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ブックマーク / serai.jp (5)

  • 実は女性の旅が盛んであった江戸時代。当時の「女子旅」の実態とは? | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    文/鈴木拓也 徳川家康は江戸開府とともに、全国的な道路網の整備に着手。江戸後期には、州の最北端から最西端まで街道が張り巡らされた。 この街道整備は、参勤交代を含めた幕府による全国統治がねらいであったが、庶民が遠方まで旅できるインフラにもなった。お伊勢参りに代表されるように、神社仏閣の参拝を名目に物見遊山をすることは、人々の大きな憧れであった。 その頃の旅といえば、男がするものというイメージがあるが、実は女性も盛んに旅に出た。藩主のから町人まで身分もさまざまで、たいがいは男性を交えてのグループ旅行であった。年齢層は40代半ばから50代が多いのは、子育てや主婦業が一段落して第二の人生を謳歌していることの表れだろう。 そうした江戸時代の女性の旅の実情をまとめたのが、書籍『江戸の女子旅―旅はみじかし歩けよ乙女―』(谷釜尋徳/晃洋書房)。読んでみると、当時の女性のライフスタイルの一端が垣間見えて

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  • なぜ、平安京は京都盆地の北部につくられたのか【地形と地理でわかる京都の謎】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    京都ほど謎が多い都市はありません。それは京都が時代の流れに順応しながら再生し続けてきた都市だからです。京都を俯瞰して地形に注目すると、京都で起きたさまざまな出来事の理由や過去の町の痕跡が見えてきます。そこで、1200年続く京都の成り立ちから現代までの謎と秘密を「地形」や「地理」の観点から迫り、京都独特の歴史の謎を解き明かす書籍『カラー版 地形と地理でわかる京都の謎』(宝島社新書)から、平安京の謎をご紹介します。 文/青木康、古川順弘 平安京遷都(せんと)の3つの説 明治時代に東京奠都(てんと)が行われるまで、1000年以上にわたって日の都であり続けた京都。そもそもヤマト王権が誕生したのは3世紀末から4世紀初頭の奈良盆地であり、以降、政治文化の中心は奈良盆地だった。6世紀末には飛鳥(あすか)京、さらに694年には、日で初めて、格的な中国の条坊(じょうぼう)制を取り入れた藤原京が造営さ

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  • 家康に代わり岡崎城主となり、関ヶ原の戦いで石田三成を捕える|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【田中吉政編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    写真・文/藪内成基 戦国時代から全国統一へと進んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」の元で仕えた武将は、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その選択の中で、出世を果たしたり、逆に左遷を命じられたり、全国を飛び回ることになった武将たちがいました。大異動が多かった武将を、赴任地の城とともに紹介し、戦国武将の転勤人生に迫ります。 今回は、豊臣秀吉とも徳川家康とも良好な関係を構築し、水運を生かした整備により、今も美しい景観を残す城下町を造ってきた田中吉政(たなかよしまさ)を取り上げます。 豊臣秀吉の甥・秀次の宿老として近江八幡の城下町整備を行う 田中吉政は、近江国(現在の滋賀県)に生まれ、若くから出世を重ね、ついには、羽柴(豊臣)秀吉の甥、羽柴秀次の筆頭家老(宿老)となります。羽柴秀次の居城として八幡山城(現在の滋賀県近江八幡市)を築き、田中吉政が在

    家康に代わり岡崎城主となり、関ヶ原の戦いで石田三成を捕える|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【田中吉政編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
  • なぜ江戸が日本で一番大きい例外になったのか?|直木賞作家・門井慶喜氏と奈良大学・千田嘉博教授が語る「家康が造った江戸城の謎」 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    TOP趣味教養なぜ江戸が日で一番大きい例外になったのか?|直木賞作家・門井慶喜氏と奈良大学・千田嘉博教授が語る「家康が造った江戸城の謎」 2019年1月2日・3日の新春時代劇(NHK)での初のドラマ化により、再び注目が集まる直木賞作家・門井慶喜氏の『家康、江戸を建てる』。今回は「サライの江戸」シリーズ第1弾『江戸城と大奥』のために行われた城郭研究の第一人者・奈良大学千田嘉博教授との対談から、家康が作った初代江戸城の謎に迫る! 門井 (東海の5か国から関東に移封されて以降)家康は力を入れて江戸の町を造っていくのですが、私が面白いと思うのは、実際には家康は江戸にいなかったことですね。伏見にいた。遠隔操作というわけです。 千田 大坂城は豊臣家の「私」の城であって、関白政権の「公」の城は聚楽第と伏見城でした。つまり秀吉が死去した時は、伏見こそが日の首都だったのです。そこに家康がいて諸大名を指

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  • なぜ「隠れキリシタン」ではなく「潜伏キリシタン」なのか?長崎・天草「潜伏キリシタン関連遺産」の謎 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    取材・文/田中昭三 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されることが確定した。今回は、この「遺産」が生まれた背景とともに、そもそも「潜伏キリシタン」はどういうものだったのか、解説しよう。 16世紀に日に伝来したキリスト教は、九州を中心に多くの大名とその領民に受け入れられたが、後に江戸幕府はそれを厳禁。それ以後明治6年の解禁に至るまで、キリスト教は九州の一部の地域を中心に秘かに信仰されてきた。この長崎県と熊県の天草地方に残る12のキリシタン関連遺産から構成されるのが、世界遺産に登録される「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」である。 そのひとつ、長崎県の五島列島には、50もの教会が立つ。禁教時代、教会建設などもっての外。五島列島に立つ教会はいずれも明治以降の建設で、多くが信徒の浄財で建立された。 五島列島は海岸線が複雑に入り込んだ、いわゆるリアス式海岸の島。

    なぜ「隠れキリシタン」ではなく「潜伏キリシタン」なのか?長崎・天草「潜伏キリシタン関連遺産」の謎 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
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