江戸末期の弘化3年~4年にかけて惹起した『弘化度の法難』は、法難が惹起した地名から『猫沢法難』とも呼ばれている法難です。(また『猫沢問答』とも呼ばれます)。当時の柚野(ゆの)村(現静岡県芝川町)には、大石寺末の蓮成寺がありその近辺に一致派(日蓮宗)の妙覚寺・光徳寺・円恵寺等がありました。事の発端は、弘化3年1月22日に蓮成寺檀徒の政兵衛の母の葬儀に光徳寺の日逢が参列したことで葬儀の導師をしていた蓮成寺留守居の諦妙師等と口論になり(日逢が大石寺をキリシタンと同じと暴言を吐いたため)村役人も立ち会っ末に日逢がわび状を書く結果になりました。この一件を日逢等日蓮宗側は遺恨に思い日々奸策を巡らせます。当時、隣村の猫沢村では信徒離れで廃寺同然だった日蓮宗・妙覚寺の復興の計画があり、日蓮宗では強力な布教師として定評があった円恵寺・日寿を招聘しました。日寿は以前より折あるごとに「大石寺は外道である」「片輪