明治六年(1873年)十月に大久保利通、岩倉具視が、西郷隆盛を韓国に特使として派遣する太政大臣三條實美の決定を覆したことから、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが辞表を提出して下野し、彼らに近い官僚・軍人の約六百人が職を辞した(明治六年の政変)のだが、大久保利通は、西郷らが職を辞したわずか四ヶ月後の明治七年(1874年)二月に台湾出兵を計画し、五月に出兵している。教科書などでは大久保が征韓論に反対したのは、国内改革を優先したなどと書かれているのだが、内治を優先する方針であるならば、台湾出兵についても反対でなければ筋が通らない。なぜ、大久保は台湾出兵を行ったのか。今回はその間の事情について書くこととしたい。 明治初期の台湾問題 そもそも明治初期において台湾と日本との間にどのような問題が起きていたのだろうか。木戸孝允の伝記に明治四年(1871年)に那覇港を出帆した宮古島の船が