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都市と歴史に関するamanoiwatoのブックマーク (7)

  • 多摩川、消えゆく河川敷集落 在日ら助け合い60年余:朝日新聞デジタル

    川崎市幸区の多摩川の河川敷にある戸手4丁目の一角。ここに戦後まもなく在日韓国・朝鮮人が住み始めて60年余り。わずかに残ったトタン屋根の住宅が、スーパー堤防などの都市開発で消えようとしている。地域を歩き、この街に生きた人たちの思いを聞いた。 JR川崎駅から北に2キロ足らず。多摩川沿いに200メートルほどの集落が続く。 かつては約1キロにわたって並んでいた。住民登録していない人も多く、住んでいた人数は市も分からない。いまこの街で暮らすのは3世帯。ほかに古紙回収業者の事務所やキリスト教の川崎戸手教会、廃屋などが並ぶ。

    多摩川、消えゆく河川敷集落 在日ら助け合い60年余:朝日新聞デジタル
  • 首都圏の主要道路の変遷メモ

    明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。 ■今昔マップ on the web 首都圏編 で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。 なお、情報源はこの今昔マップが主で、一部ウィキペディアからの情報で補足しているが、事実と異なる記述があったらご容赦。自分の興味地域は、東京南部~神奈川なので、以下はそのエリアについてのみ。 【おもな放射道路編】 東海道(国道1号・15号)日橋~品川区間。 1900ごろ時点で現在の国道15号と同じルート。市電も敷設されていた。八ツ山橋が現在の道路形状になったのは1960ごろ。品川~横浜間。 京急線が1900ごろ時点ですでに敷設されているが、道路は現在の旧東海道のみ。六郷橋は1900ごろ時点ですでに架橋されていた。現在の国道15号品

    首都圏の主要道路の変遷メモ
  • サービス終了のお知らせ - NAVER まとめ

    サービス終了のお知らせ NAVERまとめは2020年9月30日をもちましてサービス終了いたしました。 約11年間、NAVERまとめをご利用・ご愛顧いただき誠にありがとうございました。

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  • 「建築のジェノサイド」に気付かない日本

    今週のコラムニスト:レジス・アルノー 〔9月3日号掲載〕 鎌倉を世界文化遺産に登録しないように──ユネスコ(国連教育科学文化機関)の諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)がそう勧告したことを受け、松尾崇・鎌倉市長と黒岩祐治・神奈川県知事は会見で無念さをにじませた。 鎌倉市当局は中世の都市としての「物的証拠が不十分」と指摘されたことを認め、私にこう説明した。人類の遺産として保護する価値があると世界に認めてほしいのは、鎌倉を取り囲む山々とその麓に点在する寺院や遺跡だ。そこに日独自のサムライ文化があると自分たちは考えているが、イコモスにはその意図が十分伝わらず、「武家の古都」とする根拠が不十分だと判断された、と。 黒岩知事は今回の勧告に「目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた」と語った。こんな妥当な判断に衝撃を受けているようでは、知事の体が心配になる。そもそも県の誇る珠玉・鎌倉がじわじわ破壊さ

  • 後藤新平 - Wikipedia

    後藤 新平(ごとう しんぺい、旧字体:後藤󠄁 新平󠄁、1857年7月24日〈安政4年6月4日〉- 1929年〈昭和4年〉4月13日)は、日の医師、官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 愛知医学校長兼病院長。台湾総督府民政長官。南満洲鉄道(満鉄)初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日連盟初代総長。東京放送局(のちの日放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。 計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日の南方・大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進にも従事した[1]。 仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる[2]。江戸

    後藤新平 - Wikipedia
  • 小田急に「林間」駅なぜ多い 夢と消えた遷都構想 |エンタメ!|NIKKEI STYLE

    中央林間、南林間、東林間――。小田急電鉄の路線図を見ると、「林間」と名乗る駅が目に付く。相模原市から大和市にまたがるエリアにあり、住所にもなっている。この辺りに伝わる由緒ある地名なのだろうか。調べてみると、それはかつて小田急が進めた壮大な都市計画の名残だった。遷都論まで飛び出した構想の全貌を探った。小田急が推進した「林間都市計画」新宿駅から小田急小田原線に乗り、相模大野駅で江ノ島線に乗り換え

    小田急に「林間」駅なぜ多い 夢と消えた遷都構想 |エンタメ!|NIKKEI STYLE
    amanoiwato
    amanoiwato 2013/04/05
    もろ前に住んでいたところだ!南林間が何故急行停車駅なのかずっと不思議だった。隣駅の鶴間の方が、ショッピングモールが出来たお陰で栄えてる。
  • 焼け野原にならなかった東京めぐり

    東京の町を歩いていて、ここの町並みちょっと雰囲気あるなーと感じることがある。 後で調べると戦災を逃れた町だったことが分かったりする。そう感じるほどに、逆にほとんどの場所が焼けてしまったということだろう。 たまに聞く、焼け野原にならなかった町。それらはどこにあって、今どういう雰囲気なのか?いくつかめぐってみました。

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