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正義に関するlouis8917のブックマーク (2)

  • ネットで「社会のために」正義の攻撃をする人たち→それは本当に、社会のためになっている? : Market Hack

    先日、この記事を読んで考えさせられたので、これを書きます。 『ネットで誰かを吊るし上げて叩くと快感が得られる 脳科学者中野信子氏が解説する「シャーデンフロイデ」という感情』 ちょっと長いけれど、その中で展開されている議論を抜粋・引用します。 まず中野信子さんによると、理想主義的要素が強い社会では「暗黙のルール」があり、それに従わない人は「あいつ空気読めないよね」と、バッシングが始まるそうです。 そして誰が社会規範から逸脱しているかを察知する「検出モジュール」として、ヒト社会では、「ねたみ」がその役目を果たしている可能性があります。 シャーデンフロイデ(Schadenfreude)は、ねたみの相手が失敗したときに感じる喜びの感情のことで、いわゆるネットスラングの「メシウマ」というのが一番ぴったりくるそうです。 中野信子さんはなぜバッシング(攻撃)が快感を伴うか? について次のように説明してい

    ネットで「社会のために」正義の攻撃をする人たち→それは本当に、社会のためになっている? : Market Hack
  • 第1話 どうしたら正義を語ることができるのか - 草野耕一のあまり法律家的でない法律論:日経ビジネスオンライン

    さすがはヘーゲル。見事なメタファー(隠喩)だ。しかし、比喩が美しいからといって主張が正しいとは限らない。他の学問分野はいざ知らず、少なくとも法律学はミネルバのふくろうに課された宿命とは無縁の存在だ。 法律学は巷(ちまた)に生起する諸問題を同じ時代・同じ空間に生きる人々の手によって解決するためのアート(技芸)だからである。国家間の争いから家族間の争いまで、あらゆるレベルの紛争の論点を整理してそれを平和裡に解決すること、それが法律学に与えられた使命であり、絶対的真理を求めて歴史の終焉を待つ余裕などあるはずがない。 問題の実践的解決能力、それこそが法律学の真髄であり、この働きがあればこそ法律学は有用な学問としての評価を長年にわたり享受してこれた。ところが、最近に至り状況が変わった。少なくとも私にはそう思われる。たとえば、社会問題を論じる各種のフォーラムで積極的に意見を述べる者の多くはエコノミスト

    第1話 どうしたら正義を語ることができるのか - 草野耕一のあまり法律家的でない法律論:日経ビジネスオンライン
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