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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (57)

  • 谷崎潤一郎詳細年譜(昭和40年まで) - jun-jun1965の日記

    (写真は谷崎お気に入りの女優・淡路恵子) 1964(昭和39)年        79 1月5日、『京都新聞』で「初釜清談」谷川徹三、佐伯米子、入江、千宗興、三島。 15日、吉川幸次郎、中村歌右衛門ら、藝術院会員。 20日、渋沢秀雄宛代筆書簡、先日は久しぶりに、その際頼んだ(渋沢敬三『瞬間の累積』)届いた、渋沢篤二(敬三の父)には会ったことがないのでよろしく。 24日、サンケイホールで『日の文学』刊行記念文藝講演会で演壇から挨拶。大岡、有吉佐和子、小林秀雄、大宅壮一ら。 25日、日の文学『谷崎潤一郎集(一)』を中央公論社から刊行。 2月10日、葉山の三井クラブに滞在中、松子が出血。 11日、重子が付き添って都内の病院へ検査に行く。谷崎は伊吹を呼んで、癌ではないかと懸念する。 時々心臓の発作を起こし、一時赤坂の心臓血管研究所へ入院。 25日、心臓研究所より鮑宛代筆、来日嬉しいが病気で会う

    谷崎潤一郎詳細年譜(昭和40年まで) - jun-jun1965の日記
  • 笑わせるぜ中島岳志 - jun-jun1965の日記

    東京新聞の一面に、中島岳志が自著での橋下徹の批判の削除を求められ、拒否したという記事が、かなりでかく出ていた。削除を求めたのはNTT出版で、新潮社から出した『リベラル保守宣言』だという。 思わず私は苦笑せざるをえなかった。というのは、私はエッセイ集『を償うにをもってせよ』を白水社から出した時に、中島を批判した文を削除させられているからだ。 出版が最終段階に入った時、編集者から、上司が会いたいと言っていると連絡があった。こういう時の「上司が会いたい」は、いい話であるはずがない。わざわざ会って不快な話を聞くくらいならと、私は電話してその上司を呼び出し、構わないから言ってくれと言った。上司は(名前を忘れてしまった)中島岳志と中島さおりを批判した個所を削除してほしいと言ったのである。 不快ではあったが、編集者に迷惑をかけることにもなるし、どうせその二つは別のエッセイ集に入れればいいと思ったから

    笑わせるぜ中島岳志 - jun-jun1965の日記
  • 2015-01-16 引退の辯 - 猫を償うに猫をもってせよ

    芥川賞の選考が済んだ。私はその結果に不満であるのみか、小川洋子の談話によって報道された講評がまったく的外れであることに失望した。もともと、そんな賞ではないか、東浩紀とお前は同じか、と言われれば一言もない。 選考委員のそれぞれがどうであったかは知らない。だがその全員を私が批判したことがある、というのは、やはり大きかったのだろう。にしても、純文学の賞であるはずなのに、なぜ通俗作家ばかりが選考委員をしているのだろう。黒井千次や島田雅彦など、受賞してなくても選考委員になれるなら、なぜ純文学一筋で来た津島佑子や金井美恵子がいないのか。 この結果を見る時、個別にはどうかは知らないが、総体としてこれら選考委員は、文学が分かっていない連中だと判断せざるをえないし、私の候補作のほうが、これら選考委員の書く小説よりも優れた純文学だと信じている。 三島由紀夫が芥川賞の選考委員になった時、議論が公正なのに驚いた、

    2015-01-16 引退の辯 - 猫を償うに猫をもってせよ
  • ■ - jun-jun1965の日記

    http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KG/0021/KG00210L042.pdf スウェーデン在住の大木ひさよという人の、ノーベル賞に関する論文である。いささか新発見の事実もある。もっとも、安部公房が生きていたらとっていただろうというのは大江の場合であろうし、ハインリヒ・ベルをヘンリシュ・ボールとか書いているのは謎。 あと三島が『宴のあと』のために左翼だと思われたという変な説があるが、これで見ると、むしろジャーナリスティックではないかと思われたのだということが分かる。要するに通俗的ということだ。

