何があったのかわかんないんだけどさ、当時の日本には特別な何かがあったと思うんだよね。まだ小学生だった俺が今でも感じるんだから相当な何かがあったんだと思う。でもわかんないんだな。音楽もドラマも政治も何もかもがあの頃は特別な何かを背景にしていたように思う。あの何かがまた帰ってきてくれねぇかなぁ。
www.huffingtonpost.jp この記事のことなんですけど。 なんでここまでブックマークコメントで反発されているのか、と考えた場合、日本人は歴史的経緯を無視する傾向があるからじゃないでしょうか? 例えば、アニメや漫画では現実では見聞きしたことのない訛りの外国人が登場します。これが中国人だと語尾は「~アルヨ」とか、「~ヨ」が定番ですよね? さすがにステレオタイプすぎる描写のためか最近では見かけることが減りましたが、今でもスポーツ新聞では見かけます。僕の記憶だと、サッカー日本代表の元監督である岡田さんが中国のサッカークラブの監督に就任した際、現地人のインタビューコメントの語尾が全部「~ヨ」だったと思います。 スポーツ新聞は思想的な右左関係なく大手新聞社と資本関係があることが多いですから、そんなスポーツ新聞社で認められている表現ということは、これはもう文化的に許容されている描写だと言
何が突然のブームになるか、わからんもんだよねえ。自分だって昔からとても好きだったわけじゃなく、通り一遍しか知らなかったですよ。 どんな分野でも、突然こういうことは起こり得るのかもしれない… そういう動きの、実はtwitter上では中心になっていた気がする、「まとめ管理人」氏のツイートからいろいろ派生したり、検索してまとめた「突然の室町ブーム」を振り返る。 ツイートを使わせていただいたアカウントはこちら(※追加は除く) 続きを読む
沖縄戦の際に住民83人が「集団自決」に追い込まれた沖縄県読谷(よみたん)村の洞窟「チビチリガマ」が荒らされた事件で、沖縄県警嘉手納署は15日、県内の16~19歳の少年4人を器物損壊の疑いで逮捕した。16日発表した。4人は容疑を認めているという。 逮捕されたのは、いずれも本島中部在住の無職や型枠解体工の少年4人。嘉手納署によると、4人は5日正午ごろから12日午前11時ごろまでの間に、読谷村波平のチビチリガマで、看板2枚や額1枚、供えられていた千羽鶴4束を壊した疑いがもたれている。 チビチリガマは読谷村が戦争遺跡として文化財に指定し、平和学習の場として活用されている。12日午前、千羽鶴が引きちぎられたり、洞窟の奥にあった遺品のつぼや瓶などが割られたりしているのが見つかり、遺族会が15日、嘉手納署に被害届を提出していた。県警は動機などについても調べる。(上遠野郷) ◇ 〈チビチリガマ〉 読谷村に
この国会質疑は必見だと思います。今話題の教育勅語の本質が理解でき、歴史を振り返ると共に浮かび上がってくるのは、安倍政権が取り戻そうとしている方向性が、15回もの出兵と4回の戦争を起こした戦前の70年であると、自ずと理解できます。安倍政権が排除されなければならない大きな理由がそこにあると思います。その手段として、森友学園を巡る嘘が暴かれ、政権ごと崩壊すれば良いと思います。 横路孝弘議員の質疑は、問題教師を諭すような校長先生のようで、稲田大臣を救うために改心を促しているようにさえ見えます。これで何かしら変化が起こらなければ、自滅していくしかないと思います。 横路議員:今日は稲田大臣にですね、あなたの歴史観とか、或いは教育観とか、そういうことを主に質問をしますので、自分の言葉でお答えを、考えを率直に言っていただければというように思います。 1つは籠池前理事長が、テレビで発言するのを見たんですが、
モアの本の中では、ある旅人が、理想郷と思える国をモア達の前で開陳するという構成でかかれています。 このユートピアは原始共産主義の思想が反映されているのですが、モア達の時代は、絶対主義の時代に入りかかった頃なので問題になることを避け、それを伝聞という形でごまかしています。 人間の性善説に依り掛かっていることが、見て取れるし、作中のモアの言葉にしても肯定的ではありません。 モアが描くユートピアという国は、回りは暗礁に囲まれた三日月型の島で、この国には54の都市があり、各都市は1日で行き着ける距離に建設されています。都市には6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えがおこなわれます。首都の名前はアーモロート。 各都市には家を単位とした管理体制があります。30戸から族長が選ばれ(各都市に2000人)そして10人の族長から主族長が選ばれます(各都市に200人)。そして主族長から市長が選ばれるの
普段から早稲田大学について書いている私にはワクワク(?)するようなニュースが飛び込んできた。本学教授に文科省の天下り官僚がいたという話である。何をいまs(略) ニュースに関しては以下あたりを参照してほしい。 バレバレであるし匿名とも思えないので明かすと、件の教授は早稲田大学政治経済学術院並びに大学総合研究センター所属の吉田大輔先生である。 http://researchers.waseda.jp/profile/ja.994345f134ed57e0280ce85d55eef2af.html 上記リンクに先生の担当されている講義も上がっているが、「著作権」絡みのものを2つ担当されているようだ。春学期は週1コマ、秋学期は前半が週3コマ、後半が1コマ、授業数から見るに「大学総合研究センター」の仕事が主である(らしい)。 さて、この大学総合研究センターというところは一体どういうところなのだろうか
