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2008年9月17日のブックマーク (5件)

  • 池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(3)第3章「社会主義との闘い」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    PHP新書 2008年9月 前半は社会主義経済体制下では、市場が存在しないので、価格メカニズムを通して資源を適正配分することが困難であることがいわれる。 知識人は世界どこでも左翼的であるが、それは彼らは合理的であるので、自然科学によって自然が操作可能になってように、社会科学によって社会を合理的に操作できると思いこんだからであると池田氏はいう。 理論的には計画経済のもとでも、適正配分は可能であるはずである。しかし、そのためには経済全体の目標を定めなければならない。しかし、すべての知識と情報を単一のセンターに集めることは不可能であるという理由で、それは挫折した。結果的には、社会主義社会での実験の失敗が、市場経済の効率性、それが膨大な計算を自律分散的におこなっていることを明らかにした、と池田氏はいう。理論の成否はここでも実験により試されねばならなかったのである、と。 社会が単純であれば、計画経済

    池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(3)第3章「社会主義との闘い」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
  • 池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(2)第2章「ハイエク対ケインズ」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    PHP新書 2008年9月 この章は大変面白かった。一言でいえば、ケインズは政治家で、有名な(しかし誰も読んでいない)「雇用、利子、貨幣の一般理論」は政治パンフレットであり、ケインズはまず結論を決め、その結論にあうように「一般理論」を書いたのだといっている。わたくしは経済学の分野に疎いので、ここで池田氏が書いていることがどの程度一般的にいわれていることなのか、どの程度が池田氏の創見なのかを判断できないが、この部分を読んだだけでも、書を読んだ価値があると思った。 ここから直ちに導かれるのは、それでは万古不易の経済学というのはあるのだろうか? それともあらゆる経済学の論文というのは、それぞれの時局に対応した政治パンフレットなのだろうか?、という疑問である。書によれば、ケインズは、アダム・スミスのみを万古不易の学問としての経済学を書いたひととしていて、それ以外の経済学者はみなその時々の状

    池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(2)第2章「ハイエク対ケインズ」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
  • 池田信夫「ハイエク 知識社会の自由主義」(1)第一章「帝国末期のウィーン」  - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    PHP新書 2008年9月 ハイエクというひとは前から気になっていたのだが、書を読んで、以前からの疑問であったハイエクとポパーの関係、ハイエクとフリードマンらシカゴ学派との関係について一つの視座を手にすることができた。 ハイエクのことが気になった最初はポパーの自伝の「ほとんど一年後、途方にくれ恐るべき意気消沈におちっていたとき、私は戦時中接触を失ったわが友エルンスト・ゴンブリヒのイギリスの住所を、ふとしたことから知った。きわめて気前よく援助を与えてくれたハイエク(彼とはこれまで数度しか会ったことがないので、私は彼をわずらわすのに気がひけた)と一緒になって、ゴンブリヒは出版社を見つけてくれた。その救援は測りしれぬほど大きかった。この両人は私の命を救ってくれたのだと私は感じた。そして今なお私はそう感じている。」「それから間もなく―ヨーロッパでの戦争が最終段階にあったとき―ハイエクの名で発信さ

  • マイケル・オーウェンの遅い挫折

  • ルイジ・ルケーニ - Wikipedia

    ルイジ・ルケーニ ルイジ・ルケーニ(Luigi Lucheni、またはLuccheni、1873年4月22日 - 1910年10月19日)は イタリアの無政府主義者。「国王暗殺者集団」のひとり。 フランツ・ヨーゼフ1世の皇后であるエリーザベトの暗殺者といわれている。 生涯[編集] 生後間もなくシングルマザーだった実母に養育を放棄され、幼少時代をパリの孤児院と里親の家で過ごす。9歳から鉄道員として働き始め、10代の頃からすでにヨーロッパ各地で活動していた。幼少の頃から優秀だったルケーニは、やがてイタリア軍に徴兵されると有能な兵士になり、何度も表彰されたが給料が不満で除隊した。除隊後、スイスに移住し、無政府主義に傾倒した。 犯行[編集] 逮捕されたルケーニ 来の目的はイタリア国王ウンベルト1世だったが、イタリアに戻るまでの旅費がなく、次に狙っていたフランスの王位継承候補オルレアン公フィリップ

    ルイジ・ルケーニ - Wikipedia