世の中は連休である。私も泳ぎ終えた午後のけだるさに新緑の木陰でぼうっとしながら「自然」という言葉を考え、そして奇妙に考え込んでしまった。というわけで、その愚考をネタに。 「自然」という字面の言葉は恐らく仏教用語として日本語に定着したのだろう。親鸞の教えにも自然法爾(じねんほうに)があり「じねん」と呉音で読ませる。してみると平安時代には定着していたのかと字引を見ると、源氏物語の用例もあるが、「自然にそのけはひこよなかるべし」のように副詞で用いるらしい、というところでうかつにも今頃気がついたのだが、自然法爾とは自然に法爾ということかもしれず、「自然(じねん)」自体が平安初期までに客体的な概念であったかはわからない。 が、後期の親鸞にとっては、阿弥陀は自然(じねん)を知らしむる料なりというように、阿弥陀と自然は同義であるか、むしろその思想においては自然が本体であり、阿弥陀はその表象でしかなかった