タグ

ブックマーク / aburax.blog80.fc2.com (3)

  • 恐怖の権力

    わたしは、自我や超自我を定型的に持つ者、即ち定型発達者を権力者と呼んでいる。 しかし、この記事でも述べているように、自我や超自我が壊れている者と、自我や超自我が正常に機能している者が、一対一で対峙した時、その権力構造は逆転する。念のため引用しておく。 ===== 構造を助長するサンボリックな幻想を生きる主体と、アブジェクシオンに親近するセミオティックな幻想を生きる主体が、一対一で対峙した場合、恐怖を感じて相手を畏怖するのは、前者、即ち定型人、即ち神経症者なのだ。これが、「権力」なる概念の質ではあろう。ちょうど前記事で、ババアがわたしを異常者だとしておぞましく思っているように。 とはいえ、後者の主体も、セミオティック自体がおぞましさ(かつ魅惑的なもの)を惹起するものである故、他人も自分も、常に既に畏怖している。し続けている。これは、クリステヴァが前掲書で「作家とは原則的に幼児性恐怖症者であ

    mn_kr
    mn_kr 2008/08/11
    “帝国主義者は、サバルタン――戦闘力を持たない権力者――を怖れるあまり、彼らを植民地化する”
  • 「軸」と「柵」

    さて、前記事が前記事だけに、今日は「被権力者ブリッコする権力者」としての立場で、定型人が合意を前提にする故執着してしまう、「心の理論」的な領域、固定的かつ多数に共有される定型人同士に類似する思考様式的な立場で、最近飽きつつある表現を反復するなら二次元的領域で、文章を書いてみようと思う。こういうところがとらさんにずるいって言われるところなんだろうな。いえそう言われたからってどうしようもできないわたしなんだけど。 という前置きをしておいて、と。 前記事でわたしはパンサやモモチと名乗る笙野ファンに唾を吐きかけているが、もちろん笙野ファンを一緒くたに考えているわけではない。笙野作品の、笙野の祈りの質に近づけているな、感づいているな、とわたしには思える(共鳴する)批評などもたまに見かける。笙野ファンを自認している人でなくても。そういう人は意外と理屈屋が多いのがまた面白い。もちろん笙野(という作家性

    mn_kr
    mn_kr 2008/08/11
    構造(サンボリック)を破壊する幻想(セミオティック)はそれ自体がおぞましさ(かつ魅惑的なもの)を惹起⇒他人も自分も畏怖の対象|アブジェクシオンの領域では「権力/被権力」という言語的二項対立は脱構築”
  • 「動物」「エリート」「ヘタレ」

    現代社会は多様性が増している。だから社会と自己の関わり、つまりアイデンティティの確立が難しく、自我同一性の拡散などといった事態が生じる。 一見もっともらしいが、当にそうであろうか。 宮台氏などは「社会は流動化」しているという。これならわかる。アメリカ型自由経済により、資産や労働力や物流など、様々なものの「価値」が流動化している。それはグローバル化し、いまや中国をも飲み込もうとしている。株などでは投資判断として流動性というものを考慮に入れる場合がある。大型株・小型株という奴だ。流動性は高ければ高いほどよい。 こういったものの価値は「交換原則」によるものの価値だ。中沢新一氏の「贈与/交換」論でいうなら「交換」は主観的な曖昧なものを排除する傾向がある。だからこそ「当の価値」に近いという考え方だ。流動性が高ければ交換される回数が増え、主観などの曖昧なノイズが薄まるから流動性は高い方がよいのだ。

  • 1