永仁4年(1296年)、近江の地頭である佐々木氏の分家京極氏に生まれ、嘉元3年(1305年)に死んだ母方の叔父である佐々木貞宗の後を継いで家督を継承する。正和3年(1314年)に左衛門尉、元亨2年(1322年)には検非違使となる[12]。検非違使の役目を務めて京都に滞在していたと考えられており、元亨4年(1324年)の後醍醐天皇の行幸に随行している[12]。鎌倉幕府では執権北条高時に御相供衆として仕え、高時が出家した際には共に出家して導誉と号した[12]。 元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、京を脱出して笠置山に拠った元弘の乱では幕府が編成した鎮圧軍に従軍[12]。捕らえられた後醍醐天皇は廃され、元弘2年(1332年)3月、供奉する阿野廉子・千種忠顕らと共に隠岐島へ配流された際には導誉が道中警護などを務めた(『太平記』)[12]。 後醍醐を隠岐に送り出し帰京したのち、後醍