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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (57)

  • 菊池綾子のことその他 - jun-jun1965の日記

    http://okinawabon.exblog.jp/20626455/ しかし、校閲者は匿名だから、「最近の校閲は」と書くしかないではないか。 http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20100904 これはもちろん、校閲の鉛筆書きを消さずに渡した編集者が悪い。だが、その鉛筆書きを見てしまった以上、私は校閲者から匿名の攻撃を受けたも同然なのである。こんな居丈高なことを校閲は書くものかと思った。 http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20100906 校閲者にも団体のようなものはあるのだろうから、いっそ校閲に不満のある文筆家と、徹底討議したらどうか。なお私は校閲への不満は『出版ニュース』にも書いているが、校閲者から反論が来たためしはない。なんだ有名人の坪内が有名雑誌で書くと反論するのか、俺は無視かって感じ。 - 菊池綾子という社会

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  • 女子京大生殺害事件 - jun-jun1965の日記

    阿部知二の「おぼろ夜」という小説を読んだ。これは「おぼろ夜の話」『新潮』1949年3月の改題で、1948年4月、京大史学科の学生・井元勇が、同美学科の谷口八重子を殺した事件をもとにしている。当時阿部は同志社大学の客員教授をしていて、友人で京大教授の西洋史学者・井上智勇と、二人の友人だった猪俣勉から話を聞き、新聞、週刊誌などの記事から作ったらしい。 このあと三島由紀夫も同じ事件を「親切な機械」(『風雪』49年11月)に書いているが、これは木山勉というプレイボーイらしい男の語りになっていて、殺された女・鐡子は木山の恋人だった。犯人は猪口となっており、木山は猪口が鐡子に迫っているのを知って、自分は秀子という新しい恋人に乗り換えようとしているため、猪口を鐡子とくっつけようとしている。 この事件小説は、井元ー井上ー猪俣という実際の人物の姓が紛らわしく、小説でも三島のほうが木山勉、猪口としていて混乱

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  • 架空の試験 - jun-jun1965の日記

    もし私がミリオンセラーを出して金持ちの作家になり、秘書を雇うことになったら(ありえないが)、以下のような試験を課したいと思う。 ・以下は日近代小説の登場人物である。これらの人物が登場する作品名を書け(複数の作品に登場する場合は複数書いてよい) 小町田餐爾 内海文三 村越欣弥 葉越明 早瀬主税 葛木晋三 五十嵐伝吾 鷲見柳之介 間貫一 鴫沢宮 富山唯継 川島武夫 萩原初野 小野繁 関欽哉 小泉純一 長井代助 津田一郎 青山半蔵 岸捨吉 竹中時雄 瀬川丑松 猪子蓮太郎 大江匡 皐月葉子 時任謙作 藤代信之 斯波要 蒔岡貞之助 佐々伸子 尾方信吾 都筑明 得能五郎 静間重松 大庭葉蔵 犬飼多吉 杉戸ヤエ 和賀英良 多繁邦 正木典膳 東堂太郎 伊吹信介 財前五郎 杜岡冬人 唯野仁 火田七瀬 千葉敦子 山田桂子 根所蜜三郎 長江古義人 竹原秋幸 鈴原冬二

    架空の試験 - jun-jun1965の日記
    fromAmbertoZen
    fromAmbertoZen 2023/03/09
    二葉亭、紅葉、漱石、藤村、花袋、荷風、潤一郎、直哉、井伏鱒二、太宰治、伊藤整、清張、三島由紀夫、大西巨人、山崎豊子、筒井康隆、倉橋由美子、大江健三郎、中上健次の作品が半分くらいはあると思うけど...
  • 「山椒魚」は盗作ではない - jun-jun1965の日記

    井伏鱒二の「山椒魚」、原題「幽閉」(1924)が、ロシヤの作家サルティコフ=シチェードリンの「賢明なスナムグリ」をネタとした「盗作」だということを、猪瀬直樹が『ピカレスク』で書いている。 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/inosenaoki.html 別に私は井伏が何をしようと興味はないので放っておいた。ところが、今ごろになってふと、その「賢明なスナムグリ」を読んでみたところ、もちろん「似て」はいる。だが、筋といい主題といい、「山椒魚」とは全然違うのである。「スナムグリ」は、19世紀の帝政時代に、面倒なことに巻き込まれまいとした姑息な人間を諷刺したもので、スナムグリは自ら水の奥深く隠棲して百年生きる、という話である。 竹山哲の『現代日文学「盗作疑惑」の研究』(PHP研究所、2002)には、井伏の『ジョン万次郎漂流記』『青ヶ島大概記』

