タグ

歴史と戦国に関するamanoiwatoのブックマーク (8)

  • 斎藤家 と 斎藤道三

    「美濃のマムシ」と恐れられ、梟雄(悪逆非道な英雄)として知られる戦国大名「斎藤道三」。 「下克上」(下の者が目上の人を討ってのし上がる事)の代名詞とされている人物です。 一介の油商人から一国一城の主にまで登りつめた彼は、まさに戦国の象徴と言え、司馬遼太郎の「国盗り物語」など、様々な小説やドラマで扱われてきました。 ただし、彼の前半生には謎が多く、伝承に彩られています。 そして多くの研究者が独自の新説を唱えているため、近年になるほど逆に実像が解りにくくなっています。 彼はどんな戦国大名だったのか・・・ ここでは定説・通説を中心にご紹介いたします。 彼がどこで生まれ、誰に育てられたのか、イマイチはっきりしていません。 ただ、11才になってから京都の「妙覚寺」というお寺に預けられ、僧侶としての修行をしていたようです。 しかしいつしか、還俗して(僧侶を辞めて)「松波庄五郎」と名乗る、量り売りの油商

  • 戦国大名が『源氏物語』を読んだのはなぜ? 戦国武将と意外な読書の遍歴 | ダ・ヴィンチWeb

    『戦国大名と読書』(小和田哲男/柏書房) 合戦に明け暮れているイメージのある戦国武将たち。だが実際のところ、武将たちは「リーダー」でもあった。ただ日々を戦のことだけを考え、学び、生きていたわけではない。政治的な判断力、領土を治める治世力、人心をつかむ力……戦国武将には様々な能力が求められていた。 では、どのようにして戦国武将はそのような力を養っていたのだろうか。 それを解明する糸口となるのが、「読んでいた」だ。『戦国大名と読書』(小和田哲男/柏書房)は、戦国大名が幼年期に受けていた「教育」と、広く読まれていた書籍によって、戦国武将の「内面」にアプローチした一冊である。戦国武将の内面を知りたいなら、幼少時代における「教育内容」を知ることがその一歩となるのだ。 身分の差はあれど、戦国時代、武将の子どもたちは寺で生活をしていた例が多くある。それは「教育」のためだった。当時における「教師」は、主

    戦国大名が『源氏物語』を読んだのはなぜ? 戦国武将と意外な読書の遍歴 | ダ・ヴィンチWeb
  • 意外とおちゃめな性格!織田信長の雑学【戦国時代トリビア】 - アラフォー独身男のナンパ婚活ブログ

    今回は戦国三英傑のボス格、織田信長のトリビア。 織田信長の話はいたるところで出るし、 緊張と緩和で笑いにつながる面白いものが多いので、 婚活ナンパをしている人じゃなくても知っておいて損はない雑学。 織田信長は黒人をはじめて見た時、「ワイをからかっとんのやろ?」と体をゴシゴシ洗わせた。 この黒人は2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に少しだけ出てきたので知っている人は多いだろう。 どういう経緯でということ、信長の性格などを勘案してみるとより楽しめるので続きを読んでいってほしい。 弥助16世紀安土桃山時代にイタリア人の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに奴隷として連れてこられた、 ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)出身のアフリカ人。 京都では物珍しさに大騒ぎになったそう。 織田信長も興味を示し、目の前に連れてこさせる。 初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかな

    意外とおちゃめな性格!織田信長の雑学【戦国時代トリビア】 - アラフォー独身男のナンパ婚活ブログ
  • 「織田信長 その虚像と実像」松下浩 著

    近年、織田信長研究の概説書が手頃なサイズで次々と出されているが、書もその流れに乗って2014年6月に発売された一冊である。信長に関しては基的にスタンダードな記述で手堅いが、書が特徴的なのは、著者が安土城の研究者であるがゆえに、信長による近江支配と安土城について焦点があてられていることだろう。『信長の近江侵攻以後、近江がどのように変わり、どのように変わらなかったのか。近江の中世から近世への過程を辿る』(P7)ことが信長の実情を描くことと並ぶ書のテーマであるとしている。この近江支配に関する記述がとても興味深かった。 群雄割拠の近江戦国時代の近江は、他国にみられるような統一して専制的な領国支配を行う戦国大名が登場せず、北近江で浅井氏が台頭し、南近江の守護六角氏と対抗、さらに西近江には室町幕府奉行衆である朽木氏ら高島七頭と呼ばれる国人連合が両氏から自立して勢力を保ち、これとは別に一向一揆勢

