ソ連に関するkodai795のブックマーク (320)

  • 中国共産党創立党員のロシア系の娘の驚くべき運命

    Kira Lisitskaya, Russian Cultural Center in Beijing インナ・リーは幼少期をスターリン時代のモスクワで、青年期を毛沢東時代の北京で過ごした。中国の「文化大革命」とソ連崩壊の目撃者となり、投獄と流刑を経験した。しかし彼女は2つの文化を自らの内に保ち続けている。両者がどんなに異なっていようとも。 「どこからこんな中国っ子が?」と幼いインナの母、エリザベータ・キシキナは1940年代のモスクワの路上で尋ねられたものだった。もちろんこの時少女は、自分が中国人なのかロシア人なのか、深くは考えていなかった。 ロシア人の母と中国人の父 インナの母エリザベータはサラトフの地主の家庭に生まれた。エリザベータの父親は1917年の革命を受け入れず、自殺した。彼女は生涯出自を明かさなかった。ソビエト国家では不名誉だったからだ。 インナの父李立三(リー・リーサン)は中

    中国共産党創立党員のロシア系の娘の驚くべき運命
  • 画家ピョートル・ベロフが見たグラーグとスターリン大粛清(写真特集)

    1980年代後半、画家ピョートル・ベロフは、その絵画でモスクワっ子に衝撃を与えた。それらは、グラーグ(強制収容所)とスターリンの大粛清を初めて公然と取り上げたからだ。我々は、それらの絵を現代の視点から見直してみた。

    画家ピョートル・ベロフが見たグラーグとスターリン大粛清(写真特集)
  • カザフスタンがソ連の一部となったいきさつは?(写真特集)

    カザフ・ソビエト社会主義共和国は、ソ連にとっては、戦時においても平時においても頼れる「銃後」だった。まさにここで、ソ連の産業のポテンシャルが顕在化し、核実験が行われ、世界初の宇宙基地が建設された。 ロシアは、18世紀初めに現カザフスタンの草原に達した。1730年代に、カザフ・ハン国が分裂した部族連合、いわゆる「小ジュズ」と「中ジュズ」が、自らロシアの支配下に入る。好戦的な遊牧帝国「ジュンガル」からの保護を求めてだった。一方、「大ジュズ」については、これを服属させるために、ロシアは、コーカンド・ハン国と戦わなければならなかったが、いずれをも19世紀後半に併合することに成功する。両者とも、1917年のロシア帝国崩壊にいたるまで、帝国の版図に入っていた。 ソビエト政権の最初の数年間、カザフ人が住んでいた領域は、何回も大規模な国境の変更を経た。この民族の自治体は、その名称、境界、首都がしょっちゅう

    カザフスタンがソ連の一部となったいきさつは?(写真特集)
  • https://jp.rbth.com/history/82194-stalin-ni-kan-suru-joudan

  • ソ連が1936年に9千平方メートルのカーペットを赤の広場に敷いたのはなぜか

    ソ連におけるサッカーの発展に青信号を灯したユニークな試合のために、赤の広場が9千平方㍍のカーペットで覆われた。 1936年7月6日、モスクワの赤の広場で、何百人もの人が慌ただしく9千平方㍍の巨大なフェルト製カーペットを広げた。ソ連は物不足の時代で、これほど大量の良質のヴァレンキ(冬用のフェルトブーツ)の材料を浪費するにはそれなりの理由があったはずだ。しかし、このカーペットが作られたのは、クレムリンの壁の近くで初めて行われるサッカーの試合のためだった。レーニン廟の壇上に立ったスターリンは、当初15分の予定だった試合を観戦した。皆が、このイベントが専制君主の気に召さないのではと怯えていた。

