戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。私も80を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えなが
天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。
なかなか刺激的なタイトルだ。 わずか7文字の中に、知的好奇心を刺激してやまない「違和感」が内包されている。 まず「戦国」と「天皇」がうまく結びつかない。日本史で習った天皇を思いつくままに挙げてみても、古代であれば神武、推古、聖武、桓武といった有名ドコロがすぐに浮かぶし、中世になると、後に院政を敷いたことで知られる白河、鳥羽といったあたりが思い出される。しかし、その後となると、多くの人にとって耳馴染みがあるのは後醍醐天皇くらいで、建武の新政が崩壊して室町時代に入ってくると、その頃の天皇の名前はほとんど知らないのではないだろうか。 そして「貧乏」と「天皇」も、同じように結びつかない。鎌倉幕府の誕生以降、武家統治の時代が長かったのは事実としても、やはり天皇は一貫して日本史の中心にいたはずだ。武家の時代にあっても、たとえば征夷大将軍の任命権限を持っていたのは天皇だ。要するに、武家にとっても天皇の権
先日の記事「近代日本、海水浴の誕生」で明治時代に日本の医療制度の確立に多大な影響を与えたドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツについて紹介したが、そのベルツの日記に、彼が侍医を務めた皇太子嘉仁(後の大正天皇)の結婚に関するエピソードとして、伊藤博文の発言が紹介されている。明治三十三(1900)年五月九日の日記より。皇太子の結婚は翌日五月十日のこと。 『一昨日、有栖川宮邸で東宮成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをして見せたのである。――こんな事情をなんとかしようと思えば、至極簡単なはずだが。皇太子を事実
文化十年(1813年)閏11月2日、第117代・後桜町天皇が74歳で崩御されました。 ・・・・・・・・・・ 宝暦十二年(1762年)から明和七年(1771年)まで、9年に渡って在位した第117代・後桜町(ごさくらまち)天皇・・・諱(いみな)を智子(としこ・さとこ)様とおっしゃいます。 そう、後桜町天皇は女性・・・ 江戸幕府の初めに、朝廷と幕府の関係のギクシャク感にブチ切れた後水尾(ごみずのお)天皇が決行した前代未聞の意地の譲位で、その後継者となった第109代明正(めいしょう)天皇(11月10日参照>>)以来、119年ぶりの女性天皇です。 他の女性天皇の多くがそうであったように(例外あり)、彼女もまた、中継ぎとして立てられた女帝でした。 前天皇の第116代・桃園天皇が22歳で亡くなり、その息子である英仁親王(ひでひとしんのう・後の第118代後桃園天皇)が、未だ5歳という幼さであったため、彼が
平安王朝 (岩波新書) 作者: 保立道久出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1996/11/20メディア: 新書 クリック: 12回この商品を含むブログ (22件) を見る 再読 平安遷都から平家の滅亡までを、「王の年代記」として描いている。延喜・天暦の治と言われる天皇親政は、適当な人臣に恵まれなかった故のことであった。平氏の専横と言われる福原遷都も、天皇自身が目指したことだった。 これまでのイメージを覆し、主体性を持った天皇たちが現れてくる。 幼帝が即位すると、その皇太子には前天皇の弟が立つことになる。(現天皇の叔父)すると、天皇と皇太子の年齢の逆転が起きる。そして、その幼帝の治世が長引けば、皇太子は長い「待ち」の時を過ごすこととなる。その間、摂関家の方も、長子は天皇の側近となり、次男などは東宮の側近となる。そのため、天皇家、摂関家ともに家族の中で矛盾を抱えることになる。 それが現れた
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