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ブックマーク / tonmanaangler.hatenablog.com (3)

  • 将軍足利義教は八百長で決まったのか? - 国家鮟鱇

    ⇒2012-10-19の続き 結論からいえば八百長ではない。少なくとも郷和人氏の八百長説は到底受け入れることができない。郷氏流に言えば、これぞまさに「珍妙な考え方」というものである。 『人物を読む 日中世史 頼朝から信長へ』(講談社 2006)のこの主張はつっ込みどころが多すぎてどこからつっ込んだら良いのか悩むのだが、まず基から。 この辺りのことは、論文などの堅い文章では叙述しづらい。そこで私は『建内記』という貴族の日記を持ち出して説明した。同記にはくじを三回引いたら三回とも義円と出た、とある。確率は六四分の一で、この数字は現実にはあり得ない。八百長だ、と。 すると、ある研究者は『建内記』より『満済准后日記』を用いるべきだと説き、ある研究者は『満済准后日記』にくじで義円に決まったと書いてあるのに従わないなら、もはや実証史学ではなくなる、と力説する。そんなつまらないこと言われてもなあ

    将軍足利義教は八百長で決まったのか? - 国家鮟鱇
    hikabu
    hikabu 2012/10/22
  • 室町幕府はいつ滅んだのか? - 国家鮟鱇

    「鎌倉幕府はいつ成立したのか?」の次はこの問題。 幕府の終期に尽いては、1573年に16代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放され、足利将軍家が歴代相伝する山城国及び丹波国の御料所を織田政権に奪われた事によって事実上崩壊した。この間の約240年余りを室町時代と呼ぶ。しかし幕府自体は毛利氏庇護のもと渡辺氏の居館一乗山城で鞆幕府として存続していた。尚、明徳の和約(1392年。北朝と南朝の統一)迄を南北朝時代、明応の政変(1493年)以降を戦国時代と呼ぶ。 しかし、足利義昭は信長により京都から追放された後も、征夷大将軍を解官された訳ではない。信長の勢力圏外である九州・中国・四国・関東・東北地方においては依然足利将軍としての権威を有していた。『公卿補任』では、京都追放から15年後の天正16年(1588年)に義昭が関白豊臣秀吉に従って参内して、関白の秀吉へ忠誠を誓うまで征夷大将軍であったと記録

    室町幕府はいつ滅んだのか? - 国家鮟鱇
    hikabu
    hikabu 2012/02/29
  • 網野史観に見る支出の倫理 - 国家鮟鱇

    ⇒極東ブログ: 支出の倫理 山七平の『静かなる細き声』からの引用。 この際、支出とは他にとっては収入であるから、非倫理的な支出が非倫理的収入をもたらすとは考えない。 そのため、非倫理的収入を得た者が社会的に非難され軽蔑され差別されることはあっても、この収入の原因となった非倫理的支出をしたものは非難されないという奇妙な現象を呈しながら、だれもこれを奇妙とは思わない。 『歴史を考えるヒント』(網野善彦 新潮選書)にはこう書いてありますね。 特定の人の持ち物にはその人の心がこめられており、それを相手に渡すのは、自分の心を渡すことだったのです。また、物をもらうのは相手の心をもらうことになりますから、こうした物の交換は贈与・互酬であり、商品の交換にはならなかったのです。しかし、市庭で交換される物はすでに世俗の縁の切れた物、人の世界から切りはなされた神仏の世界の物になっていますから、全く後腐れがなく

    網野史観に見る支出の倫理 - 国家鮟鱇
    hikabu
    hikabu 2008/03/13
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