    ■ - jun-jun1965の日記
  • 神が見つかった - jun-jun1965の日記

    いやーまいったまいった。注つけ仕事をしていて、「社会評論社の神」というのがあったから、ん? と思ったら、「神(じん)」という姓なのである。さて下の名は、とググったが出ない。有吉佐和子の夫が神だったからそっちを調べたがない。分からんなあ、と少し先へ進めて、ふと、数日前に買ってぱらぱら読んでいた真船豊の自伝『孤独の散歩』の、開いていたページからまた読み始めて、二、三枚めくったあたりで「社会評論社の神敬尚が」と出て来たからびっくりした。私には時々こういうことがあるが、これはあまりにすぐだったから驚いた。

    神が見つかった - jun-jun1965の日記
  • 『東大助手物語』人物対照表 - jun-jun1965の日記

    中島義道の『東大助手物語』は何だか売れているようだが、内容は『孤独について』(文春新書)に書いたことに、と実家の軋轢などを入れ込んだもので、目新しいのは東大から帝京技術科学大学へ移る時の騒動くらいである。なお人物一部仮名なので、小説扱いかと思ったが、そうではないらしい。人名は、苗字の一字を共通にする通例である。人物対照表を掲げておく。 ・糟谷教授ー谷嶋喬四郎 ・尾高学科長ー長尾龍一 ・塚教授ー城塚登 ・上野原助教授ー折原浩 ・高槻ー高幣秀知 ・卜部・文学部教授ー坂部恵 ・法政大の窪田教授ー浜田義文 ・山形大の平沼ー平田俊博 ・東北学院大の芦川ー石川文康 ・法政大の倉島ー長倉誠一 ・法政大の野呂ー牧野英二 ・上智大の橋ー大橋容一郎 - http://homepage3.nifty.com/fujikawa/a024.html なにが「ギッチョンチョン」だよ、俺は夜這いがなかったなんて言

    『東大助手物語』人物対照表 - jun-jun1965の日記
  • 有馬頼義とドイル - jun-jun1965の日記

    有馬頼義に「死者の声ーある盗作未遂事件」という短編がある。『別冊文藝春秋』1960年春(3月)掲載で、単行には入っていないかもしれない。副題がなんだなんだと思わせるので読んでみた。私小説仕立てで、有馬が、昔読んだ小説ーホラーものーの、筋は覚えているのだが誰の作か分からない。アメリカ小説だと記憶しているが、ある男が自動車を運転して家へ帰る途次、だんだんスピードが出てくるのを、ふと、このままブレーキをかけずに家まで行ってみようと思いつく。どんどん速度は上がり(絶対にまねをしてはいけません)、家の門にほぼ激突する。助け起こしてくれる男がいて、見ると、もう死んだはずの男だった。 というもので、有馬は何か雑誌で読んだはずだからと、編集者に探してもらうが見つからない。編集者は、それ、有馬先生の作として書いちゃってくださいよと言う。それはまずいよと有馬が言うと、編集者が、有馬が読んだであろう推理雑誌

    有馬頼義とドイル - jun-jun1965の日記
  • ディケンズの百倍売れた作家 - jun-jun1965の日記

    http://en.wikipedia.org/wiki/George_W._M._Reynolds 斎藤勇『イギリス文学史』によると、あと一人John frederick Smith というのもいたそうだが、ディケンズが大衆作家だったとかいうのは、こういう事実を知らずに言われているのだ。もちろん翻訳など一つもない。 - http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-10X516/1.htm この、酒飲んだ中学生らはちゃんと補導されたのか。 - http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20100810/p2 俺は阪大で起きたことは大概書いているのだが未だにこういうことを言う人がいる。コメント欄にも書いたとおり、YMのセクハラ事件の際に、比較文学会関西支部の幹事たちに手紙を書いた。別に「怪文書」ではない。「パワハラ」をしていた

    ディケンズの百倍売れた作家 - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    http://1000ya.isis.ne.jp/0071.html 久しぶりの松岡正剛ネタである。 「フランスでドラムカンに人間を煮詰めてべたという、いわゆる佐川事件である。そして、これを唐十郎が『佐川君からの手紙』として作品にした。 人肉をべること、これをカニバリズムという。 カーニバルとはそのことである。 書は人間の文学が描きえたカーニバルの究極のひとつであろう。『海神丸』『野火』とともに忘れられない作品である。」 ぷっ。お茶吹く。佐川一政が「ドラムカンに煮詰めた」って話は聞いたことがないし(女子高生ドラム缶殺人事件?)、唐十郎はそれを作品にした、のではないが、まあそれはいい。 カニバリズム=cannibalism カーニヴァル=carnival で、全然別の語である。canib はカリブ海のことで、カリブ海の民族は人肉をすると考えたイスパニア人が作った言葉。カーニヴァルはラ

