It happens sometimes @ElementaryGard 『東映動画 長編アニメ大全集』(1978年)によると、日本動画株式会社の幹部が東映の今田智憲営業課長を訪ね、身売り話を切りだしたとあります。この本は杉山卓氏による編纂ですね。一度奥様といっしょにお目にかかったことがあります。
2015年6月25日に都内で開かれた、東映アニメーション株式会社の第77期定時株主総会の様子。 多くの作品を抱える老舗ですが、株主の最大の関心はやはりプリキュアシリーズの動向だったようです。
細田守監督の最新作『バケモノの子』が7月11日(土)に公開されます。本作を手がける、スタジオ地図の齋藤優一郎プロデューサーが、豪華声優陣15人の配役や、映画の内容、進捗について発表しました。 また、会見では、これまで宮崎駿監督や高畑勲監督が担ってきた、「東映まんがまつり」などの文化の継承について、熱くかたりました。 宮崎駿監督が、長編制作から引退宣言をして以降、細田守監督にかけられる期待度は高まっています。 齋藤プロデューサーは、スタジオ地図の今後の展望について、どのように考えているのでしょうか。 齋藤: 僕は30代後半ですが、子ども時代に、東映まんがまつりなどに、お世話になりました。夏に、親やおじいちゃん、おばあちゃんといっしょに映画館へ行く。子どもと大人が一緒に楽しめる映画に対する社会的な役割に、ある種の憧れをもっています。 宮崎監督や高畑監督たちは、55年間くらいその歴史を担ってこら
2014年10月4日(土)13:00に明治大学中野キャンパス5階ホールにて行われた『東映アニメーション㈱共催講座 アニメーション産業 ヒットの秘密-「おジャ魔女どれみ」「デジモンアドベンチャー」のプロデューサーが明かす業界の秘密-』で現在は東映アニメーション㈱企画営業本部 企画開発スーパーバイザーで『おジャ魔女どれみ』や「デジモンアドベンチャー」でプロデューサーをなされた関弘美さんが話されたことや感想などをツイートしたものをまとめさせていただきました。ツイートされたものが話された内容の全てではないですし、お話された事が聞き間違って受け取っていたり、ニュアンスの異なっている場合が多いので注意してください。
国産初の30分シリーズアニメと言えば誰もが知る「鉄腕アトム」だ。手塚治虫は、多数のマンガ連載を抱えながら、自らアニメにも意欲的に取り組み続けたことで知られるが、アトムはそのスタートとなった作品と言えるだろう。 一方で、アニメ産業について語られる際、必ず目にするのが「鉄腕アトムによって、現在の業界構造が作られてしまった。テレビ局や広告代理店は多くのマージンを得るが、制作会社にはほとんどおカネが還元されない」という意見だ。 これは本当なのだろうか? ――その歴史を辿ることは、今のアニメビジネスがおかれた状況を打開する糸口にもなるはずだ。 マンガ家としての手塚治虫については、多くの評論や伝記が存在している。しかし、アニメ作家としての手塚治虫について詳細に調査した例は決して多くはない。今回は、2007年に『アニメ作家としての手塚治虫』を著した京都精華大学の津堅信之准教授に話を聞いた。 ■Amazo
10月11日に開催された新文芸坐×アニメスタイルセレクションVol. 60 映画館で出逢うアニメの傑作・東映長編特集『ガリバー』『ホルス』『長猫』『ど宝』に参加。データ原口こと原口正宏さんと小黒祐一郎さんが登壇したトークショーは貴重な解説の場となった。最初に15分程度の解説があり、『ガリバーの宇宙旅行』上映後にふたたびお二人が登場。新文芸坐のオールナイトには何度も参加しているけれど、この形式は初めて。まさに「データ原口仕様」だった。メモを元に箇条書きで抜粋。どこまでが東映長編か。最終的には『金の鳥』(制作協力・マッドハウス、監督/平田敏夫、1987年公開)だが、大塚康生さんは『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)だと言っていた。(早すぎますね、と冗談めかして)『わんわん忠臣蔵』は1963年12月に公開されたが、『ガリバーの宇宙旅行』は1965年まで制作が延びた。結果的に1964年は長編公開
