歴史に関するroseknightのブックマーク (268)

  • GHQが最も嫌った野依秀市の著した政権・大手マスコミ批判の書

    昭和14年刊『支那事変の前途は悲観か楽観か』 前回このカテゴリーで、GHQ焚書点数の最も多い野依秀市の軍部批判の論文を紹介したが、今回は野依の著作の中から、政権批判や大手マスコミ批判の論文を紹介したい。 最初に紹介するのは『支那事変の前途は悲観か楽観か』(GHQ焚書:昭和十四年刊)というで、野依が新聞で発表した支那事変(日中戦争)に関する論説集である。野依は昭和十四年三月七日に発表した「英米の機嫌をとるべきか、それとも叩くべきか」という文の中で、支那事変の前途をかなり悲観的に見ている。 我々から見るならば、何としても、何としても、国内改革を思い切ってやらなければ、この所謂支那事変は乗り切れるものではないと堅く信じているのである。しかも近衛内閣に於いても、平沼内閣に於いても、それをやらぬところを拝見すると、結局、支那事変を軽く観ているからにほかならぬと察するのほかない。我々は毎度申す通りに

    GHQが最も嫌った野依秀市の著した政権・大手マスコミ批判の書
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    roseknight 2021/07/27
    欧米や蔣介石の抗日思想による支那事変の泥沼化は日本的な妥協外交の限界を示したのではないか。そもそも万里の長城を越えたことに問題があるが。後、朝日新聞が戦前から共産主義の影響を受けていたとは驚いた。
  • 中国共産党初の党大会、議論についていけずただ黙り通した毛沢東 100周年の中国共産党、今も隠し通す日本が関わる「設立の謎」 | JBpress (ジェイビープレス)

    (譚 璐美:作家) 7月1日、中国では「中国共産党創立100周年」の記念式典が、北京の天安門広場で盛大に開催された。習近平・国家主席は演説で、中国共産党は「中華民族の偉大な復興のために、歴史書を光り輝かせる偉大な業績を上げた」、「中国共産党がいなければ、新中国はなく、中華民族の偉大な復興もない」として、「強国」という言葉を何度も口にした。 中国共産党は目下9500万人の党員数を誇り、世界最大の政治団体に膨れ上がった。しかし、中国共産党は創立当初のことからして、今も謎だらけなのである。 最初の党全国大会、議事内容も判然とせず 100年前の1921年7月23日頃、上海で第一回中国共産党全国代表大会が開かれた。出席者はわずか13人で、平均年齢は26.4歳。ほぼ半数が現役の大学生だった。出席者はだれも議事録をとっておらず、開催日時も議事内容もあいまい。 開催日時については、近年、ようやく「7月23

    中国共産党初の党大会、議論についていけずただ黙り通した毛沢東 100周年の中国共産党、今も隠し通す日本が関わる「設立の謎」 | JBpress (ジェイビープレス)
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    roseknight 2021/07/14
    陳独秀を始めとした日本留学経験者らの知的蓄積やソヴィエトの金が中共の基盤になった。習近平が史実を書き変えたがるのは党の正統性や民族主義故か?中国における社会主義が何処まで正統を保てるかは分からないな。
  • 江戸幕府の崩壊招いた「災害連鎖」対応に学ぶ教訓

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    江戸幕府の崩壊招いた「災害連鎖」対応に学ぶ教訓
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    roseknight 2021/07/07
    大規模災害が藩による「大政委任論」に繋がった訳か。ただ、国替や屋敷替を求めた収公・下賜は元から行き詰まっていたのでは。藩主や近代以降の皇室と民衆との安心の回路の変化が日本の近世を知る指標だろう。
  • SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト

    サービス終了のお知らせ SankeiBizは、2022年12月26日をもちましてサービスを終了させていただきました。長らくのご愛読、誠にありがとうございました。 産経デジタルがお送りする経済ニュースは「iza! 経済ニュース」でお楽しみください。 このページは5秒後に「iza!経済ニュース」(https://www.iza.ne.jp/economy/)に転送されます。 ページが切り替わらない場合は以下のボタンから「iza! 経済ニュース」へ移動をお願いします。 iza! 経済ニュースへ

    SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト
    roseknight
    roseknight 2021/06/30
    史料に無いことを科学で証明しようとすること自体が間違いか。現代では歴史が玩具にされているように見える。物語の流れを無視したサブカルチャー的な世界観が日本を覆う。ニーチェの「歴史の終わり」を思い出す。
  • 室町時代の日本人はめちゃくちゃ荒っぽかった? 明大教授が語る、ハードボイルドな日本人像

    清水克行の歴史エッセイ『室町は今日もハードボイルド』(新潮社)に取りあげられている中世の日人は、現代の日人像からあまりにかけ離れている。まるで、マンガ『北斗の拳』や映画『マッドマックス』のような世界観のようにもみえる。 農民が武器を手に隣村と戦(いくさ)をしたり、行きかう船から通行料をせしめる「賊」が横行していたり。家族のなかでも、人身売買で人が財産として扱われたり、夫の浮気相手をが仲間を引き連れて襲撃したり。室町時代(1336年〜1493年)の日人は、とかく荒っぽかった。 彼らはなぜ、ハードボイルドだったのか。なにゆえアナーキーでアウトローな生き方をしていたのだろうか。歴史学者で明治大学教授でもある著者に話を聞いた。(土井大輔) 「武士道」からも現代の価値観からもかけ離れた行動 ーー室町時代の人たちには、どのような面白みがあると考えていますか? 清水克行(以下、清水):たとえば、

    室町時代の日本人はめちゃくちゃ荒っぽかった? 明大教授が語る、ハードボイルドな日本人像
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    roseknight 2021/06/27
    御恩と奉公の感覚が室町時代では残っていたのだろうか。後付けの価値観で人身売買等の話は理解出来まい。野性はどの人類にも時代にも通ずるのだが、距離次第で歴史への印象は変わる。表面だけを見ないことだ。
  • 世界トップの「航空思想」を有した日本軍が、太平洋戦争で敗れた理由

    第二次世界大戦を左右した「航空戦力」。世界で最初に機動部隊を創設した日は、「航空思想」において最先端を走っていた。その力は、真珠湾攻撃で存分に発揮されたものの、やがて日軍は苦境に陥っていく。その要因は何だったのか。 ※稿は『歴史街道』2021年7月号の特集「太平洋戦争 空の決戦」から一部抜粋・編集したものです 飛行機は“補助戦力”だった およそ20世紀に入ってから始まった、飛行機の開発。 飛行機の軍事利用が促進されたのは、第一次世界大戦のときである。 開戦の時点では偵察以外の用途がなく、敵国の飛行機とすれ違うときに、パイロットが手を振り合ったりするなど、牧歌的な一面も見られた。しかし、「飛行機が戦力として使えるのではないか」という発想が生まれたことで、状況が変わる。 最初は飛行機からレンガを投げる程度の「攻撃力」だったが、機関銃を積むようになると、飛行機の破壊力が急速に伸びて、大戦中

    世界トップの「航空思想」を有した日本軍が、太平洋戦争で敗れた理由
    roseknight
    roseknight 2021/06/24
    日本の場合、研究は優れていたが開発・生産の点で難があった訳か。民間企業とマクロ視点の無い軍との意思の摩擦は開発の遅さに繋がるのでは。航空中心の発想の無さもあるが、そもそも日本が総力戦に向くかは疑問だ。
  • 「西郷隆盛は西南戦争に勝つ気がなかった」論の意外すぎる根拠とは?

