タグ

関連タグで絞り込む (0)

  • 関連タグはありません

タグの絞り込みを解除

ララビアータに関するsphynxのブックマーク (24)

  • ララビアータ:死んだらどうなるの? - livedoor Blog(ブログ)

    さる受験予備校が出版している小学生向けの(あるいはその父兄向けの)『ドリーム・ナヴィ』という雑誌がある。そこに、子供の難問に対して二人づつの哲学者が答えるというコラムがあって、毎月連載されている。いままで、すでに5回くらい続いているが、それぞれの執筆者の工夫がなかなかおもしろく読ませる。私自身も執筆の依頼をいただいたので、この企画を知ったわけだが、答える方もチャレンジングであるが、それ以上に、その都度の「難問」を考えるのが難問だと思う。「子供の難問」なのだから、必ずしも哲学的なものではないが、哲学者はどうせ暇人だから、答えさせるという企画は悪いものじゃない。とはいえ、子供からこんな難問が出されたら、それに対してどう答えるべきか、大人はだれしも自分なりに考えてみてもいいのではないか? どんな答え方をするにせよ、その内容が子供の記憶に残ることはあるまいが、少なくとも真剣に答えようとした大人の誠

  • ララビアータ:スピノザ的洞察 - livedoor Blog(ブログ)

    デカルトとスピノザほど違ったタイプの哲学者はいない、と言えるほど両者は違っている。 スピノザは『知性改善論』で、よく知られたデカルト批判を展開している。真なる認識に達するために、もし確実な方法が必要なら、それと同様にハンマーを造るのには、ハンマーを鍛える道具がなくてはならず、その道具を造るのにまた別の道具が必要となり…という具合で、ハンマーを造ることは不可能であるということになってしまう、というのである。しかし実際には、こんな「論証」によってハンマーを造ることの不可能性が証明できたわけではない。何か手近にある道具を使って、別の道具を造ることができ、それを使ってさらに手持ちの道具を増やし、ついにはハンマーをつくることができるようになるように、真理を探求するにも、低い段階から始めて、それを使いながらさらに確実な広範な知識を手にすることができる、というのである。 ここにはスピノザの最初の洞察が瞥

  • ララビアータ:アレントと立法 - livedoor Blog(ブログ)

    アレントの『人間の条件』第五章の一節 ソクラテス学派がギリシア人の目から見れば前政治的であった立法のような活動力に目を向けたのは、政治と活動に反抗しようとしたためである。ソクラテス学派にとって、律法と投票による決定の執行こそ、もっとも正統的な政治活動力であった。というのも、立法のような活動力の場合、人々は「職人のようにふるまう」からである。…しかし、正確に言えば、これはもはや――というより、依然として活動ではなく、製作である。そして、ソクラテス学派が活動よりも製作を好んだのは、製作の方が活動よりも信頼できるからである。人間が、その活動能力を、活動の空虚さ、活動の無制限性、活動結果の不確実性もろとも、投げ捨ててしまいさえすれば、それだけで人間事象のもろさを救うことができる。ソクラテス学派が言いたかったのはそういうことであったように思われる。p−315 ここでのアレントの主張の趣旨は明らかだ。

  • ララビアータ:丸山真男の「福沢諭吉論」 - livedoor Blog(ブログ)

    ゼミで丸山真男の「福沢諭吉の哲学」を取り上げたついでに、梅克己の「マルクス主義と近代政治学―丸山真男の立場を中心として―」と、鎌田哲哉氏の「丸山真男論」を久しぶりに読み返してみた。以前に読んだときには読み飛ばしていた所もあり、あらためて深い感銘を受けたが、いまでは以前より両論に対する私自身の批判点もはっきりしてきたので、その点についてノートしておきたい。ついでに述べれば、梅論文は、丸山自身が唯一「見当違いがない」(『戦後日の革新思想』p−394)と認めたものであり、鎌田論文は1998年「群像新人文学賞」の受賞作品である。(この作品を選出した当時の『群像』の見識と、何より鎌田氏を応募させる気にさせることができた柄谷氏をはじめとする選考委員の面々は、栄誉に値すると思う。) 梅の丸山論は、蠟山政道のマルクス主義批判から始まる。――史的唯物論の立場からは、政治の自律性が否定され、したがって