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  • 柳沢伯夫について - jun-jun1965の日記

    要するに、謝りながら言っているわけで、問題の質は、もし小泉が総理だったら、ガンガン自分で反論しただろうということである。安倍にそれができるはずもなく、やはり安倍はバカなのである。 だいたい、厚生労働省なんて、五年このかた「タバコを吸う奴は不健全」と差別発言を続けているも同然なんだからね。禁煙推進議員連盟の福島瑞穂も、禁煙ファシズム社説を掲げる朝日新聞も同じ。 −−−−−−−−−−−−−−−− 川柳川柳師匠は「ガーコン」で、大東亜戦争初期は連戦連勝だったから軍歌も「大東亜決戦の歌」「英国東洋艦隊撃滅」など威勢が良かったが、だんだん負けてくると軍歌も暗くなってくる、などと言っている。 そんなの、洒落に決まっているではないか。川柳師匠が「暗い軍歌」の例としてあげるのが「同期の桜」なのだが、これは元は「二輪の桜」として作られ、民間で歌詞が変えられていったということは、筒井清忠「西条八十」に詳しい

    柳沢伯夫について - jun-jun1965の日記
  • 「編」の謎 - jun-jun1965の日記

    原基晶氏の新訳『神曲』が次々と刊行されている。私はあまりこの作品に興味がないのだが、解説では、先行訳にもしかるべき批判が加えられていて興味深い。せりふの部分などはこれまでなかった俗語訳であろうか。 さて『神曲』の翻訳はこれまでだいたいこんなものがある。 山川丙三郎 1914−22 →岩波文庫 生田長江 1929 野上素一 1962 平川祐弘 1966 →河出文庫 三浦逸雄 1970−72 →角川文庫 寿岳文章 1974−76 →集英社文庫 講談社では、世界文学全集(1982)に平川訳が入っているのだが、これはもともとほかの人が訳す予定だったのが、できなかったため、河出のほうから平川訳を借りてきて入れたのである。これは誰がやる予定だったかというと、杉浦明平であろうか。野上訳は筑摩書房だが、なぜか筑摩では文庫化していない。新潮文庫も『神曲』は入れたことがない(戦前の生田のものは「文庫版」ではな

    「編」の謎 - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    『文藝春秋』八月号に発表された川端の手紙だが、あれは新発見というより、今まで隠していたというのが正しい。 あと川端香男里が、康成が昭和二十六年に伊藤初代の死んだのを知ったのは昭和四十年と書いているがこれは疑わしい。「水郷」で、初代が死んでいると川端が公表したのが昭和四十一年だが、川端は初代の妹マキの次女・紀子からの手紙でこれを知った。紀子は女優になりたい希望もあって有名作家に手紙を書いたというので、昭和四十年ということはないと思うが、証拠となる手紙があるのだろうか。どうも、まだ何か隠されているという気がする記事だった。 - その文藝春秋を図書館で見ていたら、塩野七生の連載随筆で、粕谷一希追悼文があったので読んでいたら、若いころ粕谷、山崎正和、高坂正堯らのグループにいて、山崎から、「君の書くものはどの賞からも少しずつずれているんだよねえ」と言われ、塩野は、「それなら審査委員がもう少し幅を広げ

    ■ - jun-jun1965の日記
  • 国会図書館事件 - jun-jun1965の日記

    いや今度は図書館員と争ったのではない。カードを検索装置のところに置き忘れたのである。もっとも、置き忘れたと最初から分かったわけではなく、戻って探しに行ったら、私が使っていた椅子にはもう人がいたので、ああここではない、と思って受付で、届出はないですかと訊いたら、なく、あちら(新館入り口)で訊いてみてください、と言われた。 そちらへ向う途中、藤田敏八のような顔をしたおっさんが、私の左手1.5mほどのところを並んで歩きながら「カード亡くしたら閉館まで出られませんよ。他人が使ったかもしれないとか言って。閉館は九時…」とぼそぼそと言った。まさかと思いつつ受付へ行ったら、やはりないので、困って戻り、ふと、先ほど私が坐っていたところに指してあるカードを見て、ありゃ、と思い、近寄ってよく見ると、まさに私のカードである。男が坐ってせっせと検索している。 私はカードをとりあげ、「ちょっと、これ私のカードでしょ

