■異端の社会言語学者でモンゴル学者・田中克彦の「最初で最後の日本語論」■ ラディカルな本である。コトバの本来の意味で、日本語のありかたについて根源的な問いかけを行っている本である。 せっかく受け入れたフィリピンやインドネシアからきた外国人看護士を実質的に閉め出しているのは、医療関係者以外は日本人でもまったく読めも書けもしないような難しい漢字の専門語をクリアしなくてはならないからだ。 ワープロの使用によって、不必要なまでに変換されてしまう漢字にみちみちた文章。これは日本語への世界的な普及には、むしろ大いに逆行する現象だ。 現在の日本語の状況は、ビジネス界の流行語をつかえば「ガラパゴス化」とでも言うしかない。 本書でとくに重要なのは、「漢字に苦しめられてきた中国」にかんする第3章だろう。中国語をローマ字で表記するピンイン、そして簡体字。その先には、漢字の産みの親である中国ですら、漢字の廃止とい
「憲法改正論議」は、自民党の安倍晋三内閣がきわめて短命に終わってから、残念なことに下火になってしまったようだ。未曾有(みぞう)の国難の最中にいる現在、憲法改正論議どころではない、というのも当然といえば当然だろう。 「自主憲法制定」。わたしはこの動きには全面的に賛成である。「新憲法」制定の舞台裏にかかわった白洲次郎自身が、いずれ自主憲法制定が必要だと考えていたことは、政治学者によるインタビュー記録で読んだことがある。肝心要の話は、棺桶までもっていってしまったようだが。 中学時代だろうか、社会科の教師がすばらしい「前文」だと言って朗読したのを、その表情まで覚えているが、あらためて高校の「現代社会」の授業で日本国憲法を習った際には、正直なところ、憲法の条文はなんだかわかりにくいヘンテコな日本語だと思った。大日本帝国憲法のほうが格調高くてよい、と。 それは当然だろう。そう思うのは、私だけではないの
■「グループ・シンク」とは? 「グループ・シンク」とは、集団による意志決定につきまとう「弊害」についての話です。 「グループ・シンク」(Group Think) を直訳すると 「集団思考」 となります。 グループが「全員参加」で考えて何が悪いのだ?・・・という声も聞こえてきそうですが、「全員参加」 と 「集団思考」 は実はまったく異なるものなのです。 全員で考えることは重要ですが、最終的な結論はリーダーが決定しなくてはいけません。 では、その「グループ・シンク」の説明は、弊害がでた典型的なケースについてやや詳しく見ることをとおして行ってみたいと思います。 ■大東亜戦争の開戦決定に至るまでの、無責任な「なし崩し的」な集団的意志決定 昨日(2011年3月6日)、「NHKスペシャル シリーズ 日本人はなぜ戦争へと向かったのか」の「第4回 開戦・リーダーたちの迷走」をやっていました。 ご覧になった
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