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ブックマーク / imawazukan.blog.shinobi.jp (12)

  • 中世人今際図巻 那須 資藤

    《戦死》 《1355年》 《3月》 《12日》 《享年不明》 那須資藤は、 下野の豪族那須氏の一族であるが、 惣領ではなく、有力な庶流ではないかとされている。 観応3年(1352)、 足利尊氏は、弟直義との対立に決着をつけたものの、 この間に、雌伏していた南朝方が息を吹き返し、 さらには、 敗れた旧直義党が、南朝方と手を組んだため、 戦争はなお収まることがなかった。 ことに、 京都をめぐる南朝方と足利方(北朝方)の争いは、激しさを増しており、 一時は、 光厳・光明・崇光三上皇と東宮直仁親王を、南朝方に拉致されるなど、 北朝は苦境に陥っている。 尊氏・義詮と南朝・旧直義党の京都争奪戦は、 苛烈をきわめたのであった。 文和3年末、 南朝方と旧直義党の軍勢が京に迫った。 尊氏とその子義詮は、 防衛に不向きな京都を去り、 それぞれ近江・播磨に移り、挟撃の態勢をとった。 翌文和4年(1355)正月、

  • 中世人今際図巻 北条 仲時

    《自害》 《1333年》 《5月》 《9日》 《享年28歳》 六波羅探題北方、 信濃守護。 元徳2年(1330)末、 北条仲時は、上洛して六波羅探題北方に就任。 最初の討幕計画に失敗した後醍醐天皇が、 再び討幕の意を強くしている頃であった。 翌元徳3・元弘元年(1331)、 後醍醐天皇が2度目の討幕計画を起こすに及び、 笠置山に籠った後醍醐天皇を捕えて、鎌倉幕府の命により隠岐に流した。 その後、 畿内山岳部でゲリラを続ける楠木正成・護良親王らの討伐に当たった。 だが、 時代の趨勢は倒幕に傾き、 翌年には、山陰・山陽・四国・九州で反幕府勢力の挙兵が相次ぐ。 元弘3・正慶2年(1333)、 彼らに迎えられて、後醍醐天皇、隠岐脱出。 こうした危機的状況に、 鎌倉幕府は、足利高氏(のち尊氏)らに大軍をつけて、 関東から西へ遣わす。 しかし、 その高氏も、丹波篠村にて幕府より離反、 踵を返して、 播

  • 中世人今際図巻 北条 泰時

    《病死》 《1242年》 《6月》 《15日》 《享年60歳》 第3代鎌倉幕府執権。 承久3年(1221)の承久の乱では、 幕府軍の総大将として上洛し、 乱を鎮定後も、六波羅探題北方として、 京都・畿内・西国の支配に当たった。 元仁元年(1224)6月、 2代執権である父義時の死をうけて、 鎌倉に帰り、執権となった。 その後、連署・評定衆を設置するなど、 幕府政治の刷新を図り、 貞永元年(1232)には、 武家最初の法典『御成敗式目』を制定。 鎌倉周辺の街道・港湾の整備、 鎌倉大仏建立の支援などもしている。 北条泰時は、鎌倉幕府権力確立の立役者として名高い。 仁治3年(1242)、 泰時は所労により、病臥した。 5月8日、出家。 10日には、 小康状態となり、事も摂ったが、 翌11日より悪化、 12日、さらに悪化し、 15日未の刻(午後2時頃)から、人事不省、発熱。 高熱のあまり、人を寄

  • 中世人今際図巻 諏訪 頼重

    《自害》 《1335年》 《8月》 《19日》 《享年不明》 信濃諏訪大社の祠官。 北条得宗家の被官。 元弘3年(1333)、 新田義貞によって北条高時以下鎌倉北条氏一門が滅ぼされると、 高時の遺児時行を逃がし、匿ったのは、 信濃の諏訪氏一族であった。 後醍醐天皇の建武の新政が始まって、2年目の建武2年(1335)、 西園寺公宗による後醍醐政権の転覆計画が謀られていた。 計画は、京都にひそむ北条高時の弟時興を中心に、 時行ら各地の旧鎌倉幕府勢力を糾合しようというものであったが、 未然に漏洩して失敗。 機を逸した時行・諏訪頼重らであったが、 7月、挙兵。 信濃より上野を経て、武蔵に入り、 各地で、渋川義季・岩松経家・小山秀朝ら討伐軍を破って、 鎌倉に迫った。 鎌倉将軍府(建武政権の出先機関)の成良親王・足利直義は、 鎌倉を脱出するも、各所で時行軍の追撃を受けた。 かくして、鎌倉を占領した北条

