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2023年8月2日のブックマーク (10件)

  • 一ビアンから見た水星の魔女の炎上問題

    私は同性愛者の、身体の性別も心の性別も女です。私の恋愛対象は女性で、現在同じく女性の彼女(いわゆるパートナー)がいます。 カミングアウトはしたりしなかったりです。 聞かれてもお互い負担がなさそうな人には答えてます。 特に隠してもなければ、積極的にカミングアウトもしてません。 (プレッシャーに感じる人もいるだろうから実際は当に数人にしか言ってない気がします。あといざという時に連絡とか命に関わるかもしれん極一部の会社関係者くらい) あくまで一個人の、同性愛者という側面をもった一人の一般人の愚痴として残しておくために書きます。 かなり私情もあるし、全員が全員そうだという風には捉えないでほしいという前提で読んでもらいたいです。 水星の魔女は2人で仲良く最後まで見ていました。 元からそういう要素があるから興味をもっていたわけでもなく、当時お互いに別のロボットアニメにハマっていたのでその延長で見てい

    一ビアンから見た水星の魔女の炎上問題
  • ピニャータ - Wikipedia

    マルコ・ポーロの旅行記、『東方見聞録』によると、ピニャータの起源は、中国であり、新年の祝いに使ったという。[1]それは、牛、水牛などの形に作ってあった。それらは、色紙で包まれており、中には、5種の種が入れられていた。彼らは、それを色のついた棒で叩き、後ではそれを燃やし、その年の幸運を願って灰を集めたという。後の14世紀頃、イタリアでは、その習慣は、カトリック教会の伝統である四旬節の際に取り入れられた。その最初の日曜は、「ピニャータの日曜」と呼ばれたという。それが、スペインに伝わると、「ラ・ピニャータのダンス」と呼ばれるようになった。[2]当地では、素焼きの水がめ用の土器が使われた。後には、新大陸のメキシコにて広まり、そこで一般的になった。 また一方、既に、アステカ文明で、神の祝祭に似たような事が行われていたともいう。彼らは、太陽神、軍神、狩猟神であるウィツィロポチトリの生誕の祝いを12月中

    ピニャータ - Wikipedia
  • 第78回 秀吉は醍醐花見で何をみたか - 粟津征二郎の紀行エッセイ

    〜重文屏風に描かれた豪華絢爛の絵巻〜 関 西の桜は九州、関東に比べて開花が遅く、ようやく見ごろを迎え、満開は7日前後になるだろう。歴史に残る最大の花見イベントは太閤秀吉の醍醐花見をおいて ない。千葉・佐倉にある国立歴史民俗博物館所蔵の「醍醐花見図屏風」に描かれた花見風景は、準備の期間、金をかけた空前絶後の宴であった。 京の東山連峰の東に位置する山科盆地は大津市と宇治市に 接し、京の三条へ続く東海道が逢坂山を越え、追分で奈良街道に分れる。街道を南に行くと醍醐寺の総門がある。醍醐寺は醍醐山(標高450㍍)の麓から山頂 にかけて伽藍が並び、山手を上醍醐、麓を下醍醐といい、総称して深雪山醍醐寺と呼んでいる。世界文化遺産に登録の古刹である。いまから1040年前、平安 時代(貞観16年)に空海の実弟、真雅に学んだ聖宝(しょうほう)が山で翁に出会い、翁は谷の水を飲み、「醍醐味かな」とほめたあと、衆生救済

    第78回 秀吉は醍醐花見で何をみたか - 粟津征二郎の紀行エッセイ
  • 醍醐の花見 - 歴史チップス

    始めまして、こんにちは。私、石田三成(「石田氏系図」参照)と申します。 はい、そうです。いわゆる関ヶ原の戦において、徳川家康(「徳川氏系図」参照)に無謀な戦いを挑んで滅び去った、あの武将のことです。 もちろん、私はあの戦いを無謀だとは思っていませんでした。頭数だけなら、十分家康に対抗できるだけのものを集めたつもりでした。けれども、心が集まりませんでした。口惜しい限りです。できることなら生まれ変わって、もう一度家康と戦ってみたいものです。 関ヶ原の戦についてお話したいことは山とありますが、またいつかお話しすることにして(「変節味」参照)、今回は、太閤(たいこう)秀吉様(「豊臣氏系図」参照)の今わの際の御豪遊「醍醐の花見」について、お話ししたいと思います。

  • 京都 醍醐寺 文化財アーカイブス

    慶長三年(1598)三月十五日、豊臣秀吉(史料1)は醍醐寺において花見を行いました。その様子について醍醐寺三宝院門跡義演准后(史料2)は日記に次のように記しています(「義演准后日記」以下「義」、同日条)。 今日太閤秀吉が(醍醐寺に)お渡りになられた。(淀公や北政所を始めとする)「女中」らもおのおのお成りになり、終日桜を御覧になられた。路次や茶屋などの贅を尽くしたあり様は、言葉では言い尽くしがたいほどである。何の問題もなく、無事に(太閤たちは)お帰りになられた。 そして義演はこの花見を「一寺の大慶」「一身の満足」であったと述べています。この時に秀吉や秀頼、前田利家らが詠んだ和歌の短冊が今も醍醐寺に残されています(史料3「醍醐花見短籍」)。 「醍醐の花見」に先立つ前年三月、秀吉は俄に醍醐寺を訪れ、桜を観賞しています(「義」慶長二年三月八日条)。その時の美しさが忘れられなかったのか、翌年二月、秀

