賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…
賃貸暮らしのわが家の地震対策【揺れから命を守る編】 以前のブログでも記載した、防災の優先順位に基づいて対策を進めています。まだ手をつけられていない部分もありますが、ある程度まとまってきたのでざっくりとご紹介していきます。 優先順位別に改善していっているため、今回は主に地震の揺れ対策がメインになります。…
はてなエコーこの文章が碇シンジよすこやかによみがえれ――経験不可能性と決断主義の克服についての試論――や「ゼロ年代の想像力」に対するカウンターパートになるか、といえば微妙だけれど、エヴァにおける父と子の構図を「決断主義者」と「ひきこもり」の構図として図式化するのはわかりやすいけどそれってほんとに合ってるの? 設定上の構図が持っているイメージだけで語ってないか。と思ったので少し書いておく。もしかするとそこで見落とされている論理展開について。不在の父について。それから決断する女たちについて。そこで思い起こされるのが宇野常寛の「碇シンジでは夜神月を止められない」――経験不可能性を受け入れたひきこもりは決断主義者にアプローチできない――という言葉である。だが、実際には「碇シンジでは碇ゲンドウを止められない」と読むべきである。碇シンジと対比されるべき決断主義者はまず彼が主人公であった「新世紀エヴァン
前置き 以下のエントリは宇野常寛「ゼロ年代の想像力」に対するカウンターパート的なものであり、ひとつのサブカル偽史としてのゼロ想を補完しつつ現代の問題について考えるものといっておく。 本文 ロスジェネ世代の精神的風潮として、大きな物語の衰退と社会の分子化による主体の孤独化と無力化――「連帯を求めて孤立を恐れず」から「孤立を恐れて連帯を求めず」への変化があったといえるだろう。 それはいわゆる碇シンジ問題――「なにをしても傷つく/傷つけるなら、なにもしないほうがいい」というひきこもり的心性と「なにをしても、結局事物の本質性にはアクセスできず、自己のアイデンティティを保全することすら困難である」という経験不可能性の具現化である。 そこで思い起こされるのが宇野常寛の「碇シンジでは夜神月を止められない」――経験不可能性を受け入れたひきこもりは決断主義者にアプローチできない――という言葉である。だが、実
図書館でSFマガジン1月号を借りてきたので宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読みまして。いい加減にイライラしてきたので適当に愚痴を。 1月号はよしながふみ論なんだけど、山形浩生の「日出処の皇子」論を土台に吉田秋生→よしながふみと語っていく形で、まあ相変わらず穏当だなあとは思うわけです。思うのは稲葉振一郎と宮台真司の仕事ももっと思い切り引用して論じればいいのではってこと。最初のほうでちょこちょこと引用したあと、あんまり出してないのはなんなのかしら。基本的にこの連載「宮台・稲葉を読んだ小知恵の働く院生レベルが漫画・ドラマ論に仕立て直してみましたけどどうでしょう」的コンセプトだと思うのだが、本人的には違うのだろうか。それはそれで意義のある仕事だとは思うのですよ。誰かがやったほうがいいだろうと思うのです。ほらなんか「文化的雪かき」とかいい言葉あったし。 でも連載が始まって以来未だに宮台・稲葉から一歩も
※件の本を冷静に読みたい方は、まず(↓)をお読みください(5月27日追記)。 『ゼロ年代の想像力』を読み直すためのレッスン+++ - 白鳥のめがね この本から学べることは、こんなパフォーマンスに需要があると思われるほど文化的状況は貧しいことになってしまっているということではないだろうか。まずそれを直視しておきたい。 ゼロ年代の想像力 作者: 宇野常寛出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2008/07/25メディア: ハードカバー購入: 41人 クリック: 1,089回この商品を含むブログ (263件) を見る 文化的状況の貧しさに徒手空拳で立ち向かう著者の努力とある種の真摯さには一定の敬意を払わなければならないだろうが、だからこそ、批判的な検討をもってエールとしたい*1。 以下、この本の特徴の幾つかについて触れ、まず、あくまで著者自身が要請している倫理と論理を徹底することによって、この本
kenzee「前回は「白線流し」というテクストから90年代の若者全般を覆った病、「自分探し」がこの10年どう展開し、進行させていったかという話をした。あのドラマの登場人物たちは学校を出てから仕事を辞めて海外へ飛び出したり「不安」という漠然とした理由から結婚をやめたり、役者や脚本家というかなり実現可能性の低そうな夢を見てアルバイト生活を続けたりとリスキーな選択肢ばかり選び取ってしまう。そして多くの視聴者は彼らの生き様を好意的に評価した。「リスクをとる」ことの危険性について誰も指摘しなかったのだ。これは最早、我々団塊Jr.世代ばかりが人生を安易に考えていたというより95年以降のポストモダン状況の進行とともに「大きな物語」が消滅したことによる「物語探し」の一環だったのではないかと思えてくる。こうなると「自分探し」は社会システムの問題とも関わってくる」 kenzee教授「大きな物語ってみんな割りと