    ソ連が1936年に9千平方メートルのカーペットを赤の広場に敷いたのはなぜか
  • ロシア人のように元旦を過ごすための7つの決まり

    ロシアでは大晦日が最大の祝日だ。皆がとても楽しみにしていて、盛大にお祝いする。それもとても贅沢に。それに加えて、準備にもとても時間をかけ、贈り物やご馳走にお金を使うことも惜しまない。そして、2日間かけて料理をし、膨大なサラダを作るのだ。 そう、1月1日の様子を見れば大晦日がいかに楽しいものであったかが分かる。 1.二日酔いになる 待ちに待った大晦日の夜、ロシア人は思いきりお祝いする。着飾って、べて、飲んで、ダイエットや健康のことも一時忘れる。花火をし、踊り続けて寝るのも忘れて楽しむのである。 よく言われることは、もし大晦日に何が起こったか全部覚えていて、二日酔いもしていなければ-新年のお祝いは失敗だったということである。 2.お昼近くになって起き出す

    ロシア人のように元旦を過ごすための7つの決まり
  • ペテルブルクのエルミタージュ美術館を救ったシベリアのネコ

    チュメニの中心部にはシベリアのネコを記念して名がつけられた広場がある。そしてその広場にはネコを象った彫刻がいくつかある。母親ネコと3匹の子ネコの彫刻、いたずら好きな子供のネコ、そして高く跳び上がり、通行人に真面目な眼差しを向ける大人のネコ。この広場と記念碑はレニングラード封鎖にまつわる悲しい出来事を記念して作られたものである。いま、わたしたちがロシアの主要な美術館の至宝の作品を見ることができるのは、このシベリアのネコたちのおかげでもあるのだ。 警備員のいないエルミタージュ ロシア最大で、もっとも有名な美術館では、エリザヴェータ・ペトローヴナ女帝の時代から、ネコたちが正式に働いていた。1745年、女帝はカザンからもっとも大きなネコ30匹をネズミを捕まえるために呼び寄せる勅令を出したのである。ロシア帝国でカザンのネコはもっとも戦闘能力が高いと考えられていたのである。ネコたちは美術館と地下の所蔵

    ペテルブルクのエルミタージュ美術館を救ったシベリアのネコ
  • 「子供たちの友」:スターリンと少女の写真の暗い後日談

    ヨシフ・スターリンに抱かれているエンゲルシナ・マルキゾワ(1936年)。2年後、大粛清の時期に彼女の両親は殺されてしまった。 Mikhail Kalashnikov撮影/Sputnik ソ連の独裁者スターリンの有名な写真がある。花束を手に持ち、少女を抱いたもので、優しい指導者のイメージを伝えた。にもかかわらず、これは写真の少女、エンゲルシナ・マルキゾワを救わなかった。1930年代の大粛清の時期に彼女の両親は殺されてしまった。 アメリカのポップアートの旗手、アンディ・ウォーホルは、1968年にこんなことを言った。「将来は、誰もが15分間で世界的に有名になれるだろう」。もちろん、その32年前の1936年に、東シベリアのブリヤート出身の7歳の少女、エンゲルシナ・マルキゾワが、その言葉を知っていたわけはない。だが、彼女の身に起きたのはまさにそういうことだった。 ソ連の全能の指導者、ヨシフ・スターリ

    「子供たちの友」:スターリンと少女の写真の暗い後日談
  • ロシア版「牢名主」その他の面々:監獄と犯罪界のヒエラルキーをのぞいてみよう

    「ヴォール・ヴ・ザコーネ」(規律ある泥棒)は、犯罪界の上位を占める大親分たちだ。大いにリスペクトされるこの大物たちは、刑務所の内でも外でも、犯罪界の大半を支配しており、一定の基準を満たすことで、このカーストを形成している。 「ヴォール・ヴ・ザコーネ」になりたい者は、たとえば、まず泥棒仲間のなかで揺るぎない尊敬を集め、多数の前科をもち、さらに治安機関に絶対に協力してはならない。 「ヴォール・ヴ・ザコーネ」たる者は、厳格な行動規範、いわゆる「泥棒の仁義」を尊重し遵守する。その主な原則は、泥棒としての在り方をあくまで貫き、くどいようだが、刑務所の職員、看守を含め、あらゆる治安機関に協力しないことだ。 「ゾーン」(これは、最も規律が厳しい監獄を意味する俗語だ)に投獄されると、「ヴォール・ヴ・ザコーネ」は「オブシャク」(共有の現金)を管理し、独自の掟を定める。そして、その一連の掟「ポニャーチヤ」(観