  • 東庵先生には曲直瀬道三という実在モデルがいた! 戦国時代の「名医」について考える【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    「麒麟がくる」で堺正章さん演じる京都の医師・望月東庵先生には、モデルにしたと思われる実在の医師が存在する。曲直瀬道三。朝廷や諸大名などの権力者の診察をした戦国の名医について、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。 * * * 正親町天皇も診察した名医がいた 『麒麟がくる』には、物語の重要なカギとなる架空の人物が二人、登場する。少女時代、光秀に思いを寄せていた庶民の女性駒(演・門脇麦)と、駒が身を寄せる京の町医者望月東庵(演・堺正章)だ。 この望月東庵先生、なぜか織田信秀(演・高橋克典)や今川義元(演・片岡愛之助)と付き合いがあったり、正親町天皇(演・坂東玉三郎)の囲碁の相手をしたりする、正体不明の医師でもある。 正親町天皇と囲碁を打ったかどうか

    東庵先生には曲直瀬道三という実在モデルがいた! 戦国時代の「名医」について考える【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
  • 戦国時代の医者たち

    「麒麟が来る」第一話で「望月東庵」なるお医者様が出てきましたね。 この人はどうも架空の人物、ということですが、戦国時代にはどのようなお医者さまがいたのでしょうか。 調べてみました。 田代三喜武蔵国出身で、「医聖」とまで称された医師です。僧侶となった後、明(中国)へ渡り、医学を修めました。 10年ほど明国で過ごした後、日へ帰り、古河公方(下総国にいた、足利将軍家の分家)に招聘され、そののち武蔵へ帰り、多くの民衆の命を救いました。 弟子のひとりに曲直瀬道三がいます。 永田徳甲斐国を中心に活動した医師です。田代三喜から中国由来の医術を学び、また修験道なども修めました。 戦国大名の武田信虎・武田信玄親子の侍医となりましたが、武田家滅亡後は、各地を漂泊して民衆の診察に従事しました。 一説では118歳で亡くなったといわれており、かなり長生きしたようです。 曲直瀬道三上記田代三喜の弟子。近江源氏の佐

    戦国時代の医者たち
  • 第11話「家康が愛でた熱海の湯」

    あたみ歴史こぼれ話(編) 「あたみ歴史こぼれ話」第11話(令和2年(2020年)3月号掲載) ※広報あたみの原をご覧になりたい場合は、 以下のリンク先からご覧ください。広報あたみ令和2年(2020年)3月号あたみ歴史こぼれ話―編の後に このコーナーでは、「あたみ歴史こぼれ話」で 掲載しきれなかったことを中心にご紹介します。 編を読み進んだ後に、ご覧ください。 【徳川歴代将軍お気に入りの熱海温泉】 熱海温泉は、家康をはじめとした徳川幕府歴代将軍に愛されてきました。 家康は熱海を訪れ7日間の湯治を行ったこと、3代将軍家光は湯治を計画し 現在の熱海市役所付近に「熱海御殿」を建造したことは、広報あたみ3月号で ご紹介しました。 このページでは、4代将軍家綱以降にも熱海温泉が愛されたことについて、 もう少し詳しくご紹介します。 4代将軍家綱の時代から、熱海の湯が江戸城まで運ばれたとされていま

    第11話「家康が愛でた熱海の湯」
  • 徳川家康が河川工事から手をつけた3つの理由 107の川がある東京の魅力とリスク

    都内には107の河川がある 東京の地図を広げてみて目立つのは、都内を流れる多くの川、縦横無尽に走る道路と鉄道、そしてその間に広がる住宅や商店、学校です。とりわけ目につくのは東京とは非常に「水」に恵まれた都市だということです。 東京都内には現在、一級河川として多摩川水系、利根川水系、荒川水系、鶴見川水系という4つの水系があり、この水系を中心に92の一級河川が展開しています。これに二級河川を含めると、都内にはなんと107もの河川が存在しているのです。延長距離は858kmにも及んでいます。 しかし東京の河川は、もとからこのような水系だったわけではありません。現在の水系が整ったのは1962年に新中川が完成したときであり、その完成をもって、今の東京の基形ができあがったと言うべきでしょう。 江戸幕府を築いた徳川家康が入府したのは1590年(天正18年)ですが、当時の水系は渡良瀬川が直接江戸湾に流れ込

    徳川家康が河川工事から手をつけた3つの理由 107の川がある東京の魅力とリスク
  • 17世紀の大都市計画―江戸のまちづくり | 東京 日本橋 | 日本文化の今と昔を体験できるまち、東京・日本橋

    16世紀末に徳川家康が入府した江戸には、1457年に建てられた中世以来の江戸城と戦乱で荒廃した城下、港町の集落と周辺の村々がある程度で、家康と大勢の家臣団が居住するには狭すぎるものだった。家康は、最初に城の拡充に着手し、建築資材や蔵米などを江戸湾から舟で城に直接運ぶための水路を開き、城の工事で開削した堀の揚土で日比谷の入江を埋め立てた。城の周囲には家臣団の屋敷を配置した。そして、城の常盤橋門外から東の浅草方面へ向かう街道に沿って町の町割りを行った。町とは「江戸の根の町」という意味で、道幅を約12mとし、通りの南北両側に幅・奥行きとも約120mずつの町地を造成して、これらの町に商人を居住させている。金座や町年寄などの屋敷もこの町に沿って配置された。 家康は1603年に征夷大将軍となって幕府を開くと、江戸を全国の政治・経済・文化の中心地にするための格的都市計画事業を開始した。この事業

    17世紀の大都市計画―江戸のまちづくり | 東京 日本橋 | 日本文化の今と昔を体験できるまち、東京・日本橋