。正着を重ねれば勝利に辿り着ける戦況だったが、持ち時間を使い果たして一分以内に次の手を指さなくてはならない「一分将棋」の切迫に追われ、失着を指す。

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  • DeNA・宮﨑敏郎と『スイミー』のおはなし | 文春オンライン

    小さい頃、海が怖かった。私は泳げないので海に入るのが怖かった。泳げない私にとって海は広すぎる。いつのまにか遠くへさらっていく波も、あてもなく漂うくらげも、足にからまる藻も怖い。自分が魚に生まれなくてよかったと思っていた。べるほうでよかった。 魚に生まれなくてよかったと思ったのは、小さい頃読んだ『スイミー』の影響もある。大きな海の中で暮らしていた小さい魚の兄弟が、ある日突然巨大マグロに飲み込まれてしまう。そこで一匹だけ難を逃れたのがスイミーだった。カラス貝よりも真っ黒で、泳ぐのは誰よりも早い。だからマグロの襲来から逃げることができた。私はマグロに一飲みにされる側だ。海は広い。広くて怖い。 『スイミー』(福音館書店)とねこ ©西澤千央 野球の神様はいつもベイスターズに試練を与える 去年3位ながらCSを勝ち上がり、19年ぶりに日シリーズに進出した。ベイスターズは一躍注目されるチームになった。

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  • 「いつまでモリカケ」論 新聞読み比べで分かった“それでもモリカケする”理由 | 文春オンライン

    冒頭を引用してみよう。 《国際情勢が激変する中で、日政治家、政党はいつまで森友問題なのか。財務省の文書改竄(かいざん)は確かに重要だが、国家としての日の在り方を問う憲法改正や安全保障問題を政局絡みで矮小化することは国民への背信である。》 櫻井よしこ氏は2か月前から「いつまでモリカケやってんだ」と主張していたことがわかる。 このころ「蚊帳の外」という言葉もよく聞いた。日だけ取り残された論である。櫻井氏はこの論に対しても、 《わが国の安倍晋三首相だけが取り残されたとの指摘があるが、皮相な見方であろう。北朝鮮が平和攻勢に転じたのは日の攻めの姿勢ゆえだ。》 と「蚊帳の外」も否定していた。

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  • 米朝会談、金正恩外交の“成功”からオリックスが学べること | 文春オンライン

    交流戦という事もあって、今月の「文春野球コラム」は変則オーダー。各々のライターの登場順序も対戦相手を踏まえて、いつもと異なるものとなっている。筆者が指定された対戦相手はDeNA。筆者の所属先が神戸大学である事を踏まえた、神戸対横浜、「港街対決」に違いない。そう今回こそ真面目な野球コラムを期待されているに違いない。 ……って、その僕の登板日時、どう考えても、米朝首脳会談の翌日に、原稿の締め切りを設定しただけじゃないですか>文春さん。という事で、仕方ないので、今回、もう一回だけ「期待」に応えてやらせていただきます。 明らかな外交経験不足の金正恩 *****これは文春野球コラム ペナントレース2018の記事である***** 世界が注目した米朝首脳会談。開始前、アメリカトランプ大統領は密かにほくそ笑んでいたかも知れない。交渉相手の金正恩は未だ34歳の若い指導者。父、金正日の死後、政権を継承してか

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  • 50年越しについに開通! 外環道&国道298号いよいよ千葉へ | 文春オンライン

    6月2日、外環道(三郷南IC~高谷JCT)と国道298号(国道6号~国道357号)がついに開通した。都心から北関東へと伸びる4つの放射道路を接続する環状道路の整備がもたらす効果は計り知れない。 首都圏の道路交通網の基盤として、1963年に計画された「3環状9放射ネットワーク構想」。その中で、関越道や東北道など都心から放射状に伸びる道路をリング状につなぐ3つの環状道路の一つとして重要な役割を担っているのが「外環道」だ。今回、三郷南IC~高谷JCT区間が開通したことで、外環道は全体の約6割が完成。湾岸エリアと北関東方面をつなぐ東関東道、常磐道、東北道、関越道の4つの放射道路がつながったことになる。 右・NEXCO東日 関東支社千葉工事事務所 所長 木曽伸一 北海道出身。1985年入社。これまでに道央道、上信越道、外環道の建設に携わる。16年7月から現職。 左・国土交通省 関東地方整備局 首都

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  • “1年生は雑務をやらない”京大アメフト部という「体育会組織」の合理性 | 文春オンライン