まず全体的な感想としては、面白かったし、方向性としても納得というか共感した。 しかし、読みながら、色々と批判したくなってくるのは何故なんだろうか。 とりあえず、以下、この本のまとめと読みながら思った事を書いていくつもりだが、その中には「ここがおかしい」というものも含まれる。ところが、色々考えていると、それって単なる重箱の隅を突いているだけのように思えてしまう。重箱の隅つつきは面白くないよな、と思うので、あんまりしたくないのだが、何故かそういうものばかりが、読んでいてチラチラと頭をよぎるのである。 これは、この本が、読んでいて自分のことを批判されているような気分にさせられる本だからではないか、と思う。 重箱の隅を突きたくなるのは、図星だからなのであろうか。一方で、いや別に、この批判は俺のことを言っているわけじゃないなんだから、そんなに焦らなくても大丈夫、と思ったりもする。 それから、あとでも
S-Fマガジン 2008年 05月号 [雑誌]出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2008/03/25メディア: 雑誌 ■ゼロ年代の想像力 第11回/宇野常寛 第11回「ブルーハーツからパーマンラウムへ 青春映画ブームと「ロマンの在り処」をめぐって」。前回の第10回で、『ALWAYS 三丁目の夕日』をはじめとする昭和ノスタルジーブームを考察した。今回はもうひとつのゼロ年代日本映画ムーブメントである「学園青春」ブームについて論じる。意識されているのは『ウォーターガールズ』『スウィングガールズ』『フラガール』といった矢口史靖監督の映画作品たち。しかし前回も『ALWAYS』を座標に入れつつ『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の野望』について語ったように、今回もその考察の一断片として、オタク系文化を視座に入れている。そして今回取り上げるその作品は、『涼宮ハルヒの憂鬱』である。 既に周知の事実の通り、
2008年2月7日新宿にて、『PLANETS vol.4』が好評発売中の「第二次惑星開発委員会」を主宰している評論家、宇野常寛さんのロングインタビューを行いました。「惑星開発委員会」の成り立ち、論争を起している「ゼロ年代の想像力」(『SFマガジン』連載中)の背景にあるもの、そしてケータイ小説論、サブカル評論の現在まで、ここでしか読めない宇野常寛さんの発言が盛りだくさんのインタビューとなっております ■プロローグ 歌舞伎町の飲み屋から 荻上:今日は新宿、歌舞伎町の飲み屋からお伝えしてます。ということで、『PLANETS vol.4』発売、おめでとうございます! それから、『SFマガジン』での連載「ゼロ年代の想像力」も好調で、話題になっていますね。 宇野:ありがとうございます。 荻上:今日はそんな宇野さんに色々聞いてみたいと思います。個人的には、後日簡単に発表すると告知されてからさっぱり更新さ
「あなたは私の妄想じゃない - べにぢょのらぶこーる」を読んで。 あまりにネットに傾倒している紅を見て 「妄想世界の人間を好きとかどんだけpgr」 「しょせん妄想なのに必死杉w」*1と常々バカにされているんだけど。 ハハハ、自分と同じような人がいた(笑) 紅がネットに強く惹かれる理由は、”画面の向こうに生身の人間がいるから” です。 ネットの向こうにいるのが生身の人間だから、その相手とコミュニケーションするのがこんなに面白いのに、「妄想世界の人間を好きとかどんだけpgr」「しょせん妄想なのに必死杉w」ってのを聞くと、「ネットの向こうにいる生身の人間を想像、認識できないなんて、どんだけ自分の妄想にはまってるんだよ・・・」という想いが沸々と。 リアルだって、ネットだって、人は全ての面を見せてくれる訳ではなくて、そこで見えている範囲でしか相手のことは分からない。でも、互いを認識し、分かり合おうと
忙しくって、断片的にしか書く時間が取れないなぁ。あとからジリジリとオンラインで改訂してるし(笑) SIGHT (サイト) 2007年 10月号 [雑誌] 出版社/メーカー: ロッキング・オン発売日: 2007/08/31メディア: 雑誌購入: 2人 クリック: 20回この商品を含むブログ (6件) を見る なるほど、SF大会で聞いていたことが補足された感じであった。 SF大会のイベントで、東浩紀さんが 最近の日本の作家は、以前ほど海外SFを読んでいない&影響を受けていない と発言していたのには、個人的に少し違和感があった。 というのも海外SFが日本の小説に、とりわけライトノベルに取り込まれていくのは10年近いタイムラグがある場合が多いからだ。 ライトノベル作家予備軍が海外SFを最も読む時期というのは、中学生から高校生の時期がもっとも多いからかもしれない。 例を挙げるならば、ウィリアム・ギブ