    「織田信長 その虚像と実像」松下浩 著
  • へうげツアー? | 日々。

    8月の30日、綾音ちゃんと京都国際マンガミュージアムに行く予定だったのが、へうげものツアーになったでござるの巻。 京都国際マンガミュージアム特別展 妖怪天国ニッポン -絵巻からマンガまで- 綾音ちゃんに誘われて見に行こうと思い立った訳ですが、京都なのでついでに何か「へうげもの」の史跡後でも見に行こうぜ?と調べたら、まあ茶の湯の場の京都、メチャメチャありました。 一日のみなので、まあ大徳寺にある三門でも見に行こうか―、と話しておったのですが。 「へうげもの」的に、非常に美味しい所でした。大徳寺。 んで当日。最後にマンガミュージアムに行くので、先に史跡後を巡ろう~とバスの一日乗車券を買い、 まずは興聖寺へ。 場所は、上京区堀川通上御霊前上る西側。 つか、場所が元、利休屋敷があった清明神社の側だったのでびっくり。 実はここに、「へうげもの」の主人公こと、古田織部のお墓が! つか、色々調べてて、

    へうげツアー? | 日々。
  • 【速報】天正遣欧少年使節団の伊東マンショの肖像画が発見!

    読売新聞の夕刊を開いたら超でかい肖像画が出ていて驚きました。さらにその肖像の主が、九州のキリシタン大名が派遣した天正遣欧使節の伊東マンショだというこからダブルで驚きです。 4コマ漫画なみの大きさ 安土桃山時代、ヨーロッパへ派遣された天正遣欧使節の正使、伊東マンショ(1570?~1612年)の肖像と記された油彩画がイタリアで見つかった。 伊トリブルツィオ財団の文書保存・管理担当職員、パオラ・ディリコさん(41)が調査し、18日発行される同財団の学術誌に論文を発表する。(略) スペイン風の衣装を着た東洋風の青年が描かれ、裏側に「Mansio」などと記されることから、遣欧使節の史料や絵の来歴などの調査を進めてきた。 紙面ではもっと詳しく出ていますが、ネットでは上記のような感じでさらっとしていますが、画像もあります。 なお、これまではマンショの画像はなかったわけではなく、長崎歴史文化博物館が2

  • 戦国秘話ヒソチリア!あなたとNHKの知らない伊達政宗の5つの秘密 - 歴史ニュースウォーカー

    きのうのNHK歴史秘話ヒストリアは伊達政宗でした。関ヶ原の合戦時に、政宗は会津の上杉と戦うのですが、その理由がなんとなんと「山形に帰った母を助けるため」という口ぽかーんな展開。。。 全体的には教科書的(伝統的)な政宗史だったので無難かつ半分うつうつら見ていました。端的に言うと「秘話ないじゃん!」 なので、当の秘話を探してきましたよ。 その1 政宗は隻眼になるまで両親のもと何不自由なく暮らしていた・・・・のではなかった 米沢(現在の米沢城は上杉のもので伊達時代は西にある山城=館山城跡ではと言われています)で生まれた梵天丸ちゃん(政宗)は、両親の溺愛のもとすくすくと何不自由なく育ちました、とNHKでも言っていましたが・・・。 最近になって、そもそも親子は離れて暮らして、帝王学を施されていた(一人暮らし)という説が出ているようです。 一人暮らしといっても、殿様としての独り暮らしなので当然、家

    戦国秘話ヒソチリア!あなたとNHKの知らない伊達政宗の5つの秘密 - 歴史ニュースウォーカー
  • 織田信長の居館跡から金箔瓦、国内最古の可能性 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    岐阜市の岐阜城の麓にある織田信長の居館跡で、金箔(きんぱく)瓦が出土したと同市教委が26日、発表した。 金箔瓦はこれまで、信長が岐阜から拠点を移した滋賀・安土城(1576年築城)にふかれたのが最初とされており、国内最古の可能性がある。 出土したのは28センチ四方、厚さ3センチの瓦の一部。ボタンと菊をあしらったものとみられ、分析の結果、漆を接着剤にして金箔を貼った痕跡が確認された。 信長が安土城に移った後、岐阜には子の信忠が住んでいたが、市教委は瓦のデザインの特徴や、後にふかれた瓦と形状が異なる点、瓦をふいた後に金箔を貼った例がないことなどから、今回出土の瓦は信長時代の可能性が高いとみている。 中井均・滋賀県立大准教授(考古学)は「金箔瓦は、信長時代の庭園跡と同じ地層から見つかっており、その頃のものであることはほぼ間違いない。今後、瓦の形状や作り方の分析でさらに年代を精査していく必要がある」

  • 1