    ロシア版「牢名主」その他の面々:監獄と犯罪界のヒエラルキーをのぞいてみよう
  • 1999年にベラルーシで行方不明になった子どもが、20年後、ロシアで発見された

    1999年10月、4歳の少女ユリヤ・モイセエンコと彼女の父親は列車に乗って、ベラルーシのある町から別の町に出かけた。ところが父親は車中で酒を飲んで眠り込んでしまった。そして目が覚めたとき、自分が血まみれになっていて、娘がいなくなっているのに気がついた。 捜査は広範囲にわたって行われたが、女の子を発見することは出来ず、家族は娘を失ったまま生活を続けることになった。そして事件から20年が経過した今、一家はロシアのリャザンからショートメールを受け取った。 失踪 当初、警察は少女の父親を疑ったが、着衣についた血痕のDNA鑑定を行った結果、それは彼のものではないことが分かった。父親は、誰かと争った記憶はなく、なにも覚えていないと言い、娘が一体どこに行ったのか分からないと言う。 警察もお尻に火がつき、捜索を全土に広げたが成果は出なかった。少女の母親は駅で娘の写真入りのポスターを来る日も来る日も配り続け

    1999年にベラルーシで行方不明になった子どもが、20年後、ロシアで発見された
  • «Тоже мне подарок!»:ロシア語でひと味違った意見の言い方をしてみよう

    今回は、(肯定的、否定的…)評価を表す構文について説明しよう。評価を表す構文などと言うと、難しそうに聞こえるかもしれないが、根拠を示す議論や意見交換はそれなしでは済まない。 マルチタスクの能力は、現代では宗教のように崇められる。渋滞に巻き込まれて、仕事のメールに返信しながら、付属のオーディオブックの音量を調整する。片手でコンロ上の夕をかき混ぜ、片手で子供の宿題を直し、目の隅でテレビのお気に入りのトークショーを見る。 メカニズムとしての言語は、マルチタスクの原則にも沿っている!1つのフレーズで、外的状況を説明するだけでなく、評価(好き/嫌い)を表現し、しかも、もし相手と意見が違った場合には、相手を説得することもできる(つまり、「私は正しいが、君はそうじゃない」という意味を込められる)。 例として、«Говорю тебе, Ванечка стал выше!»(いいかい、ワーニャは背が伸

    «Тоже мне подарок!»:ロシア語でひと味違った意見の言い方をしてみよう
  • 外国で政治犯の殺害を指揮し、スパイ活動を行ったソ連の破壊工作の達人

    情報機関の指示でトルコに滞在していたゲオルギー・アガベコフというソ連のスパイがパリに逃亡した際、ソ連の秘密警察は亡命者に対し、被告不在のまま死刑判決を下した。亡命者暗殺の計画に携わったのは、若き諜報員アレクサンドル・コロトコフだった。彼はその直前まで、ルビャンカのエレベーター技術者にすぎなかった。 技術来なら、アレクサンドル・コロトコフは有名スパイになるはずではなかった。貧しい家庭に生まれた彼は、モスクワ国立大学で勉強する夢を捨て、夫がいない中で何とか生計を立てようと働き詰めだった母親を助けるために技術者として働くことになった。 若者の平凡な日々の気晴らしはテニスだった。しかしこれが、来は平穏であっただろう彼の人生を劇的に変えることになる。 コロトコフはディナモ・スポーツクラブでテニスをしており、たまに他の選手が試合をしている際にボールボーイを務めていた。その選手の中にいたのが、ソ

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  • ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.25 〜ロシアを走って感じた「ご当地事情」〜 - dino.network

