久保田 晃弘 / Akihiro Kubota 情報が多すぎる時代にアーカイブから未来を予言する方法。可逆デザインは、わたしたちがいつの日からか信じ込んでいる「少ないほど良い」というデザイン理論の逆を行く。
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久保田 晃弘 / Akihiro Kubota 情報が多すぎる時代にアーカイブから未来を予言する方法。可逆デザインは、わたしたちがいつの日からか信じ込んでいる「少ないほど良い」というデザイン理論の逆を行く。
ちょっと歯ごたえのあるインタビューをお届けしたい。ニコニコ生放送で、最新のアニメや映画を論じるポップカルチャー批評家、あるいは各種アートの表現を美学的に捉える表象文化論の研究者という、いくつかの表情を持つ石岡良治は、現代の知の巨人、博覧強記の鬼と言えるだろう。 現在、東京の森アーツセンターギャラリーで開催中の『ルーヴルNo.9 ~漫画、9番目の芸術~』展。この後、約1年をかけて全国を巡回する同展には、フランス語圏伝統の漫画表現バンドデシネの巨匠たちの作品、そしてそれに共鳴する荒木飛呂彦や谷口ジローなど日本人漫画家たちの作品が数多く並んでいる。今回、石岡良治を招いてそれらを比較し、バンドデシネの魅力、そして日本の漫画の表現性を考えていく。 石岡が語る漫画表現の魅力、そこから得られる体験の豊かさ、そして「ミュージアム(美術館・博物館)」の存在意義を問い直す、刺激的な思考の数々。読めば読むほど味
2015年は「アジア」の年になる……。 日本は東京オリンピックに向けて文化都市をアピールし、シンガポールでは東南アジアの美術をコレクションする国立新美術館(ナショナル・アート・ギャラリー・シンガポール)が、韓国の光州では国立アジア文化の殿堂がオープンします。 そんな国家的プロジェクトの一方で、アーティストやプロデューサーが、個人どうしの信頼関係を基に、お互いを理解しあい、問題を共有するためのネットワーク・プロジェクトをたちあげています。 artscape2015年新春号の focusでは、美術、音楽、パフォーミング・アーツの分野で活躍する3人の方に、それぞれが始められたプロジェクトについてお話をうかがいました。 ノイズ、即興音楽から映画やテレビドラマの劇伴、ポップスのプロデュースまで手がけ、昨年、東南アジアと日本の音楽のフロンティアを探り、音を楽しむ人をつなぐ「アンサンブルズ・アジア」をた
→紀伊國屋書店で購入 「重なる視線が意味するもの」 いきなり「共視論」などと言われても何のことか想像がつかない。まるで〝一見さんお断り〟みたいなタイトルである。しかし、このテーマ、かなりの注目株ではないかと筆者は思っている。その可能性と広がりはなかなかのものだ。この論集では執筆者の中心は精神医学や心理学の専門家だが、今後もっと広い領域に影響を及ぼしてもおかしくないと思う。 そもそも「共視」とは何か。発達心理学にはjoint visual attention(直訳すると「共同注視」とか「共同注意」)という概念がある。ふたりがともにひとつの対象に目をやる行為のことである。このような行為をわざわざ概念化するのは、このジョイント・アテンションの発生が幼児の発達の中ではとても意義深いことと考えられているからである。誰かとともにひとつの対象をながめるようになることは、幼児の心において〝画期〟を成す。そ
先日の表象文化論学会大会でのAIとジェンダー表象のパネルにいくらか関連した雑記。ビデオゲームについてふだん考えていることとかかわりのある話なので、思うところを書いておく。 参照したものは以下(学会自体には行ってません)。 表象文化論学会第9回大会パネル発表レジュメ:電子の時代のピュグマリオン:ポストヒューマン技術のジェンダー化をめぐる文化的想像力 | Kyoko Ozawa - Academia.edu 西條 玲奈「人工知能にジェンダーは必要か:ソーシャルロボットとしてのAIと被行為者性の観点から」表象文化論学会第9回大会 2014年7月6日 表象文化論学会パネル「知/性、そこは最新のフロンティア——人工知能とジェンダーの表象」に関するツイート - Togetterまとめ 表象文化論学会パネル「知/性、そこは最新のフロンティア——人工知能とジェンダーの表象」後日談 - Togetterまと
初めてお会いしたのは、武蔵野美術大学芸術文化学科での担当科目「メディアと表現」の打ち上げだった。待ち合わせたお店へ入った途端に起立して名前を名乗られたので、随分と丁寧な方だなと思った。それからは韓国料理を食べながら、「ツイッターのアカウントを使い分けるなんて当たり前ですよ〜」的なお話を伺い、「素直に生きられない時代になったねぇ」と笑い合ったものである。 その翌年の夏に東京・日本橋のCASHIで「ラッセン展」(http://cashi.jp/lang/ja/exhibition/1150.html)という展示の案内を頂き、初日にお邪魔した。なんかよくわからないけど面白そうだと思って足を運び、実際にとても面白かった。ラッセンとそれぞれの作品を対比させることで、「私たちは何をいかに見ているのか?」を問い直すような展示になっていて、なんというか、展示そのものが批評になることもあるんだなぁと思ったの
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