    「山椒魚」は盗作ではない - jun-jun1965の日記
  • ■ - jun-jun1965の日記

    北村薫さんに、『太宰治の辞書』をいただいた礼状を書いたらお返事が来て、私の『江藤淳と大江健三郎』で、小宮豊隆の『夏目漱石』がいいと知ったがまだ読んでいないのでこれから何とかして読みたい、とあった。 実際小宮の『夏目漱石』ほど、誤解されたまま読まれずにいるもあるまい。「漱石を神格化」などしていないのだ。むしろ江藤淳や小森陽一のほうがよほど神格化している。 それでふと思い出したのが、米田利昭(1927-2000)の『わたしの漱石』で、これは当時としてはなかなか痛快な漱石論集で、『こゝろ』については、「フェアプレーは早すぎる」という、魯迅の随筆から題名をとったものを書いていて、「先生」と「K」では持っている財産が違う、「先生」の財産にしても、当時の、長男が全部持って行く相続制度があって、それを次男である叔父がちょっと持って行ったからといって怨恨を抱いたりするのはどうか、と書いてあった。 それは

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  • 夏目漱石賞 - jun-jun1965の日記

    学生時代、個人塾で教えていた高校生が、 「ねえ先生、芥川龍之介と夏目漱石とどっちが偉いの? 芥川でしょう、だって芥川賞ってのはあるけど夏目賞ってのはないでしょ」 と言ったのだが、これは別に気で言ったのではなく冗談である。彼は秋庭太郎が大伯父だと言っていた。太郎だから長男だろうし、彼の姓は秋庭だったから、弟の孫ということになるだろう。けっこう太郎からかわいがられていたようだ。今では40くらいになっているだろうが、どうしているやら。 ところで、夏目漱石賞というのが実はあったことが分かった。昭和22年に一回だけ、応募型新人賞として創設されたようで、『夏目漱石賞当選作品集 第一回』というがある。四人分載っているが、編者は夏目伸六、桜菊書院から刊行で、まだ現物は見ていない。 その中に、「春日迪彦」の「フライブルグの宿」というのがある。これは、大倉喜八郎の妾腹の子である大倉雄二の『逆光家族』による

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  • 流産した対談シリーズ - jun-jun1965の日記

    コロナが三年目の暮れに入ってまた感染者が増えつつあった十二月八日、つまり真珠湾攻撃の日に、その「飛び加藤」からのメールが突然やってきた。前にツイッターにいて、何か言葉を交わした、私の著作のファンらしい、五十がらみの男性だった。彼は、私と誰かの対談シリーズを企画していて、それを動画に撮り、ユーチューブみたいなところにアップしたいと言うのである。私には三万円くれ、対談相手には一、二万くれると言う。 私はコロナになってから、人と会うのは極力避けていて、年に二回ある芥川賞についての由良まおりさんとの対談もズームでやっていたから、実際に会うことを前提としての企画には二の足を踏んだが、三万円は収入の乏しい私には魅力だったし、話をしてみたい相手も数人いた。「飛び加藤」は、自分が作ったという動画をサンプルとしてURLを送ってきたが、エロスの何とかいうもので、あまり上品なものとは思われなかったし、訊いたら

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  • ポモ崇拝者誕生の時 - jun-jun1965の日記

    2002年の12月に、東大比較文学出身者による「恋愛」シンポジウムが行われた。その時、「ドン・ジュアン」の比較文学などは成立しないと、プリンストン大学に提出した博士論文で主張していたヨコタ村上孝之は、その話をして、「じゃあドン・ガバチョの比較文学ってのもできるんですか」と言った。ポモ的詭弁であって、単に「女たらし」をドン・ジュアンで代表させたことを利用した言葉遊びに過ぎない。 だが出席していた大澤吉博教授は、そういう正面からの反論はせず、「ドン・ガバチョの比較文学、いいんじゃないですか」などと言っていた。これは午前中の部で、私は客席にいたから何も言えなかった。午後の部では私とヨコタの言い争いになった。 後日、比較研究室で、東アジアから来た留学生女子が、ヨコタのことを「頭がいい」と言うのを聞いて、ああいうペテンに引っかかる学生や若者がいるからポモが跋扈したんだなと思ったことであった。 (小谷