    いまでも多くの人に聞かれる事、宿、買い物などといったロシアの「ご当地事情」ユーラシア大陸横断の旅を終えて、東京に帰って来たら、痩せていた。ベルトをしなくてもぴったりとフィットしていたジーンズはブカブカだし、キツかったジャケットは、ちょうどよくなっている。 「痩せた?」 旅のことを知らない知人でも、何人かが訝しんでいたから、間違いなく痩せて見えたのだろう。 思い当たるフシは、ただひとつ。旅行中の摂取カロリーが少なかったのだ。特に、ロシアでは「美味しいものをたらふくべた」という記憶がない。 ロシア旅行中の“”をどうするかという課題は、結局、出発してみるまでは解決しなかった。 ウラジオストク、ハバロフスクを離れ、内陸部へと進んで行くに従って、心配していた通り、事&料事情は悪化していくばかりだった。 べ物を買うことができるのは、小さな街の料品店やキオスクのような売店などに限られる。

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  • ソ連崩壊30年:「ソ連が最良の時代」7割超 ロシア国民の中で薄れる負の記憶 | 毎日新聞

    ソ連が1991年12月に崩壊してから、まもなく30年を迎える。旧ソ連諸国の今を取り上げた連載(全7回予定)の第5回はソ連懐古の風潮が強まるロシアの状況を報告する。次回はロシアで強まるメディア規制を取り上げる。 ソ連末期にグラスノスチ(情報公開)が始まると、共産党政権により長年隠されてきた独裁者スターリンによる大粛清などの負の歴史の解明が進むという期待が高まった。だが、ロシアでは今、抑圧の歴史への記憶は薄まり、ソ連時代を「最良の時代」と答える人は7割を超える。何が起こっているのか。 「恥だ」「ファシスト」。10月14日夜、モスクワ中心部にあるロシアの人権団体「メモリアル」の事務所。スターリン体制下の30年代初期にウクライナで起こった大飢饉(ききん)「ホロドモール」に関する映画の上映会が始まると、約40人のマスク姿の男らが会場に侵入し、観客を罵倒し始めた。男らの後ろには政府系テレビ局のクルーま

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  • ソ連式お祝いのテーブル(写真特集)

    ソ連時代、レストランはなかなか手の届かない贅沢であったが、ロシア人はいつの時代も、おいしく、楽しく事をすることが大好きであった。そこで家の中で、人を引き寄せ、人を結びつけた場所と言えば、べ物がたくさん用意された卓であった。 祝日、あるいは特に理由もなく、誰かの家を訪ねるというのは、ソ連の人々にとって主要な楽しみだったと言っても過言ではない。お茶を飲みに立ち寄ったり、夜遅くまで友人や知り合いの一緒にテーブルに座って話し込むというのは理想的な休暇の過ごし方であった。

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  • ソ連軽食を食べられるサンクトの店

    古いアメリカ技術、忘れ去られた品質基準、社会主義的なサービス、インテリアに雰囲気。20世紀半ばのソ連の公共外を体験してみよう。 プィシカ堂 プィシカは粉砂糖のかかった揚げドーナツ。このドーナツを提供する店をプイシェチナヤ(プィシカ堂)と呼ぶ。プィシカは、外はサクっとしていて、中はフワっとしている。味はルイジアナのベニエ、形状はアメリカのドーナツに似ている。ドーナツの遠い親戚と言うことができる。 プィシカ堂=マリナ・ミロノワ このつながりを築いたのは、ソ連の公共外システムをつくったアナスタス・ミコヤン商工人民委員。1936年にアメリカに行き、オートメーションのドーナツ揚げ機をソ連に導入した。ソ連製ドーナツ揚げ機は各都市の堂に設置された。サンクトペテルブルク市のジェリャボフ通り(ソ連時代の旧名で現在はボリシャヤ・コニュシェンナヤ通り)にあるプィシカ堂の機械は、1958年の開店時

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  • 興行収入がもっとも多かったソ連映画10選

    ここで紹介する映画を観れば、ソ連の人々のメンタリティがどのようなものだったのか、すぐに理解することができるだろう。戦争映画、スパイ映画、海賊もの、メロドラマ、ジェンダー問題を扱ったコメディなど、ソ連で大きな人気を博した10映画作品を紹介しよう。 ソ連時代、映画はもっとも人気のある娯楽の一つであった。映画は比較的安価で、誰もが楽しめるものであり、映画館は小さな町にも必ずあった。いくつかのソ連映画の観客動員数が記録的な数字となったのは、こうした背景があったからだろう。そしてこれらの映画はいまでも、世代を超えて愛される作品となっている。 10. 朝焼けは静かなれど(1973年) 第二次世界大戦を描いた心を打つ作品の一つ。ソ連の作家、ボリス・ワシリエフの同名の小説映画化したものだが、戦闘シーンはそれほど多くなく、サディスティックな戦争の恐ろしさも描かれていない。これは、5人の若い女性兵を送り

