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ブックマーク / www.tapthepop.net (22)

  • 【25軒目】渋谷・Organ bar──宇田川町の中心でレコード文化の変遷を見守ってきたナイトクラブ

    Home TOKYO音楽酒場 【25軒目】渋谷・Organ bar──宇田川町の中心でレコード文化の変遷を見守ってきたナイトクラブ - TAP the POP いい音楽が流れる、こだわりの酒場を紹介していく連載「TOKYO音楽酒場」。今回は渋谷・オルガン坂にある、20年以上の歴史を誇るナイトクラブにご案内。有名DJも数多く出演するOrgan bar(オルガン・バー)は、酒場としての魅力もしっかりと感じられる�お店です。 渋谷・オルガン坂。通りの周辺に音楽関係の店が多かったのでその名がついた、あるいは近くにある階段がオルガンの鍵盤のように見えるから……と諸説あるが、このあたり=宇田川町エリアはレコード店が軒を連ねる、東京の音楽シーンの中心地であった。90年代半ばのアナログ・ブームで雨後の筍のように増えたレコードショップも、2000年代に入ると軒並み閉店。街の景色も急速に変化していった。しかし

    【25軒目】渋谷・Organ bar──宇田川町の中心でレコード文化の変遷を見守ってきたナイトクラブ
  • 痛快でスピーディなクレージーキャッツの”変な歌”④植木等の「ハイそれまでョ」

    クレージーキャッツの3枚目のシングルは植木等の二枚目風キャラクターを活かして、ムード歌謡風のゆったりした歌い出しで始まる。 もともとジャズ・ギタリストで、ジャズ・ヴォーカルも学んだ格派だから声がよく響く。 ところが伸びやかでつやのある美声によるラブソングは、途中でブレイクした途端に歌詞が急展開、曲調もガラリと変わってしまう。 そしてテンポも一気に早まり、ツイストのリズムに乗って最後のオチへとつき進んでいく。 クレージーキャッツの研究家であった大瀧詠一は「ハイそれまでョ」がステータスを築いたと評価し、サウンドとしても3分間のミュージカルとしても、クレージー・ソングにおける第1期の頂点だと語っている。 作曲と編曲を行った音楽家の萩原哲晶は大瀧との対話のなかで、この曲が生まれた経緯についてこう述べていた。 植木さんていうのは、もともとマトモな歌を勉強してきたんだから、多少はそういうのもやりたい

    痛快でスピーディなクレージーキャッツの”変な歌”④植木等の「ハイそれまでョ」
  • 革命的なブームを巻き起こしたクレージーキャッツの”変な歌”③「無責任一代男」

    1961年の「スーダラ節」から始まったヒット曲によって植木等ブームが到来し、クレージーキャッツが疾風怒濤の快進撃を始めた1962年、記念すべき映画『日無責任時代』が製作された。 その主題歌として作られたのが「無責任一代男」である。 この時、主題歌に先行して映画の脚を書いていたのは、東宝で企画部の社員として働いていた田波靖男だ。 植木等の唄った「スーダラ節」から受けたグータラなサラリーマンのやるせない心情と、どこかヤケッパチな響きがあることに強い共感を覚えた田波は、さっそくクレージーキャッツと植木等を想定した映画のシノプシスをまとめた。 それは自ら温めていたピカレスク・ロマン(悪漢小説)のオリジナル・ストーリー、会社のためとか仕事のためというサラリーマンのモラルを放棄し、自由に生きる無責任男が大暴れするという内容となった。 固定化した組織や観念、人情などに縛られているサラリーマンのうっぷ

    革命的なブームを巻き起こしたクレージーキャッツの”変な歌”③「無責任一代男」
  • クレージーキャッツの”変な歌”②PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌

    青島幸男が書いた「スーダラ人生 クレージーキャッツ物語」によると、「スーダラ節」でレコードを出そうとしたときに、ふたつの選択肢があったという。 プロデューサーの渡邊晋との打ち合わせの席では当初、実力のあるミュージシャンが揃ったバンドなのだから常套的に”良い歌を作る”という案と、はなから割りきって”売れる歌を作る”という案が検討された。 そして選ばれたのは当然ながら、”売れる歌を作る”のほうだった。 青島流に言えば、「PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌」で、とにかく「バンバン売れる歌を作る」という方針が決まった。 その結果として誕生したのが、植木等のデビュー曲となった「スーダラ節」だった。 これが大ヒットしたことから、1961年の秋から翌年にかけて「ハナ肇とクレージーキャッツ」の人気が急上昇した。 破竹の勢いを得て12月に発売された第二弾シングルは勢いのある植木等が唄う「ド

