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ブックマーク / shinimai.hatenadiary.org (5)

  • バークリーの門を叩く、その1 - 死に舞

    予告どおり、これ読んだぜ。 憂と官能を教えた学校 上---【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史 調律、調性および旋律・和声 (河出文庫 き 3-1) まだ上巻だけだが、とりあえず感想書いとく。 はっきりいってとても面白かったし、バークリー・メソッドの入門としても分かり易かった。鍵盤の図も乗ってたりして、独習もできる。後半はそういう実学的な部分が多いのでオレも研究室から借りた鍵盤片手に、スケール弾いたり、コード鳴らしたりしながら読んだのでそれなりに時間がかかった。 全体的な雰囲気は前に読んだhttp://d.hatena.ne.jp/shinimai/20100428/p1アフロディズニーよりも、より講義っぽいというか語り口調で、途中でわけのわからん駄洒落とかも言っている(笑)。多少、説明が冗長なとこもあったりするけど、初心者にはそっちのほうが分かりやすいし、たまに

  • バンド文化と音楽文化 - 死に舞

    バンド文化音楽文化って書くからにはこの二つが違うことを、私は意図しているのだが、実際のところこの二つは意外に区別されない。いやいや「意外に区別されない」と思ってしまう私の方こそ、全体から見ればマイノリティーで、世間一般の人たちはそのような文化の違いや、そのような文化の存在自身に対して無自覚なことも多い。 時は奇しくも京アニの「けいおん!」が注目を集める昨今、バンド文化音楽(聴取)文化の違いをちょっとばかし書いておこうと思う。 けいおん! 2 (Blu-ray 初回限定生産) 豊崎愛生, 日笠陽子, 佐藤聡美, 寿 美菜子 とりあえず「けいおん!」のアニメとしての出来や、話の内容を置いといて(個人的には作画を見る楽しみはあるけど、お話がつまんないんだけど)、学校という制度的な場所における一つの音楽文化としての軽音部について考えてみよう。参考となるはコレ。 音楽をまとう若者 小泉 恭子

    yomayoma
    yomayoma 2009/04/23
    「パーソナルミュージック」女子のそれ/「バンド文化」
  • 同人音楽、インディー、自主流通音楽 - 死に舞

    ツイターで雑談していたことだけど(俺が一方的に) 同人音楽を聴こう! (三才ムック VOL. 167) こういうが出るとおり、今は同人音楽がアツいらしい。ニコニコライフを送って東方系の音系同人も聞くようになった俺もこのは買おうとは思ったけど、ソレ系のお店に行くのがハードルが高く結局買っていない。でもアマゾンで売られているから買って読もう。 ともかくこのとか読んでみないとまだわからないけど、同人音楽という言葉が一般的になってきた昨今、いわゆる「インディー」という意味について再考する必要があると思う(ポピュラー音楽研究者としても、ただのロック好きとしても)。いわゆる「同人音楽」というのが席巻してくると「インディー」という言葉が死語になるかもしれないからだ。 さらにレディオヘッドのような「メジャー」なアーティストがダウンロード販売を行うという状況を鑑みれば、「インディー」という言葉はますま

    yomayoma
    yomayoma 2007/12/31
    同人音楽(共有される「美学」)、インディー音楽、セミプロ
  • 音楽作品の存在論のための音楽の存在形態の分類をどうするかに関するメモ - 死に舞

    というか単に英語に比べて、日語の音楽に関する語彙の貧弱さをどうにかするために、なんとか自分なりにまとめてみる。 とりあえず理念的な意味での現代の音楽の存在形態として 作曲(composition)-演奏解釈(interpretation)-上演(performance)-録音(recording)-再生(playing) というのが考えられる。 基的に原初形態の音楽はこれらすべて同時に行われたと考えられる(もちろん録音という概念はなかっただろうが)。 ライブの音楽の場合は、最終的な存在形態が上演のレベルで終わる。そのときperformer=playerだ。 実際に、これらすべての過程を明示的に分離して述べられるのは、クラシックのCDの個人での聴取とかの場合くらいであろう。それぞれの存在形態とそれを生み出す媒介者を挙げると。 楽譜・作曲家(composition)-指揮・指揮者(inte

    音楽作品の存在論のための音楽の存在形態の分類をどうするかに関するメモ - 死に舞
  • Frank Sibley‘Aesthetic and Non-aesthetic'(1965) - 死に舞

    Aesthetic Conceptsと同じく美的/非美的判断、美的/非美的質、美的/非美的記述、美的/非美的概念の区別が行われる。これらの区別は基的に通常の視覚、聴覚以上の感受性のようなものを要求するか、否かにおいて区別される。最初、この論文のタイトルを見て、これは美的/非美的の区別に関する議論だと思ったけど、どうやらシブリーにとってはその区別はある程度自明なようで「その区別を擁護する必要はない…そのような区別を否定することは、美学のほとんど多くの問題を議論することを不可能とするもの」だと言っている。シブリーは基的に一貫して、その識別に感受性を要求するか、否かという基準において美的/非美的の区別為しているようだ。もちろん、この美的概念の感受性による定義はその循環論的な説明に問題があり、美的/非美的をいかに区別することについて、ピーター・キヴィ、テッド・コーエンやビアズリーなど他の美学者

    Frank Sibley‘Aesthetic and Non-aesthetic'(1965) - 死に舞
    yomayoma
    yomayoma 2007/07/28
    「美的」と「非美的」の依存関係興味深い。前提としての「知覚」
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