登石 雋一(といし しゅんいち、1932年3月7日[1] - 2012年9月11日)は、日本の映画プロデューサー、映画会社経営者である[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。東映東京撮影所で進行主任、企画者を務めた後、東映人事部長、次いで取締役企画製作部長・経営企画室長、東映動画(現在の東映アニメーション)代表取締役社長、東映化学工業(現在の東映ラボ・テック)代表取締役社長を歴任した[2][3][11]。本業の傍ら、劇映画や演劇への俳優としての出演作もあり[8][12][13][14][15][16][17][18][19][20][21][22][23][24]、十石 峻(といし しゅん)の別名ももつ[16][17][18][19][20]。 1932年(昭和7年)、東京府(現在の東京都)に生まれる[2][3]。 第二次世界大戦後、1951年(昭和26年)4月、東京大学
人材を育て続けてきた東映アニメーション 一方、東映アニメーションは、1958年に『白蛇伝』を制作するにあたり、本格的にスタジオを稼働し、人材雇用を開始した。そして、1960年代前後から現在に至るまで、日本のアニメを支える人材を切れ目なく育てている。実写映画界のように自社人材の育成を断念せず、半世紀以上に渡ってスタッフを育て続けた結果だろう。 実写映画界でも多くの人材をスタジオが抱えながら自然と才能が育つ環境があったが、同様の環境が現在のアニメスタジオにあるのではないか。日本の実写映画よりアニメの国際的な評価が高くなっている背景には、地道な人材採用と育成があるからではないだろうか。このようにスタジオが機能している限り人材は育つはずなのである。 アニメ業界がスタジオを維持でき、実写映画業界がスタジオを維持できなかった背景にはテレビとの関係がある。 アニメ業界はテレビアニメを供給するなどテレビと
富野由悠季関連の文献を紹介したところで触れたので、再び自著の紹介。ご容赦いただきたい。 ●「アニメ作家としての手塚治虫」 著 者: 津堅信之 出版社: NTT出版 刊行年: 2007年 定 価: 2400円 日本の戦後アニメ界の流れには東映動画系と虫プロ系がある、と言うと、必ず例外的事象を指摘して批判する人たちがいるし、その意見もよくわかるのだが、総体として、この2系統を認識すると、日本のアニメ史は非常にわかりやすくなる。 そして、現在のアニメ発展は、東映動画系か虫プロ系か、どちらの功労ゆえかという質問に答えると、その人のアニメ史観がよく現れる。 もちろん私は、虫プロ系の功労ゆえと評価する側であるが、これは圧倒的に少数派だろう。なにより、東映動画系のスタジオジブリの存在感が巨大だし、年配アニメファンの中には、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)など、東映動画長編全盛期の「マニア」が多く
「WEBアニメスタイル」で有名なスタジオ雄が編集し、2009年12月にキネマ旬報社から出版された『PLUS MADHOUSE 4 りんたろう』という書籍がある。アニメ制作会社マッドハウスに関係する監督をとりあげたシリーズの一冊で、さほど頁数は多くないが、代表作の絵コンテが部分掲載されていたり、りんたろう監督*1本人はもちろん、関係者からも証言を引き出したりと、監督個人の作家性からアニメ史でになった役割まで簡潔に記していく。 そして、その前半に掲載されている監督ロングインタビューに、手塚治虫のアニメ・ダンピング - 法華狼の日記で紹介した杉井ギサブロー監督の発言を別角度から補完する内容があった。 手塚治虫の虫プロへ行った時に高い給料がしはらわれた理由や、当時のアニメ業界における労働環境、さらにはアニメと社会運動の繋がりをうかがわせる、貴重な証言だ。 いくつかのCM制作会社でアニメに関わった後
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