    クレージーキャッツの”変な歌”②PTAのおばさまなんかがガタガタ騒ぎ出すようなバカ歌
  • 27歳になった大瀧詠一を待っていたのは、地獄の責苦のようなハード・スケジュールだった

    Home TAP the STORY 27歳になった大瀧詠一を待っていたのは、地獄の責苦のようなハード・スケジュールだった - TAP the POP 1975年6月9日にスタートした大瀧詠一のDJ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ(GO! GO! NIAGARA)』は、1978年9月25日まではラジオ関東で、1979年10月14日からはTBSラジオでオンエアされた。 それぞれ休養をはさみながらではあったが、1983年まで足かけ8年も放送される長寿番組となった。大瀧の豊富な音楽体験に裏打ちされたこの番組では、博学と見識をもとにして毎回、個人的な趣味による選曲で特集が組まれていた。 『ゴー・ゴー・ナイアガラ』は、開始当初より、常に“特定個人”に向けての放送でした。その“特定個人”とは誰か? そうです!“大瀧詠一・人”です。自分が自分に話しかける、これが『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の基姿勢でしたし

    27歳になった大瀧詠一を待っていたのは、地獄の責苦のようなハード・スケジュールだった
  • クレージーキャッツの”変な歌”⑤大瀧詠一が三拍子どころか十拍子も揃っているとベストワンに推す「ホンダラ行進曲」

    クレージーキャッツのテレビ番組の構成作家だった青島幸男は、植木等が歌ってヒットした一連のクレージー・ソングのほとんど全てを作詞しているが、著書「わかっちゃいるけど‥‥シャボン玉の頃」のなかで「ホンダラ行進曲」について、”実は一番好きな歌”だということを明かしている。 これは映画『ニッポン無責任時代』と『ニッポン無責任野郎』が公開されて大ヒットした翌年、クレージー旋風が日中で巻き起こっていた1963年の春に発売されたハナ肇とクレージーキャッツにとっては5枚目のシングル。 A面が「いろいろ節」、B面が「ホンダラ行進曲」という組み合わせで、メイン・ヴォーカルはハナ肇、植木等、谷啓の3人だった。 1961年に「スーダラ節」がヒットしたおかげで、作詞した青島幸男は東芝レコードからヒット賞を受けた。その時は上位に「じんじろげ」の渡舟人、「上を向いて歩こう」の永六輔といった先輩がいた。 売り出し中の若

    クレージーキャッツの”変な歌”⑤大瀧詠一が三拍子どころか十拍子も揃っているとベストワンに推す「ホンダラ行進曲」
  • 追悼・大森昭男~はっぴいえんどの大瀧詠一を発見したことから始まったCM音楽の新時代

    CM音楽のプロデューサーとして1970年代の音楽シーンに新風を吹き込んだ大森昭男は、日におけるコマーシャルソングの祖といわれる三木鶏郎の門下生で、1960年に作家集団の「冗談工房」に入社して音楽制作の道を歩み始めた。 作曲家の桜井順とともに1965年にブレーンJACK設立した大森は、斬新な映像感覚で”CM界のクロサワ”とも呼ばれた杉山登志と組んで活躍し、世界的な注目を集めた資生堂のコマーシャルを作って注目を集めた。 そして1972年に自らの事務所ON・アソシエイツを発足させてまもなく、はっぴいえんどの大瀧詠一に音楽を依頼している。 はっぴいえんどを聴いた時、すぐに、こういう新しい人たちと仕事がしたいと思いました。色々と感じ入る曲があったんですけど、三ツ矢サイダーの仕事に繋がったのは「ウララカ」です。企画をもらった時、直感的に、その場でこの大滝さんにお願いしようと思ったんですね」 1971

    追悼・大森昭男~はっぴいえんどの大瀧詠一を発見したことから始まったCM音楽の新時代
  • 大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日

    Home TAP the DAY 大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日 - TAP the POP 大瀧詠一がエレックレコードとの契約で、プライベートレーベル「ナイアガラ」を設立したのは1974年9月だ。 自分のレーベルを持って作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニアを務めて、原盤制作から原盤管理までを行うことは、音楽の道を志した頃から抱いていた夢だった。 そして1975年5月25日、はっぴいえんど解散後の初ソロ・アルバム『NIAGARA MOON(ナイアガラ・ムーン)』を、ついに自分のレーベルから発売したのである。 広告のキャッチコピーは、こうだった。 ナイアガラレーベル期待の第二弾!! はっぴいえんどからナイアガラへ そして、今甦るポップスの数々 それから1か月後の6月25日、細野晴臣の2枚目のソロ・アルバム『TROPICAL DA

