元和2年(1616)4月17日、駿府城にて徳川家康公は75年の波乱に満ちた生涯を閉じました。その遺言に従い、遺体は久能山に埋葬され、1周忌の後に日光へうつし祀られました。久能山から日光にいたる約300キロの道のりとは、一体どのようなものだったのでしょうか?そのことを解き明かす上で、仙波東照宮は重要な意味を持っています。 元和3年(1617)3月15日、徳川家康公移葬のため、天海僧正率いる大行列が久能山を出発しました。その数1000人を超える大行列であったといいます。家康公を納めた神柩は金輿に移され、御一行はきらびやかに装い、さながら神の巡行を連想させるものであったといいます。その大行列は4月4日に日光へ到着しました。日数にして19日間の大移動でしたが、そのうちの4日間、現在でいう埼玉県川越市仙波の地にとどまっていたといいます。天海僧正は自らが住職を務める喜多院で、4日間にわたる丁重な法要を
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