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2014年5月29日のブックマーク (6件)

  • 隠れキリシタンの絵、パリから150年ぶり返還 : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    江戸幕府によるキリシタン弾圧が続いていた1860年代後半、信仰を守り続けた長崎の浦上地区(現・長崎市)の隠れキリシタンがフランス人神父に託し、パリで保管されていた水彩画が、約150年ぶりにカトリック長崎大司教区(長崎市)に返還される。 29日、長崎市のカトリック中町教会で返還式が行われる。 浦上地区の隠れキリシタンは約250年間にわたって信仰を守り、1865年、長崎市の大浦天主堂で、フランス人のプチジャン神父に信仰を告白した。この「信徒発見」は宗教史上の奇跡と呼ばれている。 大司教区によると、水彩画は縦約63センチ、幅約40センチ。日で描かれたものか、海外から持ち込まれたものかは不明だが、中央に聖母マリア、周囲にはアッシジの聖フランチェスコや聖女らが描かれている。信徒発見の後、別のフランス人神父が隠れキリシタンから絵を預かり、プチジャン神父がヨーロッパに運んだ。 浦上地区では信徒発見後の

  • 杜甫の詩にもある隋代の「摩訶池」の遺跡、7カ月に及ぶ発掘の末ついに発見―四川省成都市:レコードチャイナ

    2014年5月25日、中国四川省の成都市文物考古研究所によると、7カ月にも及ぶ発掘作業の末、考古チームが成都体育センターの発掘地点で隋朝(581−619年)の摩訶池遺跡を発見した。27日付で成都晩報が伝えた。 【その他の写真】 この池は隋の時代、成都を守っていた蜀王楊秀が成都に小さな城を増築する際に、土を掘りすぎた部分を人工湖としたもの。大きさについては、成都の水利専門家・陳渭忠(チェン・ウェイジョン)氏が「摩訶池の興廃」というの中で、「摩訶池が完成した当初、面積は500ムー(約33万平方メートル)だったが、増築後の水域面積は約1000ムー(約66万平方メートル)と、一般的なサッカー場約100個分の大きさとなった」と記している。 唐代の詩人・杜甫らもこの摩訶池を詠んでおり、中国ではよく知られている。摩訶池は初唐、元末明初、明末と3度にわたる埋め立て作業により、水域面積が次第に縮小し、19

    杜甫の詩にもある隋代の「摩訶池」の遺跡、7カ月に及ぶ発掘の末ついに発見―四川省成都市:レコードチャイナ
  • ■ - jun-jun1965の日記

    珍現象が起きた。『病む女はなぜ村上春樹を読むか』のアマゾンレビューは一つ。それとまったく同文のレビューが「読書メーター」に出現したのである。アマゾンのほうのレビュアー紹介は、 マイヤ 住所: 北海道札幌市 自己紹介: 漢方を生業としているアラフォー女です。 映画漫画小説音楽・スポーツ観戦などが趣味趣味がありすぎるので、アマゾンさんで色々検索しています。 昔からべることもお酒も大好きで、最近はアマゾンさんで良いお 酒が色々購入できるので、そちらにもはまっています。 興味があるもの 面白いと思うことはなんでも。 特に映画が好きなので、古いもの・新しいもの・海外・ 日問わず見ています。 しかし、数が多すぎて見切れないので、こちらのレビュ ーなども参考に、厳選して手を伸ばすようにしておりま す。 だが、「読書メーター」のほうは、 「とりぶちまさはる」男、23歳、大学生・院生、現住所大

    ■ - jun-jun1965の日記
  • 青空文庫による著作権延長問題についてのコメント - 日比嘉高研究室

    文学に関心を持つネットユーザで、青空文庫のお世話になったことのない人は、ほとんどいないでしょう。著作権の切れた作品を、ボランティアで入力して公開しているこのサイトは、いまや日屈指のデジタル・コンテンツに成長しています。 日だけではなく、外国において日文学を読み、学ぶ人たちがこのサイトを利用してもいます。 著作権を守ることは重要ですが、過度の保護は、文化の活力を奪います。文化の問題をお金の問題でのみ判断しようとする、目下のTPP交渉における著作権延長の議論は、こうした「青空文庫的」な考え、――私たちが誇り、守るべきパブリック・ドメイン(公共の所有)の価値――をまったく無視しています。 青空文庫がこの問題に関して最近二つのコメントを出しています。一つは、「そらもよう」に書かれた「TPPによる著作権保護期間延長の危機に際して」という記事。 http://www.aozora.gr.jp/s

    青空文庫による著作権延長問題についてのコメント - 日比嘉高研究室
  • 「研究と教育の統一」という命題の特権性の自覚。―歴研大会全体会(2) - 保立道久の研究雑記

    これは学芸大の槻の木、ケヤキの木。月神は、桂だけではなく、槻にも降臨するのではないか。似た枝振りなのではないかと思う。 さて、歴史学研究会全体会の話。レジュメに書き込んだメモを忘れないうちに文章化しておく。 まず今野日出晴氏の報告「歴史教師の不在―なぜ『歴史教育』なのか」であるが、歴史学の現状をよくとらえていると思い、賛成のところが多い。私も50年代の歴史学と現在の歴史学がもっている「原初の問い」の共通性という意見は大事だと思う。石母田正さんがやろうとしたこと、などといわれると、私などはすぐに感動してしまう。 討論の差異の応答も見事で冷静なもので、私のようなshort-temperな人間にはできないことである。頭がいいのだと思う。 まず共感するのは、「歴史学と歴史教育という分業の形を前提とすることへの違和感」ということである。たしかに、この言葉は「歴史学と歴史教育」を区別するところから出発

    「研究と教育の統一」という命題の特権性の自覚。―歴研大会全体会(2) - 保立道久の研究雑記
  • 教育部 異體字字典