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  • 【インタビュー】ベックが語る新譜『カラーズ』の魅力〜最後までやり切った今までで一番野心的なアルバム

    Home Extra便 【インタビュー】ベックが語る新譜『カラーズ』の魅力〜最後までやり切った今までで一番野心的なアルバム - TAP the POP ベックのニュー・アルバム『カラーズ』が10月11日に日で先行リリースされた。 グラミー賞を受賞した前作『モーニング・フェイズ』から3年半を経て発表された今作について、ベックは「生きることのエモーションを捉えようとした“セレブレーション・ミュージック”」だと説明する。 このレコードは「イエーイ、グレイト! 何もかもパーフェクト!」みたいな場所から出てきたんじゃないんだ。 喜びを見つけようとする音楽なんだけど、大変なこと、失望、苦しみ、痛みも失敗もある。 そういうのをちゃんと見たうえで、生きている実感やフィーリングを何とか見出そう、そしてそれを音楽の中に持とうってことなんだ。 ほら、グレイトなレコードって、タイムレスな喜びの感覚があるよね?

    【インタビュー】ベックが語る新譜『カラーズ』の魅力〜最後までやり切った今までで一番野心的なアルバム
  • 柴田聡子──独特な歌声と言語感覚が魅力のシンガー・ソングライター、岸田繁ら豪華ゲストを迎えた新作

    新幹線の窓から富士山が見えた 富士山見るのははじめてだった 新幹線には何度も乗ってたけれど 富士山見るのははじめてだった あいつなんかもう友達じゃないや そう思ってるんだろうな そう思ってるんだろうな 泣きたいほうが涙こらえて 富士山見れてうれしかった いなか者だからね (「スプライト・フォー・ユー」より) 鈴を振るような歌声と、イノセントな歌い回し。やさしく可憐な印象を漂わせるかと思えば、狂気や毒気がところどころに顔を出す。一度耳にすれば、確実に心に残ってしまうであろう独特な歌と言葉を味わわせてくれるのが、シンガー・ソングライターの柴田聡子だ。 1986年札幌生まれの彼女は、上京後、2010年からギターの弾き語りでライブ活動を開始。2012年に三沢洋紀プロデュースによる1stアルバム『しばたさとこ島』を発表。2015年には山精一をプロデューサーに迎えた3rdアルバム『柴田聡子』をリリー

    柴田聡子──独特な歌声と言語感覚が魅力のシンガー・ソングライター、岸田繁ら豪華ゲストを迎えた新作
  • Matt Sounds ── レゲエ・レジェンドのバックを数多く務める腕利きロックステディ・バンド、初のアルバム

    以前、TOKYO音楽酒場というコーナーでも触れたことがあるのだが、この10年近く、レゲエ・ミュージシャンたちが自由に交流しては、様々な形態で展開していくセッションを目撃する機会が多い。たとえば渋谷・ROOTS、新宿・OPEN、国立・地球屋、吉祥寺・BAOBABといった現場で夜な夜な繰り広げられていくセッションが、新しいバンドに進化していったり、あるいはまた別のつながりを生み出していったりと、日のレゲエ・シーンの大きな潮流となっている。今回紹介するMatt Sounds(マット・サウンズ)も、新宿OPENでのセッションから派生したロックステディ・バンドだ。 ドリームレッツやロッキングタイムでの活動をはじめ、様々なセッションでも活躍するマルチ・プレイヤー/トラックメイカーの森俊也。ドライ&ヘヴィーでの活動でも知られるキーボード奏者の外池満広。ロッキングタイムや川上つよしと彼のムードメイカーズ

    Matt Sounds ── レゲエ・レジェンドのバックを数多く務める腕利きロックステディ・バンド、初のアルバム
  • レイ・デイヴィスの詩世界〜稀代の皮肉屋と呼ばれた男のロマンティシズムと純情