    思うに、ステレオタイプな「体育会系」という言葉が示すような、上意下達の組織構築が健全に行われるには、トップに強固なカリスマが必要だ。選手が道を誤った時にはしっかりと軌道修正をし、指針を示せる。そんな存在が必須なのである。かつて黄金時代を築いた1980年代以前の日大アメフト部には、故・篠竹幹夫元監督という存在がいたからこそ、その強さと健全な組織力が維持できたのだろう。 一方で、そういった強烈なカリスマは常に集団に存在するわけではない。では、そんな先導者のいない組織が強くなるために必要なのは、どんな要素なのだろう。 勝つための徹底した“合理主義” ひとつの興味深いチームがある。 京都大学アメリカンフットボール部。 ご存知のように、京大と言えば東京大学と並んで日を代表する難関国立大学の最高峰だ。もちろん強豪の私学のようなスポーツ推薦の選手はいない。それでも1980年代~90年代の京大は、大学王

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  • ぼくのママはオムライスにケチャップで“5”ってかくの | 文春オンライン

    「ママが……ずっとげんきがないんです」 「ママ、具合が悪いの?」 「ううん、げんきだけど、げんきがないの」 「そうなのか。きみは何歳かな?」 「5さい。もうすぐ6さいになります」 「えらいな。ママのことが心配なんだね」 「うん、だってもうずっとわらってないんだ、ママ」 「いつもは笑ってるのかな?」 「うん。ママはぼくがピーマンたべたときと、あと……」 「あと?」 「くらもとがヒットをうつとわらいます」 「くらもと?」 「ベイスターズのせんしゅです」 「ママは野球がすきなんだね」 「うん。ママはベイスターズのくらもとせんしゅがすきなの。だからぼくもくらもとせんしゅがすき」 「そうか。おじさんも野球がすきだよ。どこのチームがすきというのではないけどね」 「ママはいつもピーマンがはいったオムライスにケチャップで『5』ってかくの。『ピーマンがたべられるおまじないだよ』って」 ケチャップで「5」と書

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  • 「日本一選挙に強い男」中村喜四郎は、なぜ新潟県知事選に本気で挑むのか | 文春オンライン

    衆院ナンバー3の古株でありながら 告示後も3度にわたり新潟入り。自民・公明両党が支持する男性候補者と競り合う中越地方で「極秘のローラー作戦」を展開し、同地方のホールでは500人の聴衆を前に「新潟から女角栄を生みだしていただきたい」と熱弁を振るった。選挙戦終盤には野田佳彦とともに街頭でマイクを握り、知られざる雄弁家の一面を見せつけた。 議員生活40年。小沢一郎、野田毅に次ぐ衆院ナンバー3の古株でありながら、一部の政治通を除けば、忘れられた存在だ。それも無理はない。1994年3月にゼネコン汚職事件で逮捕され、自民党を離党してから四半世紀が経とうとしている。その間、国会の議場では1度しか発言したことがないのだ。 しかし、衆院茨城7区では熱狂的な支持を集め、麻生太郎側近の自民党現職に5戦5勝。中村の応援に森喜朗や古賀誠ら引退した大物たちが入ったこともあり、同じ中学校の後輩である公明党代表の山口那津

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  • “怪優”佐野史郎が「フジテレビをぶっ壊す」と思ってた時代 | 文春オンライン

    テレビで見た団地への憧れ ――主演される『限界団地』はその名の通り団地が舞台です。佐野さんには「団地の思い出」はありますか? 佐野 僕は昭和36年まで練馬にいて、7歳から島根県の松江で過ごしましたから団地には縁がなかったんですよね。松江は県庁所在地とはいえ、その頃はほんとに田舎の風景で、クラスの半分は農家の子。その子たちは農繁期の刈り入れ時になると午前中で帰っていました。家の手伝いだから。ただ、テレビなんかで文化住宅や団地の映像は目にしていたから、なんとなくの憧れはありました。 佐野史郎さん ©山元茂樹/文藝春秋 ――松江から上京されるのは74年、昭和49年のことですね。 佐野 高校卒業して、表現の道に進みたくて東京に出てきたんですが、一人暮らしする時に団地への憧れって、まだやっぱりありましたね。友だちが荻窪団地に住んでいて、倍率が高いだの、入居手続きが面倒だの話を聞いていると羨ましいとい

    “怪優”佐野史郎が「フジテレビをぶっ壊す」と思ってた時代 | 文春オンライン
  • 佐野史郎が語る「冬彦さんは平成のゴジラだった」 | 文春オンライン

    佐野 ありがたいことに映画は主演デビューでしたし(林海象監督『夢みるように眠りたい』86年)、舞台や映画、単発のドラマなどではフロントに立って仕事をすることは今までにずいぶんやってきたんですが、地上波の連続ドラマっていうのがね、またこれまでと違った責任を感じるんですよ。 『限界団地』第2話より ◆オトナの土ドラ『限界団地』(東海テレビ・フジテレビ系)毎週土曜日23:40~放送。第2話は6月9日24:05~、第3話は6月23日放送予定 ――テレビの地上波だからこその責任ですか? 佐野 視聴率をどうしても意識してしまいますでしょう? それは脇役の冬彦をやっていた時でさえそうでしたから、主演となると重いですよ(笑)。『ずっとあなたが好きだった』が放送された時代って、今からもう26年も前になりますけど、あの頃はフジテレビの月9、トレンディードラマが全盛で、W浅野で視聴率30%超えみたいな世界でした