  • ララビアータ:共有されるべき学問的伝統―吉本隆明と柄谷行人 - livedoor Blog(ブログ)

    現代日で指導的な役割を演じてきた二人に関する(合田正人『吉隆明と柄谷行人』)を読みかけていたが、少々引っかかるところがあるので特記しておきたい。 両氏の思想史的意義について論じるのは別の機会に譲りたいが、私が引っかかりを感じたのは、意味や言語の理論に関わる部分についてである。ソシュールやフッサールの意味の理論に比べて、フレーゲに始まる「言語論的転回」をどう捉えるにせよ、その基が共有されないと、非常に瑣末なところで議論が右往左往してしまう。たとえば、デリダとサールの間で何か論争がおこなわれたことがあるが、デリダの標的になったのがフレーゲに始まる言語哲学の流ではなく、オースティンの語用論的研究のさらに末端に位置するサールであったことはそのひとつである。彼らの論点の細部がどのようであったとしても、フォースの理論にはセンス(Sinn)の理論が先んじなければならないことは、フレーゲの基

  • ララビアータ:暴力について - livedoor Blog(ブログ)

    内田樹氏は、『ためらいの倫理学』の中で、「私は戦争について語りたくないし、何らかの「立場」も取りたくない」(p−18)と述べている。それは、NATOによるユーゴ空爆に対して、スーザン・ソンタグがきっぱりと支持を表明したことに対する批評の言葉である。氏の批評の中には、耳を傾けるべき重要な論点がいくつか含まれている。たとえば「現場を直接経験した、または目撃した人間には、それについて語り、判断すべき何らかの特権的資格がある」かのように言いたて、その体験者でない者たちの言説を抑圧することは、許されないといった論点である。 しかし、内田氏の主張はそれにとどまらない。たとえば、次のような記述が特徴的である。 「誰か」が戦争を始めた。「誰か」が戦争を終わらせるべきだ。問題は「誰か」を特定することだというロジック…このあまりに分かりやすい図式には一つだけ欠点がある。それは「主体」たちは、絶対に自分が「邪悪

  • ララビアータ:原発ジプシー - livedoor Blog(ブログ)

    堀江邦夫という方の『原発ジプシー』(1979)というがある。今から30年以上前に刊行されているもので、堀江氏がみずから下請け労働者として原発作業に潜入し、その現場の実態をレポートしたルポルタージュである。高度経済成長のただ中、その裏側で厳しく危険な下請け労働がそれを支えていることを克明に記録したものだ。 このが出版された頃、私は堀江さんを個人的にいささか応援したことがあった。どういうご縁であったか正確には覚えていないが、おそらく亡くなった母の後輩か何かのつてであったと思う。氏のお話では、このを出版した頃から、ご自宅に頻々と脅しの電話が入るようになったということである。「家族の命はないと思え」とか、「子どもがどこかで交通事故に遭うぞ」などいうたぐいの電話である。市民個人が気で大きな権力に挑もうとするとき、どんな目に遭うのか、我が国の憲法が保証しているはずの表現の自由が、現実にどの程度

  • ララビアータ:東京消防庁の顔 - livedoor Blog(ブログ)

    原発の爆走を止めようと、多くの人が必死で働いているものと思われる。我々は固唾をのんでそれを見守りながら祈るだけだ。 しかし今まで、テレビに我々が見ていたのは、政治家やエリート役人と、話し方や態度物腰はもちろん、顔つきまでよく似た、あまり柄の良くない人々ばかりであった。彼らはみな等しく、国民をよほどの愚者と侮っているのか、見え透いた嘘を繰り返し、「国民は冷静に行動してください」と繰り返すばかりで、それを言う人が不安で青ざめているものだから、我々はかえって不安に陥るていのものである。果たして我々は、正しい情報を与えたら、たちまちパニックに陥るほどの愚民なのであろうか? むしろ、我々には正しい情報を伝えずに、「原発は安全だ」とばかり言いふらしたあげく、いざとなったら海外メディアも驚くほど後手を引いてばかりいる東京電力幹部たちをはじめとするエリートたちの方こそ、またとないくらいに愚昧ではないのか