    ダイヤモンド社書籍編集局が、話題の1冊を取り上げ、書き手・作り手の思いや、のメッセージなどを深掘りして紹介する。 だから、この。 ダイヤモンド社の話題の1冊を取り上げ、書き手・作り手の思いや執筆動機、読んでほしい理由を深掘りするインタビュー連載。著者・訳者・デザイナー・編集者など、に関わるさまざまな人たちの「だから、このを書きました」「作りました」をお届けします。連載の詳細・記事一覧はこちら。 バックナンバー一覧 地理とは「地球上の理(ことわり)」である。この指針で現代世界の疑問を解き明かし、ベストセラーとなった『経済は地理から学べ!』。著者は、代々木ゼミナールで「東大地理」を教える実力派、宮路秀作氏。日地理学会企画専門委員会の委員として、大学教員を中心に創設された「地理学のアウトリーチ研究グループ」に参加し、精力的に活動している。2022年から高等学校教育で「地理総合」が必修科

    「西郷隆盛は西南戦争に勝つ気がなかった」論の意外すぎる根拠とは?
    roseknight
    roseknight 2021/06/24
    海路が選ばれなかったことを考えると、西郷隆盛には元々新政府を倒すつもりは無かったのかな。本人は大久保利通の方針には大反対していた筈だが。「自らの時代の役目の終わり」とは何かが少し気になる。
  • 廃藩置県のような大改革が平穏無事に行われたのはなぜか

    封建制度を撤廃できる条件が整うまで 前回の歴史ノートで、明治初期において政府に非常なる危機が何度も起きたことを書いた。当時のわが国の最大の問題は、国内各地は昔と同様に多くの大小各藩独立状態にあり、それぞれが兵力を蓄え、中央進出の機を狙っていた藩が存在した一方で、当時の中央政府に兵力がなかった点にある。 政府としては、版籍奉還後も実質的に存続していた封建的藩体制を廃絶させると同時に、大規模な反乱を鎮圧できるだけの兵力を中央に整えたかったのだが、政府軍を編成するには、倒幕に貢献した薩摩・長州・土佐の三藩の陸軍と、肥前の海軍の力を頼るしかない。しかしながら薩摩藩の島津久光・西郷隆盛や長州藩の毛利敬親に二度にわたり上京を要請したにもかかわらず、なかなかそれが実現しなかったのである。 ところが、明治三年(1870年)十二月に岩倉具視が勅使となって再び上京を要請すると、薩摩・長州両藩ともついに朝命を奉

    廃藩置県のような大改革が平穏無事に行われたのはなぜか
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    roseknight 2021/06/17
    井上馨による藩札贋造問題への強引な取り組みや西郷隆盛の反対派鎮定もあるが、米価のインフレ高による藩財政の悪化がやはり大きい。外債問題がチャラになったことから藩主はある意味利得者だったわけだ。
  • 「東京五輪やっぱり最高!」というマスコミの手のひら返しを警戒すべき歴史的理由

    くぼた・まさき/テレビ情報番組制作、週刊誌記者、新聞記者、月刊誌編集者を経て現在はノンフィクションライターとして週刊誌や月刊誌へ寄稿する傍ら、報道対策アドバイザーとしても活動。これまで200件以上の広報コンサルティングやメディアトレーニング(取材対応トレーニング)を行う。 著書は日政治や企業の広報戦略をテーマにした『スピンドクター "モミ消しのプロ"が駆使する「情報操作」の技術』(講談社α文庫)など。『14階段――検証 新潟少女9年2カ月監禁事件』(小学館)で第12回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。 新刊『潜入 旧統一教会 「解散命令請求」 取材NG最深部の全貌』が発売中。 情報戦の裏側 できれば起きてほしくない「不祥事」だが、起きてしまった後でも正しい広報戦略さえ取れば、傷を最小限に済ませることができる。企業不祥事はもちろん、政治家の選挙戦略、芸能人の不倫ネタまで、あらゆる事

    「東京五輪やっぱり最高!」というマスコミの手のひら返しを警戒すべき歴史的理由
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    roseknight 2021/06/17
    盛り上がりを重視するマスメディアが五輪を持ち上げる可能性は十分にある。成功体験が捏造された背景には戦後の消費主義があるのでは。産業の構造が違う現代では五輪に得は無い。次世代産業へのビジョンを急げ。
  • 鳥羽・伏見の戦いとは何だったのか? 1年半におよぶ戊辰戦争の始まりを歴史家が解説 | AERA dot. (アエラドット)

