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2021年3月14日のブックマーク (11件)

  • 拙著『乱世の天皇』見どころ11ー海域アジアへの目配り - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    これはまあ、ゆるく自慢が入ってますが、拙著『乱世の天皇』の見どころの一つは第八章「後花園天皇の時代の海域アジア」です。後花園天皇ので海域アジアとの関係を述べた書物は初めてでしょう。というか、後花園天皇の評伝が初めてでした。 というネタはさておき、2020年に入って一斉に出てきた室町天皇の中で拙著の特徴はこの第八章です。類書では海域アジアに関する記述は群を抜いていると思います。 これは結局どこに目配りをするか、という問題で、そこそこ限られた紙幅の中でどれを取り上げ、どれを省くか、というのは筆者の問題関心によります。 私はもともと対外関係史を修士論文で取り上げたことや、しばらく北海道史にも関心を寄せていたこともあって、やはり海域アジア視点の章を入れたかったわけです。 あくまでも後花園天皇を中心に室町時代の天皇を取り上げるわけですから、同時代の王権と比べないと意味がありません。 第八章では後

  • 脳みそ夫「勉強不足を痛感」アイヌ民族巡る表現謝罪 - 芸能 : 日刊スポーツ

    お笑い芸人の脳みそ夫(41)が14日、ツイッターで、12日の日テレビ系情報番組「スッキリ」(月~金曜午前8時)内のコーナーでアイヌ民族の女性を取り上げたドキュメンタリー作品を紹介した際のアイヌ民族を傷つける不適切な表現を謝罪した。 ツイッターに、直筆の文書を掲載する形で「この度は、ドキュメンタリー作品の出演者ならびにアイヌ民族のすべての皆さまにお詫び申し上げます。今回の件で僕の勉強不足を痛感しました。知らなかったとはいえ、長い年月にわたりアイヌの皆さまが苦しまれてきた表現をすることになってしまいました。大変申し訳ございませんでした」と謝罪した。 所属事務所タイタンの太田光代社長の知人の力添えで、同作品の出演者に会う機会を得たといい「誠心誠意謝罪の気持ちを伝えて参ります」と報告。さらに「許されるなら、これを機にアイヌの皆さんの歴史や伝統、文化の勉強をしていきたいです」とし、「今後は僕なりの

    脳みそ夫「勉強不足を痛感」アイヌ民族巡る表現謝罪 - 芸能 : 日刊スポーツ
  • 優秀すぎた渋沢栄一の孫・渋沢敬三…動物学者志望の金融トップはなぜ財閥解体を受容したか | ビジネスジャーナル

    渋沢敬三、1896(明治29)年〜1963(昭和38)年。(写真はWikipediaより) 日銀総裁+大蔵大臣 最近、明治の実業家・渋沢栄一が脚光を浴びている。次に「1万円札の顔」になる人物であり、また2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け(せいてんをつけ)』の主人公になることも内定している。 だが、ここで紹介したいのは、その孫・渋沢敬三(しぶさわ・けいぞう/1896〜1963)である。 彼は29歳で第一銀行(その後、第一勧業銀行を経て、現在のみずほ銀行)取締役に就任し、45歳で副頭取に就任した。第一銀行はおじいちゃんの渋沢栄一がつくった銀行なので、これはコネによるものだろう。だが、その先がスゴイ。 1942年3月、第二次世界大戦で日の金融界が混乱する中、日銀行副総裁に引き抜かれる。これには当人も辞去したが、第一銀行の重役たちも「これは跡取り(息子)だから養子にくれというのはひどい」

    優秀すぎた渋沢栄一の孫・渋沢敬三…動物学者志望の金融トップはなぜ財閥解体を受容したか | ビジネスジャーナル
  • 『西院宮』

    『三筆』 として、嵯峨天皇、弘法大師空海、橘逸勢…って、学校で習いませんでしたか? 平安のミヤコを造りし桓武天皇のご子息で次代の平城上皇…が、のたまふ『二所朝廷 』。 しかし弟の嵯峨天皇に既に譲位をしてはるのだよ…京のミヤコをミヤコとして存続させた嵯峨帝。 ごっつ仲のヨイ空海は嵯峨天皇の為に祈る祈る祈る(このトキの神像が東寺にいてはる)。 嵯峨天皇の皇后として名をはせる『壇林皇后(=橘嘉智子/かちこ)』。 空海の影響からか、仏教マニアであったとされております。 氏族『橘氏』の為に学校を建てたり、壇林院 跡は後々『天龍寺 』が建立されたり… 弘法大師と伝教大師は共に渡海してはりますな、うんうん。 このトキのパーティーに橘逸勢はいてると聞いております。 彼は後の世でこの二人が『宗祖』になっちゃうコトを、どこまで感じていたのでしょうかねぇ~… 弘法大師に東寺を下賜、高野山開創を承諾したのは嵯峨天

