赤穂義士が吉良上野介(こうずけのすけ)邸に討ち入る約11カ月前、大石内蔵助(くらのすけ)が京都・山科に隠せいしていた時期に妻りくの父に宛てた書状が見つかった。りくの懐妊が分かり、兵庫・豊岡の実家に帰す日程を相談しており、討ち入りに至る過程の裏側を示す内容。赤穂市立歴史博物館(兵庫県赤穂市)が入手し、12月13日~来年2月4日に開く開館30周年記念の特別展「元禄赤穂事件展」で公開する。(坂本 勝) 書状は元禄15(1702)年1月27日の日付で、りくの父で豊岡藩京極家の筆頭家老だった石束源五兵衛宛て。「大石内蔵介」の署名と花押が残る。本紙は縦約15センチ、横約248センチ。 赤穂藩が改易になった後、浪人として山科に仮住まいしていた内蔵助は、討ち入りを決行した場合、家族に累が及ぶことを心配し、妻子らを実家へ戻すことを決めたとされる。書状では、りくが身ごもっていることが分かったと記述。出産予定日
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