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  • 耕治人と川端康成と私道通行権 - jun-jun1965の日記

    「そうかもしれない」などの「命終三部作」私小説で知られる耕治人は、川端康成に師事していた時期があり、しかし川端のの妹・松林から土地をあっせんされたものの、トラブルになり、被害妄想から、川端に土地をだまし取られたと思っていて、川端没後に発表した私小説で川端の名を秘してそれを書いたら、「群像」の月評で平野謙、藤枝静男らが話して、この名前が書けないことが問題だ、これは川端だと藤枝が言った。これを読んだ立原正秋は、藤枝に電話して訊くと、あれは平野が言ったことで、平野から、藤枝が言ったことにしてくれと頼まれてそうした、と白状した(平野と藤枝は高校以来の友人)。立原は、卑怯だと言って怒り、それを書いて平野とは絶縁した。 一方、川端研究者の川嶋至は「誰でも知っていたこと」として、川端が耕をだましたのは事実だと「文學界」に書いた。だが川端家と親しい武田勝彦が「誰も知らなかったこと」として反論し、これは耕

    耕治人と川端康成と私道通行権 - jun-jun1965の日記
  • 「女犯2」のまとめ - jun-jun1965の日記

    バクシーシ山下のアダルトビデオ「女犯2」は、トラウマになる。しかしまとめサイトなどないようなので、まず時系列にして、注釈を加えることにした。 1990年9月「女犯2」リリース 1991年10月6日 「自主講座の仲間」というグループがこのビデオを問題視し、「AVビデオ『女犯2』を考える」という催しを行い、バクシーシ山下を呼ぶ。会員では若槻世都子の名が出ている(足立)。 その後、「V&R」は、飯島あつ子が、強姦の演技について承諾した様子を撮影したビデオの提出を拒否する。 1992年 足立倫行が著書『アダルトな人びと』(講談社)でこの件を取り上げるが、むしろバクシーシに好意的。(のち文庫化) 同年、「AV人権ネットワーク」がバクシーシを糾弾し、その性被害に遭った者相手のホットラインを二日間設けるが、連絡はなし。 この間、石坂啓が「東京新聞」でバクシーシを非難したとバクシーシ著にあるが、確認できず

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  • 小宮彰さんと「左翼」 - jun-jun1965の日記

    私の大学院の先輩に小宮彰(1947-2015)さんという人がいた。フランス科から比較文学に進み、東京女子大で長く教えていた。比較の集まりにも当初はよく姿を見せていたが、七年前に68歳で独身のまま急逝した。一冊だけ「ルソーとディドロ」という単著を死去の数年前に出したがそれ以外に著書はなく、地味な人という印象だったが、最初のころ、学会の懇親会で「べなきゃ嘘だよ~」などとおどけていたのを覚えている。 歿後、友人の大嶋仁さんらが編纂した『論文集・寺田寅彦その他』を図書館で取り寄せて読んでいたら、追悼文がいくつかあった。 小宮さんは、先に急逝した大澤吉博さん、上垣外憲一氏などと三羽烏のように思われていたが、初期の論文に「ルソーと安藤昌益」というのがある。しかし、これはいずれも平等思想の人で、右翼的な東大比較とは合わないんじゃないかという疑念を私は長く抱いていたが、今回その追悼文集を見ていたら、私の

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  • 三進堂書店のおやじ - jun-jun1965の日記

    御茶ノ水駅南側丸善の向かいに古屋があり、駿台予備校へ行っていたころや大学時代御茶ノ水へ出る時などよく寄ったものだが、ここのオヤジが何とも変な人で、カウンターに座って手でタンタタタンタタとリズムをとり、買う段になると妙に手早くむっつりとした感じで包装をしていた。 私が行っていたのは80年代だが、は2000年代に行っていて、そのころは年齢も70歳近かったせいか、立ち読みしている客に、独り言のように「待っても安くならないよ~」とか言っていたらしい。 調べてみると2019年にこの吉田治男というオヤジは死んで、店も閉店することになったらしい。私はよく隣の小さい中華料理店で昼飯にチャーハンをべたりしたが、それは今では大きい店になっているのかな。

    三進堂書店のおやじ - jun-jun1965の日記
    fromAmbertoZen
    fromAmbertoZen 2022/09/23
    僕も 2000 年代に行って、覚えているが、タンタンやってたし、声も出してた(「アー」とか)ような記憶。移動の途中に覗けるからよかったのに無くなって残念だ。
  • 原基晶「ダンテ論 『神曲』と「個人」の出現」アマゾンレビュー - jun-jun1965の日記