SFマガジンに連載中の「ゼロ年代の想像力」をパラパラと読んで,すごい違和感を感じたのでそれを含めて書きます. しかし,この連載に対しての違和感や評を書くことは既にいろいろとやられているので,適当に流す程度にするつもりです.それよりも決断主義に代わる価値観としてWeb2.0(というかアルゴリズム)があるのではないか?といった考え方を書くつもりです. また,ゼロ年代の想像力を読んでいない方にも読める形で書きます. はじめに ゼロ年代とは2000年代のことを指す言葉である.そして「ゼロ年代の想像力」とは,宇野常寛が現在SFマガジンで連載中の評である. 宇野常寛はこの「ゼロ年代の想像力」で,90年代の想像力(セカイ系)を埋葬し,ゼロ年代の想像力(決断主義)を正しく理解し,そして次の10年の想像力を導き出そうとしている.しかし,未だ連載では決断主義の理解半ばなので,次の10年の想像力に関しては触れな
宇野氏による独断的な(?)マッピング、妥当性はともかく、SFマガジンのときよりも突っ込みどころ(ツッコミどころというよりも)満載感があったのに少なくともはてな界隈では反応があんまりなかったのは不思議だった。あんまりにあんまりだったのでみんな敬遠したのかな。ともあれ「オトナアニメ」の「さらたね」なんとかで気炎を吐いててかっこよかった更科修一郎氏が宇野氏ときわめて近い位置にマッピングされていたのが印象的だったので、今回の更科氏の反応には驚いた。 僕はマニアックな論壇好きではないので、あのマッピングの妥当性にはあまり興味が無いし、更科氏のこともよく存じ上げないのだけれど、「オトナアニメ」でのアドルノみたいなスタンス(僕の誤読だったら申し訳ないけど)が非常にかっこいーなーと思っていただけに、難しい立ち位置に疲れてしまったような今回の発言を読むにつけ、悲しい事態に進展しているなと思った。 僕は宇野氏
■[評論]「ゼロ年代の想像力」第3回 ■宇野常寛「ゼロ年代の想像力」は、雑誌『SFマガジン』7月号から始まった連載で、現在9月号までに第3回までが載っている。宇野はこの評論にて、「90年代の古い想像力を振り払い、ゼロ年代という今の想像力を見きわめ、その上でそれを乗り越える次の10年代の想像力を提示する」というようなことを目的としている。 はじめに、この連載の目的を簡単に説明しておく。まずは九〇年代の亡霊を祓い、ゾンビたちを速やかに退場させること。次にゼロ年代の「いま」と正しく向き合うこと。そして来るべき一〇年代の想像力のあり方を考えることである。『SFマガジン』7月号92ページ ■宇野はこの「90年代の古い想像力」として、引きこもりの思想と呼ばれるものを挙げている。 この「古い想像力」を端的に言い表すならばそれは「引きこもり」の思想となる。その端的な例としては、一九九五年から九六年に放映さ
ところでなんでsurviveなのに最初のvはバなんでしょうねw。 宇野常寛、ゼロ年代の想像力は読んでないんですけど、ギャルゲの好きなものとして一応書いておこうと思いました。善良な市民こと宇野常寛は口が悪いだけでそんなにおかしなことを言ってないんで、別に反論とかそういうことではありません。ぶっちゃけよしながふみが好きなところとか僕はけっこう彼に近い感性を持っているような気もします。まぁそら人と人のコミュニケーションとか大事ですね。オタク的行動なんてやめちゃったほうが、人生有意義。まぁそらそうかも。 でも別になんといわれようとギャルゲー好きですよってそういう話です。 例えばちいさいころ電車や飛行機とか見てかっこいいとか思うじゃないですか、それを”自分の矮小さに対するルサンチマン、巨大なものへの同一化幻想である”なんて言われて、例えそれが事実だったとしても、べつに小さいころ電車や飛行機がかっこよ
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」(『SFマガジン』07年7月号)を立ち読みした。全然ダメだろう。90年代の想像力は「ひきこもり」系「セカイ」系で『エヴァ』『ハルヒ』、00年代の想像力は「サバイブ」系「決断主義」で『コードギアス』『デスノート』、と。東浩紀のオタク論は前者に属し「古い」、後者の想像力が「新しい」。――こんなの、ただのマッピングに過ぎない。しかもかつて例えば磯田光一が左翼(共産党系)/サヨク(新左翼)を分離=切断した時の社会的な問題提起の感覚さえない。わずか10年の世代感覚の差異をちまちま論じ、後者を絶対化し前者を叩く。「コップの中の差異」以下の、この時間的空間的な狭さは何だろう。宇野は東には00年代的なサバイブの感覚がない、と難詰する。しかし、例えば最初期の東浩紀のソルジェニーツィン論やデリダ論は、「生きのびようとする戦略や意志の全く通じないスターリニズム的な世界の中で、生きるこ
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