  • 中世人今際図巻 矢部尼

    《病死》 《1364年》 《2月》 《13日》 《享年87歳》 室町幕府2代将軍足利義詮に、召仕として仕えていた。 出自等は未詳。 貞治3年(1364)2月13日酉の刻(夕方6時頃)、 矢部尼、他界。 すこし前から、急に体調を崩して、 将軍邸を退いていたという。 中原師守は日記に、 「老病か」(『師守記』) と記しているから、 老衰だろうか。 「中世人今際図巻」、長寿記録更新。 〔参考〕 『大日史料 第六之二十六』 (1933)

  • 中世人今際図巻 性恵

    《病死》 《1441年》 《5月》 《28日》 《享年26歳》 伏見宮貞成親王第一王女。 父貞成、45歳のときの、待望の第一子である。 三時智恩寺(入江殿)方丈。 嘉吉元年(1441)3月、 京都周辺で、疱瘡(天然痘)が流行。 後花園天皇や後崇光院伏見宮貞成親王の周辺でも、 感染者が相次いだ。 3月14日、性恵も感染し、 母庭田幸子の見舞いを受けた。 17日、病状が思いのほか重篤であるとして、 再び母の見舞いを受けたが、 「今日はいささかよき様なり」(『看聞日記』、以下同) と、元気な様子を見せたらしい。 この日、 伏見宮家の仕女新大夫が、罹患のため宮亭を退出。 貞成親王の近臣庭田重賢もまだ癒えず、宮家に祗候していなかった。 性恵の実弟後花園天皇も罹っている。 21日にも、母幸子は娘性恵を見舞う。 病状は変わらず。 将軍足利義教から医師が遣わされ、 また父貞成親王も、医師和気茂成を遣わして

  • 中世人今際図巻 常磐井宮 恒明親王

    《病死》 《1351年》 《9月》 《6日》 《享年49歳》 一品、式部卿。 亀山法皇と昭訓門院瑛子の皇子。 大覚寺統の祖亀山院の末子として、 乾元2年(1303)5月9日に生まれた恒明親王は、 父の寵愛を一身に受けた。 おりしも、 持明院統と大覚寺統の対立が、 鎌倉幕府も巻き込んで、激化していく時期であった。 嘉元3年(1305)9月、 死に臨んで亀山院は、 恒明の立太子を、後宇多院と持明院統の伏見院に了承させ、 後見に、伯父(瑛子の兄)で関東申次の西園寺公衡を立てた。 こうして、大覚寺統の継嗣に立てられた恒明であったが、 しかし、 恒明の異母兄後宇多院は、立太子の約束を履行しようとせず、 後二条天皇の父として、政権を握り続けた。 皇統と政権の移動をねらう持明院統は、 対抗上、恒明を立てて、後宇多院を非難。 恒明の後見西園寺公衡も、後宇多院と対立し、 その所領を没収されて、籠居を余儀なく

  • 中世人今際図巻 高 師直

    《誅殺》 《1351年》 《2月》 《26日》 《享年不明》 初代室町幕府足利尊氏の執事。 高家は、代々足利家執事を務める家柄で、 高師直も父祖同様に、当主尊氏の執事となった。 南北朝内乱においては、 戦場での活躍にも、目を瞠るものがある。 建武3年(1336)5月、 北九州で勢力を挽回して、東上する尊氏に随い、 摂津兵庫において、尊氏の弟直義とともに、 南朝方新田義貞・楠木正成を破る。 暦応元年(1338)5月、 奥羽勢を率いて西上した南朝方北畠顕家を、 和泉堺浦で敗死させ、 貞和3年(1347)、 弟師泰とともに、河内の南朝軍を叩き、 翌4年(1348)正月、 楠木正行を、河内四条畷で討ち取り、 同月末には、 南朝の拠大和吉野に攻め入って、 後村上天皇を、大和賀名生に逐った。 越前金ヶ崎で、新田義貞を破った弟師泰といい、 常陸で北畠親房らを征圧した養子師冬といい、 師直の一族は、“武

