タグ

昭和と戦争に関するamanoiwatoのブックマーク (8)

  • 戦争責任「言われつらい」 晩年の昭和天皇が吐露 - 日本経済新聞

    昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と漏らしたことが、元侍従の故小林忍氏の日記に記載されていることが分かった。共同通信が22日までに、小林氏の日記を入手して判明した。日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に

    戦争責任「言われつらい」 晩年の昭和天皇が吐露 - 日本経済新聞
  • 天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会 - 読む・考える・書く

    特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦 「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死 沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月) 戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月) こちらの記事へのコメントで要望を頂いた件、面白そうなのでやってみた。 昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。 特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言

    天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会 - 読む・考える・書く
    amanoiwato
    amanoiwato 2018/08/17
    日本の天皇制はあえて実際の権力から距離を置くことで長い間権威を維持して存続してきたのに、それに成り立ちも背景も性質も全く違う西洋の立憲君主制を無理矢理ブレンドした無理のある体制に愚直すぎた結果では。
  • http://chusan.info/b-mokuji.htm

  • 加藤春江 1945年8月6日

    加藤春江 1945年 夏 私は挺身隊の一員として被服廠に通っていた。 それも女学校4年生の終り、突然、多賀谷先生がコヨリの先に青や赤や黄色を先にぬり、 色とりどりのコヨリを束ねて、手に持ち、両手で上手によじった。 そして生徒皆んなの席に順番に来ては1づつ引かせた。 皆んなは赤や青のコヨリを手に持った。 先生は真剣な面持でチョークを持ち黒板に書きつづっていった。 赤―被服廠 青―兵器廠 黄―糧秣廠(りょうまつしょう)……… 皆んなは、赤は赤、青は青、と、ひとかたまりになり、わあーわあーきゃあーきゃあーさわいだ。 (皆んな静かにしなさい。皆んな仲良し同吋で行きたいでしょうが、それでは困る人があるんで 公平にする為めに、くじにしたのです) と云った。 私はいやだった。 被服廠10人と云われた時、仲良しは1人もいなかった。 でも決まった事だから我まんした。べるものがない時だったので母は喜んだ。

  • 「回天」

    1943年(昭和18年)夏、日の敗退が続く中、二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻しかないと、人間魚雷を構想。その後、戦局はさらに悪化し、海軍省はついに試作兵器を完成させ、1944年(昭和19年)8月、正式兵器として採用された。祖国を守りたいとの一心から、特攻兵器「回天」は誕生したのである。  そして同年9月、試験発射場のあった大津島に回天基地が開設され、全国から多くの若者たちが集まってきた。 終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は1375人にも及んだ。そのほとんどが兵学校・機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者たちだった。年齢も17歳から多くても28歳、大多数は20歳前後の若者であった。  回天による戦没者は、搭乗員、整備員他145名、没時の平均年齢は21.1歳である。 出撃隊が編成され出撃が決まると、最後の別れのため、我が家に帰ること

    「回天」
  • 虚構の皇国

    twitterのプロモーションツイで流れてくる、ミドルの転職「防衛省」。複数の画像パターンがあり、一度リンクを踏むと何度でも出てくる。新作が出てくるたびに貼り付けていきます。 2022年11月11日採取分 2022年11月10日採取分 2022年10月26日採取分 ************ 7月8日の安倍晋三元首相銃撃事件の前に執筆したものの、事件を受けて特集用の特別紙面が組まれたため掲載をとりさげた原稿ですが、もったいないので、その冒頭部分をここに掲載します。 右派論壇誌2誌の巻頭を同時に飾った 安倍晋三・櫻井よしこ「対談」企画の不思議 もともと『WiLL』編集長であった花田紀凱氏が編集部まるごと発行元のワックから飛び出し、2016年に創刊したのが『月刊Hanada』(飛鳥新社)だ。狙っている読者層も同じなら表紙のデザインも酷似、記事の書き手も重複しているという、ある意味とっても「なかよ

    虚構の皇国
    amanoiwato
    amanoiwato 2013/11/12
    読めば読むほど、北朝鮮を笑えなくなってきます。
  • 英霊の遺書や手紙・遺品6 英霊に捧げられた花嫁人形 - 昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

    昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。 靖國神社の遊就館に、23歳の若さで戦死された陸軍軍曹佐藤武一さんに対し、母上様から捧げられた花嫁人形がある。 佐藤武一命の略歴は 歩兵第二十二聯隊所属、昭和二十年四月十日沖縄島幸地にて戦死。 北海道山越郡八雲町出身、二十三歳。 北海道の佐藤ナミさんから、を娶ることなく若くして戦死した我が子・・・「陸軍軍曹佐藤武一命」のために「桜子」さんと名付けた花嫁人形が靖國神社に奉納されています。 ご子息の戦死から33年後に奉納されたその人形に、ご子息への深い愛情が綴られた手紙が添えられています。 武一よ貴男は当に偉かった。23才の若さで家を出て征く時、今度逢う時は靖國神社へ来てくださいと雄々しく笑って征った貴男だった。 どんなにきびしい苦しい戦いであっただろうか。沖縄の激戦で逝ってしまっ

    英霊の遺書や手紙・遺品6 英霊に捧げられた花嫁人形 - 昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本
    amanoiwato
    amanoiwato 2013/11/12
    こう言っては申しわけないが、何かグロテスクなものを感じてしまう。
  • 朝日新聞の終戦(事件史探求)

    -経緯- 昭和20年8月15日、日は連合国の所謂ポツダム宣言を受諾。ここに、昭和16年12月8日の真珠湾奇襲攻撃から始まった太平洋戦争に幕が下りた。この戦争で、日人は一般市民を含めて約320万人という未曾有の戦死者をだした。この悲惨な戦争に国民を駆り立てたのは何だったのか。軍部を中心に政府、議会という国家権力の指導のもと戦争に向かっていったのは事実であるが、一方で国民に公平中立であると思われていたマスメディアとりわけて新聞社の罪も大きい。終戦前日までの記事は一貫して積極的に戦争を煽っていた。戦争を美化し、アジアの開放を訴えて国民に鼓舞する論調は、朝日新聞に限らず殆どの新聞社も同様の路線であった。 朝日新聞の8月15日は、どのようなものだったのか。 ・・・その日午後、村山社長出席のもとに編集局部長会議が開かれた。私はこう述べた。「仕事は平常通りやっていこう。何も動揺することはない。

  • 1