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ブックマーク / senjp.com (5)

  • 足利直冬 反逆の貴公子 生涯をかけて足利家に反抗した尊氏の次男

    鎌倉時代末期から南北朝時代。利害により敵味方が入れ替わる激動の時代。 そんな時代において来、肉親は信頼できる味方になり得るはず。 今回紹介するのは、足利尊氏の息子の足利直冬(あしかが-ただふゆ)。 青年に達した時期から父である尊氏、また義理の兄弟である義詮(2代将軍)の 反対勢力として存在することになります。 反対勢力となったのはなぜか? また、尊氏・義詮に対してどのような反抗勢力であったのか? 直冬の軌跡を辿ってみることにしましょう。 不遇の生い立ち~尊氏に敵対するようになった主要因~ 足利直冬の生年はわかっておらず、没年は1387年とされている。 幼名は新熊野(いまくまの)。 尊氏の次男として生まれ、兄に竹若、弟に義詮、基氏らがいる。 尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した時、鎌倉にいた竹若、直冬は命の危険にさらされる。 1332年、竹若は北条の手にかかり殺害されてしまうが、東勝寺の喝をして

    足利直冬 反逆の貴公子 生涯をかけて足利家に反抗した尊氏の次男
  • 亀の前【源頼朝の妾】おもしろ浮気解説【鎌倉殿の13人】妙悟尼~漁師・権三も

    亀の前とは 亀の前 (かめのまえ) / 亀 は、良橋太郎入道の娘とされる鎌倉時代初期の女性ですが、どんな人だったのか?、生い立ちなどをご紹介したいと存じます。 父とされる良橋太郎に関してはよくわかっていませんが、源頼朝に従っていた家来だった可能性があります。 そのためか、吾鏡では源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)にて流罪となってから、亀前は側近くで仕えた女中であったとあります。 亀の前は、美人で性格も柔和だったとされますが、生没年などは不明です。 2022NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、女優の江口のりこさんが、亀(かめ)を演じられます。 と言う事は、脚が三谷幸喜さんだけに大泉洋さんが演じられる源頼朝は、いつも怒られたり、亀など女性に頭が上がらないような雰囲気になる予感も致します。 その後、ドラマ(時代劇)での「亀」の設定がわかりました。 ドラマ(創作の時代劇)において、亀

    亀の前【源頼朝の妾】おもしろ浮気解説【鎌倉殿の13人】妙悟尼~漁師・権三も
  • 太平記【わかりやすく解説】硬派な軍記物語?怨霊が登場するファンタジー?

    太平記とは 『太平記』(たいへいき)は、南北朝時代の動乱を描く軍記物語です。 足利尊氏をはじめ、楠木正成、新田義貞、後醍醐天皇、佐々木道誉、高師直、足利直義、護良親王、赤松則村、北畠顕家など魅力的な人物が登場し、敵味方が激しく入れ替わりながらストーリーが展開されます。 現在、書籍や各種メディアで取り上げられる太平記は、 ・鎌倉幕府執権:北条氏の悪政 ・鎌倉幕府に反抗する後醍醐天皇を中心とした勢力の蜂起 ・鎌倉幕府の滅亡、建武の親政開始 ・建武の親政への反抗 ・足利尊氏が幕府を開く(南北朝時代始まる) ・足利尊氏の死 のように、後醍醐天皇と足利尊氏の物語として語られることが一般的です。しかし、実際の『太平記』は上記とはまた違った一面も持っています。そもそも『太平記』は、いつ、誰が、何のために書いたのか?あれだけの乱世を描いてなぜタイトルに「太平」がつくのか?(戦乱記の方がふさわしい?)今回は

    太平記【わかりやすく解説】硬派な軍記物語?怨霊が登場するファンタジー?
  • お鶴 (鶴姫、千代姫)~宇都宮鎮房(城井鎮房)の娘の悲劇

    お鶴(鶴姫、千代姫)は、宇都宮鎮房(城井鎮房)の娘。 母は正室・大友義鑑の娘であると考えられます。 お鶴の名は鶴姫とする説や、千代姫とする説もある。 1587年、お鶴(鶴姫)の父・宇都宮鎮房は、豊前6郡の領主となった黒田官兵衛に反発して、城井谷城に籠城。 1588年正月、安国寺恵瓊の仲介で、領安堵と宇都宮鎮房の子である宇都宮朝房と、13歳になる娘・鶴姫を人質とする事を条件に、黒田家と和議を結んだ。 この時、お鶴(鶴姫)は3人の侍女と共に、普請途中の中津城に人質として入ったものと考えられる。 鶴姫は黒田長政と婚姻(側室?、正室とも?)したと言う説もあるが、人質だった可能性が高い。 どのように人質生活していたのかは記録がなくわからない。しかし、人質と言っても戦国時代の人質は比較的自由に生活できた為、恐らくは黒田官兵衛の正室・光姫や、黒田長政の正室・糸姫らと共に生活をしたいたと推測できる。 し

    お鶴 (鶴姫、千代姫)~宇都宮鎮房(城井鎮房)の娘の悲劇
  • 小寺政職 御着城 黒田官兵衛の能力を高く評価した大名

    御着城主・小寺氏は、もともと播磨国佐用庄の地頭で、室町時代に播磨守護となった赤松氏の一族であり、鎌倉幕府滅亡後は、代々、小寺氏が姫路城の城代を任されていた。 赤松氏の家臣だった浦上村宗が主家・赤松氏を凌ほどの実権を握ると言う下剋上もあり、赤松氏は衰退。 そして、1521年に赤松義村が浦上村宗に殺害されると、赤松氏は細川晴元を頼って逃亡した。浦上村宗は備前守護代にまで出世していたのだ。 浦上村宗は播磨を統一すると、打倒・細川晴元の為、1531年、赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍と、細川高国・浦上村宗の連合軍が天王寺の戦いで激突。 浦上村宗は大物崩れ、天王寺崩れとも呼ばれる、大敗北を喫して、討死した。 この戦いに、小寺氏の小寺則職は赤松政村に従って「細川晴元側」に加わり参戦したようで、復活した赤松氏・赤松政村の一族として、小寺氏も繁栄した。 小寺政職は1517年に小寺則職の子として誕生した

    小寺政職 御着城 黒田官兵衛の能力を高く評価した大名
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