  • 中世人今際図巻 赤橋 登子

    《病死》 《1365年》 《5月》 《4日》 《享年60歳》 北条氏一門赤橋久時の娘。 室町幕府初代将軍足利尊氏ので、 2代将軍義詮・初代鎌倉公方基氏の母。 正慶2年(1333)5月、 夫尊氏が、後醍醐天皇の倒幕軍に投じた際には、 子の千寿王(のちの義詮)とともに、鎌倉にあったが、脱出し、 新田義貞らの倒幕軍と北条氏一門の、鎌倉市街戦には、 巻き込まれずには済んだ。 ただ、 鎌倉幕府最後の執権をつとめた兄守時は、 同年5月18日、 鎌倉巨福呂坂で、新田勢と戦ったのち、自刃。 鎮西探題であったもう一人の兄英時も、 同年5月25日に、 九州の少弐貞経・大友貞宗らに敗れて、 筑前博多で自害した。 赤橋登子にとって、 夫尊氏は、親兄弟の仇の筋に当たらなくもない。 その夫尊氏が、 延文3年(1358)4月30日、没すると、 出家して、尼となったらしい。 貞治3年(1364)頃より、 悪瘡により、病

  • 中世人今際図巻 足利 基氏

    《病死》 《1367年》 《4月》 《26日》 《享年28歳》 初代鎌倉公方。 室町幕府初代将軍足利尊氏の子で、 2代将軍義詮の弟。 叔父足利直義の養子になっていたとも。 貞和5年(1349)、足利方の内訌(観応の擾乱)に際し、 19歳の兄義詮が、鎌倉から京都へ召喚されると、 代わって9歳の足利基氏が、京都から鎌倉に遣わされた。 こうして、幼い基氏が、 兄と入れ替わるようにして、 関東における足利方の中心、“鎌倉公方”となったのである。 その後の観応の擾乱では、 幼少だったためか、 尊氏方に担がれたり、直義方に奪取されたりしたが、 擾乱の終息とともに、鎌倉に戻った。 文和3年(1353)7月から康安2年(1362)9月の間は、 越後・上野や武蔵の反乱分子を抑えるべく、 武蔵入間川に長期在陣する。 その間も含め、 延文3年(1358)10月には、 武蔵矢口渡で南朝方新田義興を謀殺し、 延文4

  • 中世人今際図巻 日野 勝光

    《病死》 《1476年》 《6月》 《15日》 《享年48歳》 西行の和歌、 ねがはくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ にもあるように、 中世の人々は、 15日の夜、つまり満月の夜に往生することを願った、という。 前内大臣日野勝光も、15日往生を求めたひとりだった。 日野流の分家裏松政光の嫡男として生まれた日野勝光の幼少期は、 祖父義資の横死や宗家の有光の失脚、有光の子資親の処刑など、 日野家受難の時代であった。 勝光は、廃絶した日野宗家の家督を継いで、その再興を果たすと、 やがて受難の時代は去り、 勝光は順調に昇進したばかりでなく、 妹富子が、8代将軍足利義政の正室、9代将軍義尚の母、 さらに、娘が義尚の正室となり、 将軍家の外戚という、かつての日野家の位置を取り戻した。 そればかりか、 応仁・文明の乱という政治の混乱期にも暗躍し、 足利義政・義尚の側近くにあって、大いに権勢をふ

  • 中世人今際図巻

    《病死》 《1357年》 《閏7月》 《19日》 《享年55歳》 左大臣洞院実泰の娘。 嘉元元年(1303)の生まれで、母は中務大輔藤原兼頼の娘。 異母兄に北朝の太政大臣洞院公賢、同母弟に南朝の左大臣洞院公泰がいる。 鎌倉時代末期、後醍醐天皇に仕えて、皇子女を産んだ。 そのうち皇子の玄助法親王は、のちに興福寺一乗院門主となったが、 いずれも早世したようである。 いつのころか、従二位に叙されている。 建武3年(1336)に後醍醐天皇が吉野に出奔した際の、守子の動向は定かでないが、 兄弟の公賢・公泰らと同じく、京都に留まったか。 またいつのころか、出家している。 正平6年(1351)末、同母弟公泰が南朝へ奔った際にも、守子は京都に留まっていたようで、 延文2年(1357)6月からは、 異母兄公賢の居邸の北隣に住していた。 その転居から2ヶ月後の閏7月18日の夕刻、 守子は大中風を起こして危篤と

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