2016.1.11 訃報はツイッターで知った。 相撲を見ながらDボタンで遊んでいた。 ふとタブレットをつけたらいきなり流れてきた。 何度も何度もそのニュースを読んだ。 ほどなくして、タイムラインがDavid Bowieだらけになった。 相撲どころではなくなった。 デヴィッド・ボウイ死去。私事ですが、人生初デートで観た映画の主題曲がボウイの曲だったです。御冥福をお祈りします。 pic.twitter.com/8cRa8IxYR6— 摩訶レコードbot (@jyake_ten_bot) 2016年1月11日 堪らなくカッコいい!1980年の京都で買い物をするデヴィッド・ボウイがRock youすぎる!https://t.co/b127oYvtsX— 特撮/UNDERMINER (@UNDERMINER1118) 2016年1月11日 坂本龍一さんもボウイを。 pic.twitter.com/z
「小野小町「色見えて」歌の清濁説再考 ―「て」と読むか「で」と読むか―」という卒論を提出した。小野小町の「色見えて」歌の清濁説を検討するものだ。論文は実証的なアプローチで書いたけれど、せっかくなので、ブログ的評論形式で研究の意図を紹介してみたい。 色見えてうつろふものは世の中の人の心の花にそありける(『古今集』恋五・七九七・小野小町) この歌について、「色見えて」の「て」を「て」と読むのか、「で」と読むのかという議論がある。 まず前提知識として、『古今集』の短歌のオリジナルは、 いろみえてうつろふものはよのなかのひとのこゝろのはなにそありける こういう風に、すべて平仮名で書かれていたと考えられている。今残っている写本は、適宜漢字に直されていて、例えば最も信頼性が高いとされる藤原定家自筆の伊達家旧蔵本だと、 色見えてうつろふ物は世中の人の心の花にそ有ける こういう表記になっている。今重要に
本エントリは2016年最初のブログ更新となり本来であれば本年の抱負であるとかブログ運営についての所信表明であるとか新しき年を迎えた現代の有り様についての所感など語るべきことは少なからずあるはずだが谷崎潤一郎が没後50年を迎え今年より彼の著作がパブリックドメインとなったことを私は知り青空文庫へ赴くと『春琴抄』が公開中となっていたため早速それを読み直した谷崎潤一郎と言えば変態ワールドカップ日本代表で言うところのキングカズのようなポジションにあり『春琴抄』に限って言えば私は十代の頃に一度と二十三,四の頃にもう一度と数えてみれば少なくとも二度通読しているはずであるが当時の私には佐助にも春琴にもまた二人の関係を良しとする〔作中でそれは明言されてはいなかったがわざわざあんな変な話を書き上げる以上そう見做して差し支えはなかろう〕谷崎にも感情移入することが難しくけったいな話であるという印象だけを持っていた
デビッドボウイさんが死去された。彼は名実ともに星になったのだ。 彼の兄はわかいころ精神病棟に入院していた。さらに同時期に活躍していたカートコバーンやジムモリソンなどが自死した。遺伝的にも後天的にもまた音楽家という繊細な職業的にもこうして後年にまでわたって音楽活動を続けてこれたことがもう奇跡だったのかもしれない。それでも惜しまずにはいられない。 昔から色褪せない姿と曲想は僕に色褪せない記憶と幸福を運んできてくれた。早すぎる死に悲しまずにはいられない。どうか安らかにお眠りください。 Thank you for all the happiness you brought to me. You are just like you were a long time ago. Too early to pass,I miss you. Requestcat in pace, Rest in peace
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く