    鳥羽・伏見の戦いの「勃発の地」を伝える石碑/京都市伏見区(c)朝日新聞社 週刊朝日ムック『歴史道 Vol.15』から 幕末、雄藩の台頭や西欧列強の圧力を何とか凌いできた徳川幕府。一方、旧来の体制をよしとせず、維新回天を目指した薩長を中心とする勢力。慶応三年十月、将軍慶喜は事態を収拾するべく大政奉還するが、新政府は謀略も辞さず、あくまでも武力による討幕を目指した──。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』では戊辰戦争を大特集。今回は、1年5カ月におよぶ戊辰戦争の火ぶたが切られた鳥羽・伏見の戦いの真実に迫る! 【鳥羽・伏見ではいったい何が起きた? 戦いの経過はこちら】 *  *  * 江戸城の留守を預かる勘定奉行小栗忠順たち徳川家首脳部が、市中を騒がす強盗の根城だった薩摩藩三田屋敷を焼き討ちにかけた。それを受け、大坂城内の徳川勢は沸き立つ。その勢いに押された慶喜は薩摩藩討伐の旗印のもと、将兵

    鳥羽・伏見の戦いとは何だったのか? 1年半におよぶ戊辰戦争の始まりを歴史家が解説 | AERA dot. (アエラドット)
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    roseknight 2021/06/16
    乱れた大軍は統制の取れた小軍に劣る。幕府は武器や軍体制で負け、そして仁和寺宮に錦旗を取られたことで外交的敗北を喫した。戦力で優位に立っている時にまともな戦略を立てられない点は今にも通ずるのでは。
  • 台湾を変えた日本人シリーズ:台湾に骨を埋めた明石元二郎

    政府から台湾に派遣された総督は合計で19人を数えた。歴史に名を残した総督も少なくないが、その中で、自らの墓を台湾に作るほど、台湾への深い思いを抱いた人物は、明石元二郎以外にいないだろう。 欧州から台湾へ 日台湾統治で「前期武官総督時代」の最後を飾る第7代台湾総督として赴任した明石元二郎。日露戦争では秘密工作でロシア革命を支援して敵国の背後を揺さぶり、日の勝利の陰の立役者として有名である。 明石元二郎は明石助九郎の次男として1864(元治元)年に福岡藩の大名町で生まれた。陸軍幼年学校を経て、1883(明治16)年陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任じられた。陸軍幼年学校時代の明石は、運動が苦手であったが数学と製図は得意であった。単独行動が多く、協調性が低かったとされ、いたずらをよくしたが、教師や先輩、友人などからは好意を持って見守られたという。このことは陸軍士官学校時代でも変わらず、

    台湾を変えた日本人シリーズ:台湾に骨を埋めた明石元二郎
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    roseknight 2021/06/13
    一つのことに打ち込む気質が台湾の民情把握に役立ったのでは。日月潭水力発電所や嘉南大圳の建設計画や教育、司法の改革を見ると、明石が台湾の全体構図を持っていたように思える。本人には総理になって欲しかった。
  • 日本精神医学の歴史⑥「武家政権・医療の変化・芸能文化」 - まだなにも決まっていない blog

    みなさん、こんにちは、私です。 maedaaaclinic.hatenablog.com の続きになります。 中国からもたらされた仏教、医療、社会制度に習い、 日は独自の発展をしていく。 時代は平安時代 丹波康頼(912-995)が多くの中国医書類をまとめ 「醫心方(いしんほう)」(984)を編集します。 医心方の世界 (新装版): 古代の健康法をたずねて 作者:槇 佐知子 人文書院 Amazon 精神疾患については「巻三風病篇」で 驚悸(動悸)・言語錯乱・癲病・狂病を取り上げ、 風邪(ふうじゃ)による気血バランスの失調を原因とし、 症状別に漢方・鍼灸治療法が詳しく記述された。 中国医書の「小品方」を引用して、 突然発狂した者には「一日中顔に冷水を注ぐ」とあり、 灌水療法も知られていた。 平安中期から後期には国風文化が成熟し 「やまい」や「物の怪」が絵巻物や物語に登場するようになった。