  • ララビアータ:クエ - livedoor Blog(ブログ)

    旧い友人たちと久しぶりに会ってクエ鍋をべた。その際、最近の携帯・入試事件が話題になった。私自身「入試委員」というものを仰せつかっているが、私自身の考えを言えば、入試であれ何であれ不正はつきものだ。まったくゼロにすることなどできない。完全にゼロにするための労力を費やすより、まあ少しくらいの不正は当たり前として認識しておく方がいいというものだ。1%くらいの不正入学があっても、大勢には影響するはずがない。(そもそも私としては、全てを抽選にする方がいいと思っている。)不正をゼロにするために、どれほどのコストと労力が不毛に費やされねばならないだろうか? 私のように年を重ねてくると、少々の嘘は許されるものである。現役バリバリの人たちは競争社会の中で争っているから、嘘をつくことは原則として許されない。それはまずアンフェアで非紳士的な振る舞いと見なされて当然である。しかし、おおかた仕事からリタイアしたり

  • ララビアータ:大澤真幸・宮台真司両氏の「正義論」 - livedoor Blog(ブログ)

    大澤真幸・宮台真司両氏による『「正義」について論じます』を興味深く読んだ。共感するところも多く、啓発される点もたくさんある読みごたえのある一冊に仕上がっている。さすがに当代の社会学を代表する俊秀だけあると敬服する次第。 ただ、いくらか気にかかる疑問点が残ったので、それについてメモしておこう。 宮台氏は「ミメーシス」(感染的模倣)という概念を練り直して、現代に生かそうとしている。なかなか興味深い試みと言えよう。「心底すごい人思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、はじめて理屈でなく気持ちが動く」(p−80)というものである。 宮台氏のミメーシスは、「父親のようになりたい」という模倣(象徴的同一化)と「兄弟のようになりたい」という模倣(想像的同一化)とのいずれに近いのであろうか? 後者は、双対的ライヴァル関係、相互模倣関係からのっぴきならぬ敵対的関係の袋小路

  • ララビアータ:ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』 - livedoor Blog(ブログ)

    久しぶりにベンヤミンを読み返した。『歴史哲学テーゼ』は以前にも何度も読んだことがあったが、難解でいまひとつピンとこない所が多かった。今回、意外に腑に落ちるものだということが理解できたので、その点をノートしておこう。 まず、有名なチェス・ロボットを陰で動かしている小人の話。それが神学だという。これが、これまでよく理解できていなかった。それは、「神学」を何かエルンスト・ブロッホの神学のようなものと考えていたからである。ブロッホが革命的神学に求めるものは、せいぜいのところノスタルジーにすぎない。だからブロッホが取り上げている対象は、過去の神学的事象、たとえばトマス・ミュンツァーなどである。 しかしベンヤミンの神学は、もっとアクテュアルなものであり、現実に働く力である。ベンヤミンが研究対象に据えるのは、神学ではなく、はるかに世俗的なもの、パリの風俗とか、子供の遊びとか、映画ファッションなどである

  • ララビアータ:マルクス、トクヴィル、フローベール - livedoor Blog(ブログ)

    史的唯物論における「下部構造」を、フロイト的無意識として解釈することが生産的であるように思われる。その為の具体的試みとして、政治的無意識を論じたテクストを比較検討してみた。 さて、マルクスによれば、政治はそのスローガンをしばしば古い歴史の中から借り受けるものである。目の前に繰り広げられる事件を、当事者は適切に表現する言語を未だ手にしていないことが多いので、古い事例になぞらえて理解せざるを得ないからだ。これをマルクスは、新しい外国語を憶える初心者が、それを使い慣れた母国語にいちいち翻訳して理解することに例えている(岩波文庫版p−18)。それゆえ、新しい文脈における新しい意味は、古い歴史やそのスローガンによって抑圧されることになる。かくて1789年の革命が、ローマ共和国の英雄たちの仮面をまとい、ナポレオンをシーザーとして登場させるとすれば、1848年の二月革命は、フランス大革命を一段と矮小にさ

