・それでも<わるい馬鹿>を自覚へ導くほどの親切は持ち合わせていない 仮に、ある何事かを分からないこと/人を馬鹿と呼ぶとすれば、世の中にはいい馬鹿とわるい馬鹿がある/いる、などと言ってみたいのだ。 <いい馬鹿>が分からないことへの理解を、留保することはあっても、指向し続ける一方で、<わるい馬鹿>は理解を放棄する。私たちがその姿を見ることもないところで放棄された理解については、どの道知らない以上、何を感じることもなく済ませられるのに、<その姿>はしばしば私たちの眼前にあらわれて苛々させることになる。書物やテレビの中で人が<わるい馬鹿>っぷりを存分に発揮している姿を目にするのも疲れさせられるものだけれど、まして、私たちがある何事かを伝えようとした人が<わるい馬鹿>になれば、それまで彼/彼女に投げかけられた私たちの言葉はたちまち犬死にに終わるしかなくなるのだから、たとえば金井美恵子があるエッセイで