    日本精神医学の歴史⑥「武家政権・医療の変化・芸能文化」 - まだなにも決まっていない blog
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    roseknight 2021/06/12
    精神疾患が物の怪等に例えられた背景にある「物狂」の観念が日本の精神医療の原点なのかな。地方の国医師制度を破壊した鎌倉仏教はそもそも日本人には合わなかったのでは。平安人時代の人の感覚には学ぶ点があるな。
  • 豊臣秀吉が「大坂城より力入れて造った城」の正体

    大坂城は小豆島の石を大量に切り出して造られた 秀吉は天正10(1582)年6月2日の能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議を経て、山城・丹波両国を手に入れると、山崎の天王山に新しく山崎城を築いている。 この山崎城に天守が建てられていたことは吉田兼見の『兼見卿記』にも記されているが、どのような天守だったかは明らかでない。ただ、「天守台」といわれる北側あたりから瓦がみつかっているので、瓦葺きの天守だったことがわかる程度である。 そして、翌天正11(1583)年4月の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ると、同年9月1日から秀吉は大坂城築城にとりかかっている。天守が完成したのは同13年4月のことであった。その後も築城工事は続けられている。 注目されるのは、毛利輝元が臣従の礼をとったため、毛利氏を天下普請に動員できたことで、瀬戸内海の船を利用し、小豆島の石を大量に切り出すことができた点である。

    豊臣秀吉が「大坂城より力入れて造った城」の正体
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    roseknight 2021/06/12
    戦の勝利や各種用事に応じて城を新築した豊臣秀吉、江戸城等の既存の城を根本的に修築した徳川家康と興味深い。聚楽第が残っていればまだ豊臣政権が長続きしたのでは。城大工が彼らの力源だったことは間違いない。
  • 伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦 - 京都案内  こうへいブログ  

    激戦地 伏見城 慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨戦とされる激戦地になっていました。 徳川家康がその生涯で最も信頼したという老臣・鳥居元忠(もとただ)。 その元忠を総司令として伏見城を占拠する東軍、それに対して、襲撃したのは石田三成に統率された西軍でした。 つまりこの時、伏見城を占拠していたのは家康であり、秀吉の臣下だった三成が攻撃を仕掛ける側だったのです。 今後、守備の要となるであろう伏見城を重要視していた家康は、極めて有能な家臣たちを元忠の補佐として宛てがっていました。 内藤家長と、その息子元長、さらに松平家忠、松平近正といった超一級クラスの武人を選んで防衛にあたらせ、万全の体制でそなえていたのです。 友よ 家康が京を離れる前夜、伏見城で家康と元忠は、二人でしみじみと酒を酌み交わしていました。 この時、元忠は顔では笑いながらも、「軍に存

    伏見城  鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦 - 京都案内  こうへいブログ  
    roseknight
    roseknight 2021/06/12
    他者の気持ちを読み取れない点が鳥居元忠の一番の敗因では。謀略への弱さ等を考慮すると、本人は司令官の立場に向いていなかったと思う。徳川家康自身が伏見の守りに当たれば、歴史は大きく変わっただろう。
  • 徳川慶喜はなぜ敵役になったのか 情けを知らぬ「独公」の強さと弱さ

    徳川慶喜についての一般的な認識は、「徳川15代目、最後の将軍」「大政奉還をした人」の2つではないだろうか。それを思うと、放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で草なぎ剛が好演する徳川慶喜は、幼少時から英邁と評判で決断力がある意外な姿に見えているかもしれない。ただ一方で、鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡した「臆病者」という誹りを受け、歴史的には評価の分かれる人物だった。大政奉還という歴史の転換点をつくりながら、なぜ彼は敵役になり果てたのか、歴史学者の家近良樹氏が解説する。 * * * 安政5年(1858年)に幕府がアメリカをはじめ5か国と結んだ通商条約は朝廷の勅許を得られていなかった。慶応元年(1865年)10月4日、開国派の慶喜と攘夷派の公卿が出席した朝議(朝廷での評議)は懸案だったその条約勅許問題を巡って紛糾し、夜も更けた。そこで公卿たちが散会しようとすると、慶喜がこう畳みかけて凄んだ。 「この