    国会図書館事件 - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    凍雲篩雪(2012年5月) 国会図書館のOPACは、当初思った以上にひどいことになっている。先日、有吉佐和子の『紀ノ川』など、題名に「川」がつく小説を探そうとして、タイトルに「川」と入れ、分類記号を「913.6」にして、年代を限定して検索したら、八点しか出てこなかった。どうやら、「川」というタイトルのもの、あるいは短編を収めた著作しかヒットしないようなのである。驚いて国会図書館に電話をしたら、「検索式」から検索しろ、と言うのでやってみたが、ほぼ同じことで「山と川の風景」など、「川」が単独でタイトル中に登場しないとヒットしないのである。私は館長に手紙を出して、断然昨年までの検索システムに戻すよう要請した。つまり今では、「紀ノ川」などは一つの単語として位置づけられているのであろう。これでは、人文学の研究に多大な損失をもたらす。webcat plusが意味不明の改悪を行っている以上、こちらも使え

    ■ - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    大宅壮一ノンフィクション賞が、今年から雑誌部門を設けた。だが実は初期のこの賞は、雑誌記事も対象にしていたのだ。それどころか応募原稿も対象だった。候補作は以下に掲げてある。 http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kenkyu/furok_OOYAaward.htm だが結局単行しか受賞せず、1980年からは候補の段階で単行だけになった。ところで1972年の候補作に、平岡梓の「倅・三島由紀夫」が入っている。 三島は、死ぬ前に、楯の会一周年記念式典でのあいさつを川端康成に頼んで断られ、恨んでいた。さして三島から愛されてもいないのに親ばかだった梓は、やはり川端を恨み、三島の葬儀で委員長を川端に頼むことに反対し続けた。村松剛らの説得で何とか川端がやったのだが、「倅・三島由紀夫」を『諸君!』に載せて、川端が葬儀の時ラジオを足元に置いていた、あれは外で騒乱が起き

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  • 中野好夫の処世術 - jun-jun1965の日記

    市河三喜と中野好夫が論争をしたことがある。二人とも東大英文科教授だが、市河は英語学者で、日人で初めて東大英文科の助教授になり、1946年に定年退官している。没後「市河賞」が設けられ、英語学の新人にとっては名誉ある賞である。さて、1948年2月の『英語青年』で当時45歳の中野が、戦時中自分らは軍部に反対もできず情けなかった、だから若者は先輩など尊敬しなくてよい、と書いた。すると市河が、4月号に「英語研究者に望む」という一文を書いて、その中で、中野君がこんなことを言っているが「屁でもない」とか「糞ミソ」とか、下がかった文言があるのはよくないと書いた。すると6月号で中野がこれに真っ向から答えて(「名指しで批判された」とある)、そんなことは市河さんよ、戦時中あんたが何をしていたかまず真っ裸にならなきゃダメだ、それにあなたの学者ぶりたがりは何だ、と痛罵したのである。これは『資料日英学史 2 英語

    中野好夫の処世術 - jun-jun1965の日記
  • 井村君江年譜 - jun-jun1965の日記

    私の先輩に当たり、幻想文学方面では「フェアリー・マザー」などと呼ばれた井村君江先生だが、明星大学退任の時に病気だったせいか年譜が作成されずじまいだったので、文献を調べて作成した。ウィキペディアに何だかファンの編集がしてあり、当時としても異例の30代で教授に抜擢された、などとあったが、事実ではなかった(『全国大学職員録』)。当時、30代で教授というのはさほど異例ではなかったとも思うが。また二番目の夫ローラー氏が城をもつ貴族だというのもデマらしい。 井村君江年譜 1932年3月1日 栃木県宇都宮市に、パン製造業福田寿一(三代目富次郎)の子として生まれる。生母は夫に愛人がありすぐ真岡の実家へ帰り面識なし。増田家から来た祖母あいに育てられる。父はこの後二人のを迎え、弟妹あり。 1947頃 宇都宮第一高等女学校入学 1948年 宇都宮女子高等学校と改称 1952頃 卒業、青山学院大学英文科入学。日

    井村君江年譜 - jun-jun1965の日記