    ダンテはなぜつまらないか 星5つ 、2022/08/06 私は長いことダンテが苦手だった。ベアトリーチェの話には恋愛の生々しさはないし、「神曲」は平川祐弘先生の訳で読んだがつまらなかった。平川先生の解説も読んだが一向に腑に落ちなかったし、私には何だか平川先生自身あまり気で書いていないような気がしたのだ。 書は驚くべきことに、その理由を明らかにしてくれる。バジル・ホール・チェンバレンは、ゲーテは大した文学者ではなく、ドイツが近代になって自国を代表する文豪が欲しかったので祭り上げたのだと書いていたが、実はダンテもまた、近代イタリアにとって祭り上げられた虚像だったのだ。「神曲」や「新生」は中世アレゴリー文学の延長上にあり、ベアトリーチェやパオロとフランチェスカは「恋愛」の賛歌ではなく、人間の恋愛の罪深さと、神への愛を表象するものだったのである。キリスト教的な恋愛などというのは間違いで、キリ

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  • 伊藤整日記 全八巻  書評   (週刊読書人) - jun-jun1965の日記

    伊藤整日記が全八巻で完結した。十年ほどの期間だが大変な分量である。伊藤には「太平洋戦争日記」もあるし、日記つけは習慣となっていたようだ。伊藤は川端康成に近かったし、『新・文章読』も代筆しているから、川端関連の事項を拾うつもりで読んでいたが、これでは既刊の『川端康成詳細年譜』(深澤晴美共編、勉誠出版)もかなり増補する必要があるなと思った。 最後は一九六九年十一月四日の記述で終わっており、これは死去した十五日の十一日前である。しかし晩年の十年程度とはいえ、伊藤のすさまじい多忙さには読んでいるほうが何ともいえない気持ちになる。はじめは東工大の教授をやり、チャタレイ裁判も抱えた身で、小説を書き、評論を書き、ペンクラブや日文藝家協会の仕事もしているから、多忙なのは当然だが、大学を辞めてからもほとんど同じ多忙さが続いているように見える。私は川端を調べたから、川端だって多忙だが、それは多忙なりの結果

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  • 近松秋江の日記 - jun-jun1965の日記

    青木正美さんから著書「昭和の古屋を生きる」(日古書通信社)を送ってもらったら、青木さんが以前所持していた近松秋江の未刊行日記の紹介があった。大正十四年(1925)のもので、新潮社から出た「文章日記」だが、あまり式には書かれておらず、三万円で落札したとのこと。紹介されたのは、三月の、新しい女中が来たことと、11月に、徳田秋聲還暦祝賀の相談会をやったことくらいである。すでに手元にはなく、誰に売ったかは分からないとのことであった。

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  • 作家の長者番付 - jun-jun1965の日記

    新聞記事から、作家の長者番付の変遷を調べてみたが、2005年以降、発表されなくなったので、今どうなっているか分からないのは不便だ。死んだら除かれるから西村京太郎ではないだろうが、今は一位は誰なんだろう。〇は初登場。 1965 1,山岡荘八、2,松清張、3,源氏鶏太、4,石坂洋次郎、5,山田風太郎、6,柴田錬三郎、7,川口松太郎、8,水上勉、9,井上靖、10、石原慎太郎、11、司馬遼太郎 1966 1,山岡、2,源氏、3,松、4,谷崎潤一郎、5,川口松太郎、6,柴田、7,司馬 1967 1,松、2,源氏、3,石坂、4,山岡、5,柴田、6,井上、7,〇黒岩重吾、8,石原慎太郎、9,司馬、10、大久保康雄 1968 1,松 2,司馬 3,源氏 4,石坂、5,〇梶山季之 6,谷崎松子、7,柴田錬三郎、8,井上靖、9,黒岩、10,山岡 1969 1,司馬、2,松、3,梶山、4,〇佐賀潜、5

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  • 書評・葉真中顕「灼熱」ー「週刊朝日」12月10日号 - jun-jun1965の日記