    『西院宮』
  • 17代:馨子内親王

  • 『深草に眠る北朝系(持明院統)12天皇の御陵と周りのお寺たち♪【深草十二帝陵 コト 深草北陵♪】』

    深草に眠る北朝系(持明院統)12天皇の御陵と周りのお寺たち♪【深草十二帝陵 コト 深草北陵♪】 | 『エアで行く京都めぐり』大田垣晴延のblog♪ 8月10日♪祝日(月曜日)♪ 青すぎる空に誘われて、 サイクリングへ♪ ホンマは伏見稲荷行こ思てたんやけど 遅い時間なったし メインを 伏見街道(前編♪後編♪) 特に4つの橋にキリカエて… (⌒ ⌒; )ゞ 第4橋めざして走ってたら また、南下してて 左手(西側)に、こんな道標♪ 『深草十二帝陵   東三町』やて…♪ 深草十二帝陵てゆうんは、 名前の通り♪ ココ深草に眠る12人の天皇たちのお墓♪ 鎌倉~南北朝~室町~織豊時代の間の、 持明院統(北朝)の歴代天皇たちが葬られたはるん♪ 伏見街道をいったん離脱…!! だって…せっかく近く来たんやもん (((^^;) 東へと上がってく坂道… 自転車で ひたすら東へ上がってく♪ 三町て、 体感的にドレく

    『深草に眠る北朝系(持明院統)12天皇の御陵と周りのお寺たち♪【深草十二帝陵 コト 深草北陵♪】』
  • 「ひとりごちる」という現代語はあるのか、ツイッターでの論議に日本語学者・飯間先生のご意見

    くろの @kurononbiri 継続調査 ・ひとりごつは現代においてあまり使用されない語であることは確かだが継続して使われてきた語 ・「ひとりごちた」はひとりごつの連用形+過去の助動詞、「ひとりごちる」は辞書には載っていない。造語というよりは誤用か(誤用と載せている辞書もあった) twitter.com/kurononbiri/st… 2021-03-13 16:41:51 くろの @kurononbiri 現代日語書き言葉均衡コーパス少納言で検索すると「ひとりごちる」用例は赤川次郎など8例、連用形「ひとりごち-」は27例、終止形「ひとりごつ」は1例。連用形での使用が一般的であるため、ひとりごちるが一般化しつつあるということかな。ただ、辞書に登録されるほどの用例がないということか。 2021-03-13 16:53:53

    「ひとりごちる」という現代語はあるのか、ツイッターでの論議に日本語学者・飯間先生のご意見
  • 飯間浩明 on Twitter: "「ひとりごちる」という現代語があるかどうか、ツイッターで話題になり、飯間の意見が聞きたいという声もあります。私の率直な感想としては「文章語としては、まあまあ使うのでは」というところです。すでに解説があるかもしれませんが、私なりに説明してみます。〔続く〕"

    「ひとりごちる」という現代語があるかどうか、ツイッターで話題になり、飯間の意見が聞きたいという声もあります。私の率直な感想としては「文章語としては、まあまあ使うのでは」というところです。すでに解説があるかもしれませんが、私なりに説明してみます。〔続く〕

    飯間浩明 on Twitter: "「ひとりごちる」という現代語があるかどうか、ツイッターで話題になり、飯間の意見が聞きたいという声もあります。私の率直な感想としては「文章語としては、まあまあ使うのでは」というところです。すでに解説があるかもしれませんが、私なりに説明してみます。〔続く〕"
  • 後光厳天皇御消息|茨城県教育委員会

  • 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

    *このページは告知用に一番上に置いています。2ページ目からご覧ください。 2022年9月10日にイーストプレス社から渡邊大門監修『徳川家康の生涯と全合戦の謎99』が出ます。天正壬午の乱から奥州仕置きまでの家康について書いています。Q38〜Q52までが私の担当です。 www.eastpress.co.jp 2022年9月6日に雑誌『歴史群像』2022年10月号(175号)に拙著に関するインタビューが出ます。 rekigun.net 2022年7月21日に拙著『神風頼みー根拠なき楽観論の歴史』が柏書房から出版されます。 神風頼みー根拠なき楽観論の歴史 「元寇」「国体の形成」「特攻」、そして現代ニッポンに至るまで……日史を貫き続けてきた「神国思想」の正体をスリリングに検証! 「日は神風が吹く、神に守られた特別な国」という「神風思想」が生み出す「ニッポンすごい!」「独り善がりの排他主義」「根拠

    室町・戦国時代の歴史・古文書講座
  • 中世人今際図巻

    《病死》 《1357年》 《閏7月》 《19日》 《享年55歳》 左大臣洞院実泰の娘。 嘉元元年(1303)の生まれで、母は中務大輔藤原兼頼の娘。 異母兄に北朝の太政大臣洞院公賢、同母弟に南朝の左大臣洞院公泰がいる。 鎌倉時代末期、後醍醐天皇に仕えて、皇子女を産んだ。 そのうち皇子の玄助法親王は、のちに興福寺一乗院門主となったが、 いずれも早世したようである。 いつのころか、従二位に叙されている。 建武3年(1336)に後醍醐天皇が吉野に出奔した際の、守子の動向は定かでないが、 兄弟の公賢・公泰らと同じく、京都に留まったか。 またいつのころか、出家している。 正平6年(1351)末、同母弟公泰が南朝へ奔った際にも、守子は京都に留まっていたようで、 延文2年(1357)6月からは、 異母兄公賢の居邸の北隣に住していた。 その転居から2ヶ月後の閏7月18日の夕刻、 守子は大中風を起こして危篤と