この時代を通過してきた人もそうでない人も、この写真が何を示しているかわかるはずです。これは1968年、4月にマーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師、その2か月後の6月にロバート・ケネディが暗殺された年に撮られた写真です。ベトナム戦争に対する反戦運動が高まる中、多くの都市で学生運動や反戦運動が起こると同時に、アメリカ国内のいたるところで人種差別が引き金となった暴動や警察との衝突で多くの人が命を落としました。アメリカ、そして世界が揺れに揺れた年です。 その真っただ中に行われたのが、1968年のメキシコシティオリンピックでした。 世界が大きな変動の中にあったその年のサマーオリンピックで、1968年10月17日夕刻、メダル授与のために表彰台に上がった二人のアメリカ人が史上に残るある行為を行いました。 男子200メートル競争を世界記録で優勝したトミー・スミスと3位に輝いたジョン・カーロスが、アメリ
どうも!コバヤシです。 いやぁ、ビックリしましたね。国民的アイドルグループSMAPが解散するそうですよ。今までお疲れさんでしたねぇ。 正直、ぼくにとっては興味深いと思えるほどではないエンタメのいちニュースなのですが、とあるひとつの視点からだけ見ると非常に興味をそそられるので書くことにします。 あくまでもぼくの主観でオッサンの戯言です、言っときますけど。 ぼくとSMAP 「ぼくとSMAP」とか言ってもぼくがスマップのファンなわけじゃなし、ましてやメンバーでもない(何言ってる)、そして個人的に知ってるってわけじゃない(当たり前)ので何もないのですが、妹が中学生のころ光GENJIの熱烈なファンでして。アホじゃないかとそれを見ていたわけですが。 で、妹がテレビに光GENJIが出るとかいうと観てるわけですよ。キャーキャーいいながら。そのときに光GENJIの後ろでスケボーに乗っていたのがSMAPだった
「ディストピア」とはユートピアの反対語。理想郷じゃない場所のことだ。「日本スゴイ」ならユートピアなんじゃないの?と思いながら読みはじめると、戦時下に行われたプロパガンダによって洗脳された日本人の姿に戦慄させられる。言葉の力は強大だ、プラスに働いてもマイナスでも。 本書には昭和初期から終戦までに出版された、当時の「日本スゴイ」本の中から「日本主義」「礼儀」「勤労」など、現代にも通ずる日本礼讃キーワードごとに、膨大な本を吟味していく。こんなことが大真面目に語られていたかと驚くばかりである。 そもそも「日本スゴイ」のネタの原型はどこにあるのか。探っていくと見つかったのは週刊新潮の版元、新潮社が出していた月刊総合雑誌「日の出」であったのだ。 満州事変を契機とする日本の国際連盟脱退を受けた「日の出」1933年10月号には「世界に輝く日本の偉さはこゝだ」という特別付録が付いていた。地球上に全く孤立無援
天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を宮内庁の関係者に示されていることが分かりました。数年内の譲位を望まれているということで、天皇陛下自身が広く内外にお気持ちを表わす方向で調整が進められています。
明治35(1902)年7月11日の朝日新聞に、『哀れの一家(差配人の美挙)』という記事が掲載された。 哀れの一家というのは本所区若宮町の194番地に住む石坂家の人々である。なぜ番地まで分かるのかというと、新聞紙に掲載されてしまっているからだ。 現代では考えられないことではあるが、このあたりの時代だと、良いことをしても犯罪を犯しても、住所氏名つきで掲載されてしまう。なぜそんなことになっているのか、詳しく書き始めると長くなってしまうので、現代とは常識が違うのだといったところで納得してもらいたい。 若宮町の石坂一家に話を戻そう。当時、石坂一家はかなりのピンチに陥っていた。 3年前に大黒柱の父親を失い、16になる息子の弥太郎は呉服屋で奉公をしていた。奉公とは今でいう住込みバイト、あるいは相撲部屋への入門をイメージしてもらうと分かりやすいだろう。弥太郎は呉服屋で、雑用をしながら一所懸命に仕事を覚えて
フィリップ・ショート著 『ポル・ポト ある悪夢の歴史』 山形浩生の「訳者あとがき」によれば、本書は「現時点で最も詳細なポル・ポトの伝記」であり、「今後予想外のクメール・ルージュ文書が発掘されるという等の事件でもない限り、これ以上のものは今後もおそらく出現しないだろう」(p.680)とのことである。 当然ながら「きわめて高い評価」を得ているのだが、主に二つの大きな批判もあるという。 一つは「ポル・ポトやクメール・ルージュが歴史的にも類を見ない蛮行を展開したのか」という謎について、著者はそれを「カンボジアの国民性」に帰していることである。 本書に収録されている写真に、1960年代の内戦で、政府軍兵士が共産軍兵士の生首を勲章代わりに持ち帰っているというものがある(苦手な方は注意)。その後クメール・ルージュが行った蛮行も考え合わせると、カンボジア人がとりわけ残虐であるというイメージを抱いてしまう
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