いまや押しも押されもせぬ人気芸人として、お茶の間に笑いを届け続ける明石家さんま氏。しかし、『オレたちひょうきん族』でプロデューサーを務めていた横澤彪氏によると、大阪時代の彼の評価は「非常に低かった」という。では、いったいどのようにして支持を集めたのだろうか。 ここでは明石家さんま研究家のエムカク氏の著書『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ』(新潮社)の一部を抜粋。関係者の証言を交えながら飛躍のきっかけを振り返る。(全2回の1回目/後編を読む) ◆◆◆ “漫談”から“雑談”へ―“笑わせ屋”として さんまは、テレビやラジオの仕事でどんなに忙しくなろうとも、毎年200日以上、吉本興業が運営する花月劇場(なんば花月、うめだ花月、京都花月)の舞台に出演する努力を続けていた。吉本興業がダブルブッキングをしてしまったときなどは、仕方なしに仲間の芸人に代演を頼むこともあっ
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