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  • “賛否両論の登山家”栗城史多さんとは何者だったのか | 文春オンライン

    登山家の栗城史多さんがエベレストで亡くなった。これを書いている5月22日現在では、死因などについての詳しい情報が入ってきていないので、事故についてはなにもわからない。現時点で言えることは、栗城さんが亡くなったことは間違いないようだということだけ。事故の詳しい状況は、おいおい明らかになっていくと思うので、その時点で、なんらかの論評はできるのだろう。 栗城さんというのは、なにかと物議を醸してきた登山家だ。世界7大陸最高峰の無酸素単独登頂をめざして活動し、注目され始めたのは、2009年ごろ。6大陸の最高峰に登り、残るエベレストに挑戦を始めたころだ。このころから、彼を取り上げたテレビ番組が数多く放送され、著書はベストセラーになり、現役の登山家としては圧倒的な知名度を獲得していった。一方で、その登山の内容や発言には疑わしいものが目立つとして、激しいバッシングも受けていた。これほど評価の振れ幅が大きい

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  • 日大アメフト部内田監督「14分の自供テープ」を独占公開 | 文春オンライン

    5月6日、関西学院大学との定期戦における悪質タックルが大きな批判を受けている日大学アメフト部。22日の会見で宮川泰介選手(20)は、内田正人監督(62)から反則行為の指示を受けたと明かしたが、内田監督自身が試合直後、「僕、相当プレッシャー掛けてるから」などと反則プレーの指示について“全面自供”していたことが分かった。 「週刊文春」取材班が入手した「自供テープ」は14分に及ぶ。そこには関学大との試合後に行なわれた内田監督の囲み取材の模様が収録されていた。 「やっぱ、今の子、待ちの姿勢になっちゃう。だから、それをどっかで変えてやんないと。練習でも試合でもミスをするなとは言わないですよ。ミスしちゃダメよ、反則しちゃダメよと言うのは簡単なんですよ。(中略)内田がやれって言ったって(記事に書いても)、ホントにいいですよ、全然」 悪質タックルについては「あのぐらいラフプレーにならない」と答えた上で、

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  • ゲームボーイを開発した伝説の技術者・横井軍平「私はなぜ任天堂を辞めたか」 | 文春アーカイブス | 文春オンライン

    さる8月15日、30年以上勤めた任天堂を退社しました。大学を出てからずうっと任天堂で玩具作りにかかわってきたのですが、55歳を区切りに自分のアイデアをもっと自由にいかせる仕事をしようと考えたのです。 もっとも、新しい門出に、いきなり洪水のような報道が襲ってきました。 退社する前日に、『日経済新聞』が私のことを大々的に報じたのです。 いわく「ゲームボーイを開発した功労者が退社した。鳴り物入りで宣伝した『バーチャルボーイ』失敗の責任をとったものだ」 いわく「『NINTENDO64』が予想以上に売れていないため、任天堂の利益が大幅に減っている」 二つの「事実」を並べて読むと、読者には任天堂が大変な苦境に陥り、まるで内紛でも起こっているかのように思えるでしょう。 実際には、私は「『バーチャルボーイ』失敗の責任をとって」辞めたわけではありません。 前々から、55歳になったら、独立したいと考えていま

    ゲームボーイを開発した伝説の技術者・横井軍平「私はなぜ任天堂を辞めたか」 | 文春アーカイブス | 文春オンライン
  • なぜ#MeToo運動はジャニーズ事務所やTOKIO山口達也には文句を言わないのか? | 文春オンライン

    核心については明らかにされずに終わってしまった 弁護士同席の下で行われたこの記者会見、どのような経緯で事件にいたったかという核心については明らかにされずに終わってしまった、ただただ残念な話なんですよね。 もちろん、世間一般のアルコール依存な人たちについて、投げかけられる目線が冷たいわけです。人の意志とは関係なく、つい酒を飲んでしまう、飲んだうえでいろいろやらかしてしまう……。これらは、社会通念上は「酒癖が悪い」とか「酒で失敗するタイプの人」などという、まるっとしたワードで語られて終わってしまいます。如何にも「意思が弱いからアルコールを断てないのだ」と。 5月2日のTOKIOメンバーによる記者会見 ©文藝春秋 でも、実際にはアルコール依存から脱却しようとすると、人の意志の強い弱い関係なく、きちんとした治療は必要です。「もう飲まないぞ」となっても、きちんと見ていてくれる家族が必要だ。場合に

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