    レイ・デイヴィス。 言わずと知れたイギリスを代表するロックバンド、キンクスのフロントマンである。 1964年のデビュー以来「You Really Got Me」「All Day and All of the Night」「Tired of Waiting for You」といった初期の“キンキーサウンド”によってヒットを連発していた彼らは、当時イギリスで活躍していた他のロックバンド同様、歌詞の内容よりもメロディーやノリの良さ(リズムアレンジ)に重きを置いていた。 「You」「Me」といった2つの単語を、ディストーションの効いた3コードに乗せながら、強烈なラブソングに仕上げることが特徴だった。 そんなキンクスにとっての“最初の変化”は「A Well Respected Man」という楽曲の発表から始まる。 1965年の11月にアメリカのみでシングルカットされヒットを記録したこの曲以降、彼は“

    レイ・デイヴィスの詩世界〜稀代の皮肉屋と呼ばれた男のロマンティシズムと純情
  • 何も言わずに待ってくれた大瀧詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆

    隆は1985年の11月から12月にかけて、朝日新聞の夕刊で週1回『新友旧交』というコラムを8週にわたって書いていた。 そのときに「待ってくれた大滝」と題して、アルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』が誕生した時の経緯を明かしている。 大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。 そういえば彼から家族のこととか、身の回りの雑事について聞いたことが無い。仕事以外のプライベートなことに関して口が重いのかもしれない。 一度だけ彼がぼくの家を訪ねてくれたことがある。 「今度作るアルバムは売れるものにしたいんだ。だから詩は松に頼もうと思ってね」 「よろこんで協力させてもらうよ」 後にミリオン・セラーになった『ア・ロング・バケイション』は、こんな会話から生まれた。 (「待ってくれた大滝」朝日新聞1985年1

    何も言わずに待ってくれた大瀧詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆
  • 「銀河一のアイドルのデビュー曲を作ってください」と菅野よう子からオファーされた松本隆

    隆トリビュートアルバム『風待ちであひませう』を手にして、制作に携わった人たちの思いが伝わってくるブックレットのなかで、詩人の最果タヒさんが書いた素敵な文章に出会った。 松隆の言葉は、歌われること、そしてそれを聴く人がいることを、知っていて、そうして生まれてきたものだった。だから、聴いていると、歌っていると、言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っている。 書かれてあるそれらの言葉、活字のリズムにハッとして嬉しくなった。 確かに『風待ちであひませう』は最初から最後まで、どの曲も言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っているアルバムだった。 なかでも3曲目に入っていた「星間飛行」は、クラムボンの創りだしたサウンドと原田郁子のみずみずしいヴォーカルによって、オリジナルとは異なる風が感じられた。 アニメ『マクロスF(フロンティア)』の劇中で、瞬く間にシンデレラ・ストーリーを駆け上

    「銀河一のアイドルのデビュー曲を作ってください」と菅野よう子からオファーされた松本隆
  • B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ

    Home Extra便 B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ - TAP the POP B.B.キング(B.B.King)のブルース 少年時代のB.B.はある日、お金を貯めようと思いついて、舗道に座ってギターを抱えてゴスペルを歌うことにした。すると、通り掛かった男が立ち止まって聞き入りながらハミングをし始めた。いい兆しだ。気分が良くなったので次々と歌い続けた。 「神のご加護がありますように」 男は上機嫌でそう言った。B.B.も同じ台詞を返してチップを待った。 「なかなかうまいぞ、坊主」 「ありがとうございます」 「その調子で歌い続けるこった」 男は肩をポンと叩いて行ってしまった。他の人々のポケットからも1セントたりとも出てこない。そこでB.B.少年は方針を変更。別の日に世俗の歌を弾いて歌ってみた。歌詞など覚えていないので、自分で適当に作った。ゴ

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  • 眠れぬ夜のために〜B.B.キングのアーバン・ブルースを聴きながら

    『眠れぬ夜のために』(INTO THE NIGHT/1985) 夜、眠れない…… 誰もが一度は経験したことはあると思う。甘美な眠りをイメージするあまり、焦る気持ちは高ぶり、あるいは余計なことを考えて心配になり、軽く一杯のつもりがつい深酒になってしまう。そうして時計の針だけが進んでいき、気がつけばカーテンの隙間から訪れる朝の陽射しに目が眩む。新しい一日の始まりから疲労と損失のような気分を抱える羽目になる。 アメリカの伝説的な作家スコット・フィッツジェラルドが自身のエッセイ『崩壊』の中でも描いているように、昼間は何でもないことが、深夜になると忘れてきた荷物だって死刑宣告に劣らぬくらい悲劇的な意味を持つ。“魂の暗闇の中では来る日も来る日も時刻はいつも午前3時だ”という、あの有名な一文も綴られた。 映画『眠れぬ夜のために』(INTO THE NIGHT/1985)は、そうした慢性的な不眠症に陥った

