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人物とオランダに関するamanoiwatoのブックマーク (2)

  • アン女王とマールバラ公一家

    ~Vol.142~ アン女王とマールバラ公一家 ~永遠の別れ~ 名誉革命(1688)でフランスに亡命したイギリス・第二次ステュアート朝(1660-1714)の国王ジェームズ2世(位1685-88)と妃アン=ハイド(1637-71)との間には女王となった娘が2人いる。うち1人はジェームズ亡命後イギリス女王となったメアリ2世(位1689-94。夫のウィリアム3世(位1689-1702)と共同統治)で、もう1人はその妹アン=ステュアート(1665-1714。国王在位期間は後述)である。 アンはセント=ジェームズ宮殿(テューダー家から伝わる宮殿)で生まれた。新教徒として育てられ、読書よりもスポーツを愛好した活発な少女時代を送った。1683年、デンマーク王弟ヨウエン(ジョージ。1653-1708)と結婚したが、十数回もの懐妊があったにもかかわらず、不幸にも多くは流産・死産となり、出産に成功しても病気

  • アンネの日記とミープ・ヒース (No.612 10/01/13) | ミネルバのフクロウ

    アンネ・フランク一家を匿(かくま)い、「アンネの日記」の発見者としてオランダの英雄にまでなったミープ・ヒースさん(右の写真)が、11日に死去したとニュースで報じていた。先日亡くなったレヴィ=ストロースと同じ、百歳だったという。彼女はナチのユダヤ人迫害を避けてフランクフルトからオランダに逃げて来たアンネの父、オットー・フランクの会社で秘書として働いていた。だが、ナチがオランダまで侵攻してきて危機を感じたオットーは、会社の最上階に秘密の部屋を造り、ここに8人のユダヤ人と隠れて暮らす決心をする。彼らの生活は下の階に住むヒース夫婦や数人のオランダ人が秘密裏に支援していたのだ。しかし、逃亡生活は、1944年8月、密告者に通報されて終了する。彼らは逮捕され、アンネは姉のマルゴットと共にドイツ・ニーダーザクセン州にあったベルゲン・ベルゼン強制収容所、両親はポーランドのアウシュビッツ強制収容所に送られた。

    アンネの日記とミープ・ヒース (No.612 10/01/13) | ミネルバのフクロウ
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