    徳川慶喜はなぜ敵役になったのか 情けを知らぬ「独公」の強さと弱さ
    roseknight
    roseknight 2021/06/10
    我が道を行こうとする性格が徳川慶喜にあったのだろうか。やはり、本人は様々なコネが絡む政治には向かなかったのでは。それでもリーダーシップの強さには敬服する。彼の哲学に学ぶべき点は少なくないと思う。
  • 天安門事件から32年…あの時、中国の民主化運動が「失敗」に終わった4つの理由(安田 峰俊) @moneygendai

    今からちょうど32年前の1989年6月4日、北京の天安門広場をはじめ中国各地で、数百万人の若者が民主化を求めて声を上げた。世に言う「天安門事件」、中国では「八九六四」と呼ばれる出来事だ。しかし国内各所に波及した運動はことごとく弾圧され、中国では今日まで共産党による一党独裁が続いている。 はたして、天安門事件はなぜ失敗したのだろうか? 大宅壮一ノンフィクション賞&城山三郎賞を受賞した『八九六四 完全版』から、当時の学生リーダーへのインタビューを含む論考を紹介しよう。 天安門の運動とヒマワリ学運 王丹とウアルカイシは台湾に来てから、往年の彼らの運命を狂わせた事件とそっくりな出来事と思わぬ縁を結んでいる。奇しくも、六四天安門事件からちょうど25年目にあたる春のことである。 ――ヒマワリ学運。 2014年3月に台北で発生した学生運動だ。当時、総統の馬英九が中国と結ぼうとしていた中台サービス貿易協定

    天安門事件から32年…あの時、中国の民主化運動が「失敗」に終わった4つの理由(安田 峰俊) @moneygendai
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    roseknight 2021/06/04
    相手に圧力をかけること自体が目的化したことが天安門での民主派の敗因か。自分らを「正義」に置く姿勢が戦略を誤る要因なのでは。あの事件が武力弾圧を憚らせて大衆運動を助けたおは皮肉だ。官民の対話が必要かな。
  • 政界・警察・芸能界の「守り神」と呼ばれた男、寺尾文孝の“60年史”(伊藤 博敏) @gendai_biz

    寺尾氏の著書『闇の盾 政界・警察・芸能界の守り神と呼ばれた男』の帯文の「書に登場する主な人物」に、次の名が並ぶ。 後藤忠政・田中角栄・周防郁雄・尾上縫・松崎明・田中森一・小林旭・中内功・則定衛・池田保次・中江滋樹・佐々淳行・宅見勝・浜田幸一・羽賀研二・許永中・高橋治則…… 政治家、元官僚、労組委員長、仕手、企業経営者、芸能人、暴力団組長と、その人脈は果てしなく広い。 「寺尾文孝」という男 高度経済成長期のとば口ともいえる1960年、長野県の高校を卒業して警視庁に入庁した寺尾氏は、5年半で見切りを付け、民間に転じてブローカーとなり、秦野章元法相と出会って秘書となったのをきっかけに、秦野氏に持ち込まれるトラブルの処理係として頭角を現わし、「表」「裏」で人脈を築く。 ここまでなら、大物政治家の周辺に数多くいる私設秘書など政界周辺者でしかない。寺尾氏の凄みは、学歴のハンデや中途半端な職歴を補う、

    政界・警察・芸能界の「守り神」と呼ばれた男、寺尾文孝の“60年史”(伊藤 博敏) @gendai_biz
    roseknight
    roseknight 2021/06/03
    警視庁に見切りをつけたことを見ると、寺尾氏には定型の慣習に従わない傾向があると思われる。これがバブル崩壊からの再出発の一因であり、トラブル処理係としての実力に繋がるのでは。彼の直観に習いたい。
  • 新国家建設の中心となった明治天皇 全国を回る「巡幸」で見せた洋装の真意 | AERA dot. (アエラドット)