  • ララビアータ:恩師の言葉 - livedoor Blog(ブログ)

    先日、花井一典氏の思い出について書いたおり、恩師に対する関係の理解の違いが、二人の齟齬のきっかけとなったことに言及して、私は次のように記した。 恩師に対する敬愛は、何かもっとつつましく秘められた形をとるものであると、私には感じられた この点について、以前、私の亡き恩師大森荘蔵先生について『文学界』(2004年12月号)に書いたことがある。市販された雑誌に掲載された文章であるから、全文を再録することはためらわれるが、今では古書店で探す以外に購入が難しいものであるから、道義上許されることと思う。興味がある方は、以下参考にしていただきたい。 「恩師の言葉」 大森先生は私の恩師である。以前、拙著で先生に言及するさい、故人の名には敬称をつけないという慣行から、やむを得ず敬称を略したが、まことに心苦しく感じた事があるので、ここでは大森先生と呼ばせていただく(もっとも生前は、先生のことをただ「大森さん」

  • ララビアータ:言語の起源 - livedoor Blog(ブログ)

    言語の起源はどんなものであったのだろうか、は我々の想像力を刺激するテーマだが、決着をつけるような証拠が得られるような見込みのない、いたって思弁的な問題にとどまるだろう。しかし、プラトンの対話編にしばしば登場するミュトスにも、まったく意味がないとは言えないように、かかる思弁にもそれなりの意味はある。それを語りだすミュトスがどのようなものであれ、それらは言語をいかなるものと現に見なしているか、人間をいかなる存在と見ようとしているかなどを、大雑把に総覧するに役立つからである。 言語が極めて有用なものだからといって、それが有用性のために発明されたと考えるようなことはできない。それは人間が種として生存するための効用(survival value)によって、進化論的に説明することも期待薄である。そもそも我々は、進化論が達成した成果に幻惑されるあまり、生存のために効用を一元的な説明原理であるかのように考

  • ララビアータ:花井一典氏の思ひ出 - livedoor Blog(ブログ)

    北大の旧友からの電話で、花井一典氏の急逝を知らされた。24日に北大文学部でお別れの会があった。北大へは、ほぼ20年ぶりである。 花井氏(以下敬称略)は、知る人ぞ知る中世・古代哲学者である。わたくしとは大学同期で、言葉に尽くせないほど彼にはお世話になったのだが、ここ15年ほどはほぼ絶交状態が続いていた。どうしてこんなことになってしまったのだろうか? 花井は、天才的な語学力とたぐいまれな学識にもかかわらず、人自身には全くそんな自覚は思いもよらないものだった。それは、彼が言語と思想の当の深みについてあまりにも通暁していたために、自分の学識を、それに比してごく控え目なものと認識していたからである。 彼は格的な学者によくある偏屈さのために、世渡りが器用と言えるものではなかった。そのためか、彼は就職の面でも他の同僚よりずっと不運であったと思う。花井の恩師であった斉藤忍随先生が急逝されたことも(1

  • ララビアータ:保護責任者遺棄致死? - livedoor Blog(ブログ)

    覚せい剤をパートナーに投与して異常をきたしながら、救急車を呼ぶこともなく死に至らしめたタレントの事件については、うんざりするほど報道されているので、知らない人はいないだろう。この事件の悪質性――証拠隠滅や他人への責任転嫁、不合理な言い逃れなど著しい反倫理性を考慮すれば、ほとんど殺人にも等しい非難に値すると見る人も多いだろう。2年6カ月というあまりにも軽い量刑には、遺族ならずとも意外に感じるに違いない。実際、私自身もそれに近い印象を持った。 しかし裁判員は、専門医師の間でも、被害者を救命できる可能性の判断が大きく分かれた点を重視して、遺棄致死罪を認定しなかった。これは、裁判員たちが感情に流されず、あくまで証拠に基づいて理性的に判断したことを示している。この範例は、裁判員制度が定着してゆく歴史において、記念すべきものとして記憶されることだろう。その歴史的意義は決して小さなものではない。 厳しい

