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ブックマーク / deepbluedragon.hatenadiary.com (4)

  • ベンヤミンのアレゴリー論への前哨 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    シンボルとアレゴリーとメタファーとアナロジーの違いは分かりにくい。アレゴリーは比喩と訳されることもあるが、それだとメタファーと区別がつかなくなる。レトリック(修辞)としてのメタファー(比喩)とは区別しないとしょうがない。認知科学ではメタファー(比喩)とアナロジー(類推)はセットで扱われる。つまり二つの事柄の持つ性質を比較対照する点で共通点を持つ。ただし、アナロジーでは性質の対応が明示に行なわれるのに対して、メタファーでは性質の対応は暗黙のうちに行なわれる(太陽系と原子構造、王様の勇敢さとライオンの勇敢さ)。しかしアレゴリーを比喩とするのは(一部を言い当ててはいるが)問題がある。 シンボル(象徴)の典型例は言葉である。言葉は別の何かを表している。これに対して、アレゴリー(寓意)は抽象的な何かを表すとすることがあるが、これだと問題が生じる。「鳩は平和の象徴だ」と言い方をするが、平和は十分に抽象

    ベンヤミンのアレゴリー論への前哨 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
    mn_kr
    mn_kr 2009/07/01
    “アレゴリー=ある対象に基本的に二義(以上)を同時に要求。寓話では登場人物は(字義通りには)ライオンを意味すると同時に(寓意的に)強きものを意味...ベンヤミン:商品=アレゴリー(多義を同時に持つ)”
  • 奇抜な見解で話題になる分析哲学者たち - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    どうもクワイン以後の分析哲学には、奇妙な結論を引き出して話題になる哲学者が時々見受けられる。彼らは奇妙な結論の裏側に重要な哲学的問題を隠し持っているのだが、奇妙な結論ばかりが有名になって哲学の専門家の間に話題を提供することにはなるのだけれど、その奇妙な結論のせいで却って当の問題提起は見えにくくなってしまっているところがある。そうした哲学者とはデヴィッド・ルイスやリチャード・ローティやジョン・マクダウェルのことである。可能世界は現実世界と同じように実在するとか科学も芸術も政治も解釈学的には同じとか知覚内容はすべて概念的なので幼児や動物は知覚しないとか、奇抜な見解で知られる。しかし、その奇妙な結論に注目するのは実は誤りで、その裏に潜む哲学的難問に気づかないとしょうがないような気がする。つまり、デヴィッド・ルイスなら実在論問題、リチャード・ローティなら認識論問題、ジョン・マクダウェルなら超越論問

    奇抜な見解で話題になる分析哲学者たち - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
    mn_kr
    mn_kr 2008/12/01
    “デヴィッド・ルイスなら実在論問題、リチャード・ローティなら認識論問題、ジョン・マクダウェルなら超越論問題。これらの哲学的難問を一挙に解決するためにこそ、彼らの奇妙な見解はなされたものなのだ。”
  • ルーマンの芸術論からの引用に対する読解 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    ルーマンの晩年の著作からのある程度まとまった引用を見つけたので、ちょっと読解してみようと思います(日曜社会学>出不ろぐ de√Blog http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050805)。ちなみに、私自身はこの著作を読んだことありませんので、引用部分だけの読解となります(だから、読めるテキストは読者と一緒)。読解するのは、「機能」とはなんでしょう:、より以下に引用されている二つのテキストが基。引用ページからみると、下のほうがページ数が若いので、そちらから読みますです(じゃないと、読みにくくてしょうがない)。 [p.227]から まずは、芸術はそもそも誰のものか、と言う話。それは上流階級のものであるという。そんな、俺は貧乏だけど芸術に興味あるよ、とか言わないで。これは歴史的に見てという話。生きる事ばかりに精一杯で芸術なんて、と言うのがもともとの下層階級の人

    ルーマンの芸術論からの引用に対する読解 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
    mn_kr
    mn_kr 2008/12/01
    “全体社会理論では、機能よりも布置(構造)の方が重要であるようだ。ある機能があるからそこにあるのではなく、機能はせいぜいある布置を可能にする条件に過ぎない”
  • ポストモダン化したネオリベな世界に適応した正義感たち - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    グローバル化の進んだネオリベな世界において、社会問題を様々に分散させることによって力を持たせなくするのはどういうことを意味しているのか。ある人(集団や世代)が特定の社会問題ばかりを問題視していることは、様々な問題が並列状態になったネオリベな世界観を加速化させる役割しか果たさない。特定の社会問題が特別視される理由は(社会問題がむやみやたらに増えた)このポストモダン化した世界においては存在しない。批判対象を見つけては一所懸命に批判ばかりしていることは、実はこのネオリベな世界においては無力な相対主義でしかない。ポストモダン批判であった「知の欺瞞」以降の対応とはとても思えない。 内輪でしか通用しない現代思想キーワードを連呼したり、批判対象を見つけて批判すること(重箱の隅をつつくようなことも多い)が自己目的化されたり、仲間を見つけるためのネタとして社会批判ごっこを続けたり…、挙句の果てはお前はどうな

    ポストモダン化したネオリベな世界に適応した正義感たち - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
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