    六大巡幸(『歴史道 Vol. 15』から) 明治天皇。『明治天皇御伝』より(国立国会図書館所蔵) 日が近代化に向けて大きく動き出した明治時代。明治国家の「建国の父祖」として君臨していたのが明治天皇である。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』では、その明治天皇を特集。大日帝国憲法の発布や日清・日露戦争の勝利など、西欧列強に負けない国家をけん引する役割を担った人物の真実とは――。 【明治天皇のご真影】 *  *  * 明治元年(慶応四、1868)三月十四日、五箇条の御誓文の儀式が行われた。木戸孝允の意見によって明治天皇が公家・大名を率いて神に誓う形式となった。天皇は政治の中心に存在するのだから、群臣を率いて儀式を行うべきであった。八月二十七日の即位式では、儀式が行われる紫宸殿の前に、つまり天皇の正面に地球儀を置く予定であった。列強に負けない国造りの中心に天皇は存在する。 とはいえ、大久

    新国家建設の中心となった明治天皇 全国を回る「巡幸」で見せた洋装の真意 | AERA dot. (アエラドット)
    roseknight
    roseknight 2021/06/03
    皇室の政治化が近代日本の大きな特徴であった。欧化政策に基づく洋装化や輿論と天皇の一体化を見ると、皇室が民意の体現者にされているように思える。明治時代は日本が近世中国社会のようになっていった時代だろう。
  • 占領期最大の恐怖「公職追放」:GHQに最も抵抗した石橋湛山蔵相(11)

    自民党初の総裁選に勝ったが、総理大臣に在任65日で思わぬ病気のため退陣し、その潔い引き際が今も語り継がれる石橋湛山(たんざん)。彼は戦前、軍部とも闘い、言論弾圧を受けた自由主義者で、ジャーナリストである。終戦の翌年に第1次吉田茂内閣の大蔵大臣となったが、1年後にGHQの指令で戦前の言論活動を理由に公職追放された。数多いパージも中でも最大のミステリーとされる「湛山追放」を4回にわたり考証する。 「私は有髪の僧」 石橋湛山は、日蓮宗僧侶の父(後に日蓮宗総山久遠寺の法主)の郷里、山梨県で育った。中学を卒業するころ、幼名(省三)から湛山と改める。山梨の日蓮宗の寺院には、子弟の名に「湛」を付ける習わしがあったという。 中学の校長が、札幌農学校でクラーク博士の薫陶を受け、熱心なキリスト教徒だったことから、その影響も受けた。石橋は枕元に、いつも日蓮遺文集と聖書を置いていた。石橋は後に回想記で、「私は今

    占領期最大の恐怖「公職追放」:GHQに最も抵抗した石橋湛山蔵相(11)
    roseknight
    roseknight 2021/06/02
    戦前から一貫して内需を安定させようとした石橋湛山に学ぶ点は多いだろう。特に終戦処理費の削減を達成した実績は計り知れない。GHQの連中や日本政界は経済をどれ程理解していたのかな。積極的財政を彼に習え。
  • 本能寺の変 光秀vs秀吉の派閥争いがクーデターに|みがく経営|日経BizGate

    記事保存 日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。 天正10年(1582年)6月2日早朝、明智光秀は京都・能寺に織田信長を奇襲した。「能寺の変」だ。日史のなかでも真相が謎に包まれている出来事の一つだが、最新研究では、織田軍団内における重臣間の派閥抗争の影響が光秀のクーデターに結びついたと指摘されている。いわば役員間の争いが、巡り巡ってクーデターを引き起こし成功した形だ。現代の企業社会にも通じるガバナンス(統治)の死角を藤田達生・三重大副学長に聞いた。 「トップとの距離」先行する光秀、巻き返す秀吉 ――最新編著の「織田政権と能寺の変」(塙書房)では羽柴(豊臣)秀吉と光秀の派閥争い、絶対的なリーダーとみられていた信長も軍団長クラスの相互バランスを利用して統一政策を進めていった経緯を研究しています。 「織田政権のパワーの源泉は

    本能寺の変 光秀vs秀吉の派閥争いがクーデターに|みがく経営|日経BizGate
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    roseknight 2021/06/02
    機内を担当した光秀と近習や若手らとの齟齬や足利幕府の残影が本能寺の変の一因か。光秀は信長の専制化に内心反発していたのかも知れない。加えて豊臣秀吉にも信長に似た点がある。保守と革新の衝突が事の本質か。