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  • イントゥ・ザ・ワイルド〜アラスカの荒野に消えた青年が孤独な旅で綴り続けた心の言葉

    『イントゥ・ザ・ワイルド』(INTO THE WILD/2007) 1992年、夏。アメリカの最北部アラスカ州の荒野。捨てられた古いバスの中で一人の若者の遺体がヘラジカのハンターによって発見された。名前はクリストファー・マッカンドレス(以下クリス)、年齢24歳。日記やカメラ、ソローの『ウォールデン/森の生活』など何冊かの小説もそばにあった。 クリスは東海岸の裕福な家庭で育ち、南部のエモリー大学を優秀な成績で卒業。その直後、2万4千ドルの貯金を全額慈善団体に寄付し、1990年のある日突然旅に出た。名前を変えて2年間の放浪の末に遺体が発見されるまで、両親や妹は彼が何処にいるのかもまったく知らされることはなかった。 クリスがなぜ旅に出たのか? なぜ死んだのか?という謎は全米の二ュースになり、ノンフィクション作家のジョン・クラカワーが追跡取材を重ねて1995年に発表した『荒野へ』は大きな反響を呼ん

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  • 大友良英の「学校で教えてくれない音楽」が教えてくれる音楽

    歴史あるジャズの老舗「新宿PITINN」では2014年12月26日から29日まで、大友良英の4デイズ6連続公演が行われた。 最終日を飾ったのは16人のメンバーからなる大友良英スペシャルビッグバンド、「新宿PITINN」50周年を記念して発売されるCDのライブ・レコーディングが行われた。 その夜はオリジナル曲のほかに、半世紀前に早世したモダンジャズの巨人エリック・ドルフィーの楽曲の数々、同時代の表現者であるジム・オルークの「ユリイカ(Eureka)」なども演奏された。 大友良英(G)江藤直子(P)近藤達郎(Key)斉藤 寛(Fl)井上梨江(Cl)鈴木広志(Sax)江川良子(Sax)東 涼太(Sax)佐藤秀徳(Tp)今込 治(Tb)木村仁哉(Tuba)大口俊輔(Acc)かわいしのぶ(B)小林武文(Ds)上原なな江(Per)相川 瞳(Per)Sachiko M(sinewaves) 1959年に

    大友良英の「学校で教えてくれない音楽」が教えてくれる音楽
  • いつまでも鳴り響くナイアガラ~大瀧詠一特集

    大瀧詠一さんがこの世を去ってからまもなく1年、ベスト・アルバムやコンピレーションがリリースされて、残された作品の数々は忘れられるどころか、ますます輝きを増していくように思えます。 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ 万葉集に残された和歌は、こうも読み取れます。 大きな瀧の音楽はもう新たに生まれることはないが、ナイアガラの音楽は今もしっかり聞こえている‥‥。 大瀧さんが残した素晴らしい楽曲の数々が、この先もずっと歌い継がれることを願い、TAP the POPでは書き下ろしも含めて、コラムをまとめて特集したいと思います。

    いつまでも鳴り響くナイアガラ~大瀧詠一特集
  • 「これが自由というものか」~60年以上も前のプロテスト・ソングが今もそのまま通用する歌の力

    今から60数年前、1954年の日では「これが自由というものか」というユニークな歌が、NHKラジオから毎週々々、全国に流れていた。 21世紀の現在でもそのまま通用するような痛烈なプロテスト・ソングを歌っていたのは、喜劇王と呼ばれたエノケンこと榎健一である。 エノケンはジャズからクラシック、民謡、浪曲にいたるまで、あらゆる音楽を歌い、ユーモア、ナンセンス、時事風刺、アドリブのギャグを加えた演技はスピーディでアクロバティック、もう二度と現われないコメディアンと言われている。 なお2番に出てくるMSAとは「MSA協定」のことで、日の軍事力増強を図るためにアメリカが援助を与えることを主旨とした内容で、この歌ができた1954年の3月8日に調印されていた。 この歌はエノケンが主演したNHKのラジオドラマ『とかくこの世は』(1954年4月~1955年3月放送)の挿入歌として誕生した。 それまでもエノ

    「これが自由というものか」~60年以上も前のプロテスト・ソングが今もそのまま通用する歌の力