    一九四五年、大東亜戦争と日では呼ばれていた戦争に日が負けた時、ブラジルに二十万人ほどいた日人移民の間で、日が勝ったというデマが広まった。のちに「勝ち組」「負け組」の争いと呼ばれるようになるもので、日が買ったと信じる者は「信念派」、負けたという真実をつかんでいた者たちは「認識派」と呼ばれたが、「勝ち組」からは「敗希派」と呼ばれ、ついには勝ち組によるテロ殺人も起こり、長く続いた。今の日で誤用されている「勝ち組」「負け組」はこれが来の用法で ある。 『灼熱』は、この「勝ち負け抗争」の小説化で、沖縄で生まれた移民として「勝ち組」の若い者となる比嘉勇と、ブラジルで生まれサンパウロに住んで都会的な知識を持ち、勇の親友だったのが「負け組」になるトキオを中心に物語が描かれていく。 この戦争で日は、米英オランダに宣戦布告しているが、最後になってソ連が参戦、中国もポツダム宣言に参加することで対

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  • 萩尾望都「一度きりの大泉の話」書評「週刊朝日」8月 - jun-jun1965の日記

    一九九〇年前後、小学館の少女漫画誌『プチフラワー』に連載されていた萩尾望都の、少年への義理の父による性的虐待を描いた「残酷な神が支配する」を、私はなぜこのようなものを萩尾が長々と連載しているのだろうと、真意をはかりかねる気持ちで読んでいた。中川右介の『萩尾望都と竹宮惠子』(幻冬舎新書)を読んだとき、これが、竹宮の『風と木の詩』への批判なのだということが初めて分かった。 萩尾と竹宮は、一九七〇年代はじめ、少女漫画界のニューウェーブの二人組として台頭してきた。竹宮の代表作が、少年愛を描いて衝撃を与えたとされる『風と木の誌』で、萩尾も初期は『トーマの心臓』など少年愛かと思われる題材を描いていたが、その後はSFなどに移行していき、竹宮は京都精華大学のマンガ学部の教授から学長を務め、萩尾は朝日賞を受賞するなど成功を収めた。 二〇一六年に竹宮が自伝『少年の名はジルベール』を刊行し、漫画は描かないがスト

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    fromAmbertoZen
    fromAmbertoZen 2021/10/12
    確かに、「残酷な神」がやおい批判(アンチやおい)だというのは、この著作の前からもちらっと指摘する人などいたしな。(そんなにはっきり「風木」批判と言えるのか?とも思うけど)http://wagamamakorin.client.jp/hagio2.html
  • ■ - jun-jun1965の日記

    二週間くらい前の『週刊新潮』の連載で福田和也が、安倍政権になってこれで改憲ができると書いていて、そもそも現憲法は米国が作ったものでと言い、江藤淳が生きていたらと説く。江藤はGHQによる検閲を研究していたが、その際、福田恆存が検閲に協力していて、江藤に「アメリカまで行って調べなくても僕に聞けば良かったのに」と言った、とあった。私は初めて知ったので、ほうそうかと思った。 昨年の比較文学会で、占領軍の検閲でシンポジウムをやったのだが、聞いていた平川先生が最後になぜかぶち切れて、日側で検閲に協力した者がいるはずだ、なぜ隠すと騒いだという。その後、比較文学会の会報で、学会大会で個人および大学の名誉を毀損する発言があったという謝罪文が出て、これは何のことかなあと思ったのだが、学会事務局に聞いても、返事がなかった。ほかの人に聞いても、分からない、平川氏かもしれない、と言う。それで、平川先生は福田恆存の

    ■ - jun-jun1965の日記
  • 関井光男と白地社 - jun-jun1965の日記

    『en-taxi』に、坪内祐三が死んだ関井光男のことを書いている。けっこう怪しい人だったという話で、早稲田予備校で資金を稼いで古書などを買いあさり、小さい出版社へ出入りしては博識で(おそらく)社主を感心させてそこのヘゲモニーを握るといったことである。 中でも白地社の話。京都にある小さな出版社で、『而』(しこうして)などという文藝評論雑誌を出していた。関井はそこの覇権を握り、1990年代はじめ、関井、坪内、山口昌男は、日文研の鈴木貞美研究会に参加していたという。日文研は桂の駅からバスかタクシーでかなり行った山の中にあり、バスだと遠回りなのでタクシーになる。私も以前はよく行ったが、今はタクシーが禁煙になったから、もう行くことはないだろう。 坪内ら三人はそろって新幹線で京都へ行っていたのだが、ある時から、京都駅へ着くと、白地社差し回しの車が待っていて、日文研まで運んでくれるようになり、それが関井

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