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critiqueに関するmn_krのブックマーク (82)

  • 俺はセンチメンタルカンガルー - 酷評するヤツに守ってもらいたいルール

    ↓これを読んで思ったことをつらつらと書いてみようと思う。 ●その冒涜がいったいナンボのものなのか(サヨナナ) 完全匿名で文句を言われたとき、一番無力感に襲われるのは反論したいときにそいつに直接その言葉を届ける手段がないことだ。匿名でもサイト持っている人であれば、メールアドレスとかコメント欄があればまぁ反論できる。 繊細なクリエイターってのはやっぱり才能のある人の中でもいっぱいいて、そういう人が素人の心ない批評で傷ついてしまい、作品を作ることをやめてしまうみたいなケースは結構ある。それを「繊細すぎる」とか「プロ意識に欠けるんじゃないか」と言うのは正論っぽくはあるが、単純に思いやりが足りない。というより想像力か? あなたが酷評したクリエイターが、酷評しなかったことであなたにとって人生を変えるほどインパクトのある作品を作ってくれるかもしれないのに。要は下らない中傷めいた酷評でクリエイターのやる気

    俺はセンチメンタルカンガルー - 酷評するヤツに守ってもらいたいルール
  • 宇治光洋「融解する「小説」と「批評」―なぜ、いま文芸誌がツマラナイのか―」

    1. 最近、文芸誌がツマラナイと思うようになった 毎月毎月、文芸誌に掲載される小説や批評が、いっこうに面白く感じられなくなっている。 もちろん、「作品に真摯に向き合う姿勢がなっとらん」と、お叱りを受ければ、返す言葉もないのだが、それにしても作品自体が退屈で、つまらなく感じるのは事実であるから、しょうがない。 そう思いながら、今月もまた文芸誌を何冊か買って、なんとなく読んでいたのだが、いよいよツマラナイと思う。 そこですこしばかり、現在の小説や批評が、なぜツマラナイのか考えてみようと思う。 鹿島田真希「六〇〇〇度の愛」(『新潮』2月号、2005年)は、平凡な主婦である「女」が日常の中に溶解した自分を取り戻すべく、単身長崎を訪れ、そこでハーフの「青年」と出会い、彼との交流の中で再生する物語である。 その際、下敷きとなっているのはロシア正教における特異な聖人―佯狂者―と、聖女―娼婦