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  • ロシア軍で過ごす一週

    もしロシア軍に徴兵されれば、「ゴムの水曜日」「青い木曜日」など、一週を通して思いもよらない経験をたくさんすることになるだろう。 ロシアでは今なお志願制と並んで義務的な兵役制が保たれている。18歳以上の若者、教育機関を卒業した若者全員が、一年だけとはいえ(以前は2年だった)ロシア軍に入隊する。その多くが厳しい生活条件や新兵いじめに恐怖を感じ、入隊を恐れている。兵役を刑務所での服役に例え、人生の貴重な一年の喪失と見る人もいる。 もちろん、どの軍種に配属されるかによる部分も大きい。しかし入隊するからには、この試練をユーモアで乗り切り、目の前の現実に利益を見出し、服務と軍隊生活から満足を得られるよう努めた方が良い。 では軍隊生活で何が待ち受けているのか、どう乗り切れば良いのか、お話ししよう。 「指揮官の月曜日」 軍の一週間の始まりはいつも波乱万丈で大忙しだ。指揮官の「中隊、起床!」という怒鳴り声で

    ロシア軍で過ごす一週
  • 冷戦時代、「ソ連軍を迎え撃つ決戦場」だった北海道の村 歩いて見えた、その理由:朝日新聞GLOBE+

    ■決戦用の戦車部隊 私たちは10月半ばの午前9時半、音威子府から52キロ南に下った名寄を出発した。郊外には、音威子府に一番近い陸自名寄駐屯地がある。 松村さんによれば、自衛隊は当時、定員割れに苦しんでいたが、北海道の部隊だけは定員を満たしていた。第2師団は当時9千人で充足率100%だった。陸自の隊舎は2段ベッドが普通だが、名寄だけは3段ベッドが導入されていたという。有事になれば、松村さんらの戦車部隊は名寄の普通科(歩兵)部隊などと合流し、戦闘団をつくって現地に向かう手はずになっていた。 陸上自衛隊第2師団名寄駐屯地=牧野愛博撮影 松村さんは当時、自衛隊が導入を始めた74式戦車4両を指揮する戦車小隊長だった。74式は61式に次ぐ2代目の国産戦車で、音威子府付近を流れる天塩川を渡河できるように設計されていた。重量38トン。不整地での燃費は1リットルあたり約200メートル。約800リットルを積載

    冷戦時代、「ソ連軍を迎え撃つ決戦場」だった北海道の村 歩いて見えた、その理由:朝日新聞GLOBE+
  • モンゴルはソ連の対独戦勝にどう貢献したか

    赤軍の馬の5分の1はモンゴルの馬だった。ソビエト軍兵士の外套の5分の1はモンゴルの羊毛で作られたものだった。 20世紀前半、モンゴルはソ連に対して最も忠実な同盟国の一つだった。1939年には両国が協力して日軍のモンゴル人民共和国への侵攻に抵抗した。1941年6月22日にソ連がナチス・ドイツ軍の攻撃を受けると、モンゴルは傍観せず、ソ連の戦勝に貢献した。 遠く離れたヨーロッパでの戦争だったが、モンゴルは自国の戦争としてこれを戦った。人口が少なく豊かでもなかったモンゴルがソ連に行った援助は、品目によっては武器貸与法で米国が行った支援に引けを取らなかった。 「モンゴル人民の贈り物」 モンゴル指導部は、西に自国軍を送ることができないことを理解していた。日からの軍事的脅威は残ったままで、格的な遠征部隊を組織する余裕もなかった。モンゴルは北の隣国に可能な範囲で経済的支援を行うことにした。 「赤軍の

    モンゴルはソ連の対独戦勝にどう貢献したか