  • ララビアータ:保守主義 追補 - livedoor Blog(ブログ)

    むかし、エドモンド・バークの『フランス革命の考察』を読んだ時、国王の支配が人民の総意に基づくものではなく、単に法と伝統にのみ基づくものであることが記されてあるのを見て、目からうろこが落ちる思いをしたものである。法の支配が、人民の総意という民主的原理とは違うことがあるということである。 わたくしの保守主義は、他の一般の保守主義者とい違うのみならず、もっての他のものとさえ映るかもしれない。保守主義によって革命や革命的行動を正当化する形になっているからである。 ここで考慮すべきは、バークの祖国と違って、我が国の政治的エートスには、保守主義的伝統が決定的に欠如している点である。そのため、保守主義が、何であれ現在の支配体制と実定的制度にしがみつくことと混同されてしまう。我が国では、政治支配を総体として合理化したり正当化する論理が発達しにくかった。そのような問いや論理をくじくものこそ、実は「天皇制」

  • ララビアータ:左翼的政治 - livedoor Blog(ブログ)

    白井聡氏の『物質の蜂起をめざして』を読んだ。『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)以来二冊目である。どちらの著作も面白く啓発的であるが、詳しい検討はまたの機会として、そこで検討されていたシャンタル・ムフの「ラディカル・デモクラシー」の主張について考えてみたい。 カール・シュミットが民主主義の質を被治者の同一性に見たのと違って、白井氏によれば、ムフは多元性を積極的な価値として民主主義の根幹に据えようとする(p−192〜)。この点で、ムフは自由主義の伝統に立つと言えよう。アレントやハーバーマスにおいても同様な立論が見られる。このような立場では、問題はこの多元性を維持するための必須の制約条件を求めることとなろう。あまりに「破壊的」な立場は、討議の空間そのものを棄損する恐れがあろうから、無制限の寛容は認めがたいからである。 このような多元主義(自由主義)と民主主義を結ぶ要は、討議における合意の形

  • ララビアータ:村上春樹氏の『風の歌を聴け』 - livedoor Blog(ブログ)

    ゼミの学生からの希望で、村上春樹氏の『風の歌を聴け』を読むことになった。私はまだ彼の小説を一つも読んだことがないので、何の予備知識もなくこの小説を読んだ。もちろん、若い学生諸君がこの小説をどのように読んでいるのだろうか、興味もあった。 「主人公の女が妊娠中絶しますよね? あれどう思いました?」と私が、この小説を取り上げることを希望した学生に聞いてみると、「えっ!そんなところありました?」と驚く(!)。この小説は、ご存じのようにこれといった事件が起らない小説だ。その中でほとんど唯一と言っていいような事件が女の妊娠中絶である。その中心の筋さえも気づかないで、どうしてこの小説の愛読者になれるのであろうか?私のような古いタイプの小説愛好家にとっては、なんとも不思議である。以下、私の読後感想を思いつくままに書きつけておこう。 小説は、1970年8月8日から8月26日まで19日間に起こった事件からなる

  • ララビアータ:沖縄基地 - livedoor Blog(ブログ)

    普天間基地の県外移転を目指した鳩山内閣の方針は、どうやら完全に挫折しつつあるようである。 沖縄住民の現状を考えても、韓国やフィリピンの米軍基地や世界的な米軍再編の状況から見ても、素人的に見る限りは情理ともにそろった方針と見えたものが、どうしてかくも実現困難なのか、ちょっと考えてみたい。思えば、これほど素人の感情と「専門家」の判断にずれが生じたこともまれである。この問題で、素人は何ゆえそれほどまでに愚かだったのか?愚民ゆえの愚かさであろうか?大いにありそうなことではある。それが証拠に、実際にアパルトヘイトの中で暮らす沖縄住民以外は、今や賢明にも心を入れ替えて、ほとんど「専門家」の説得を受け入れたように見える。総選挙の圧勝とその公約にもかかわらず、マスコミは繰り返し金切り声を上げてこの公約を蹂躙せよと政府に迫ったし、それを受けて、国民の与論も最近は「県内移設」やむなしとするものが多数を占めてい