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ブックマーク / knakajii.hatenablog.com (11)

  • 保守革命の「時間と自己」 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    時間と自己 (中公新書) 作者:木村敏 中央公論新社 Amazon 亡くなった木村敏は、分裂症親和的な時間を「前夜祭的(アンテ・フェストゥム)」、病親和的な時間を「あとの祭り(ポスト・フェストゥム)」と呼んだ。これらが、ルカーチ『歴史と階級意識』から借用した概念であることは言うまでもない。 ルカーチは、「現在が過去によって支配される」資主義に規定された保守的な意識を「ポスト・フェストゥム的」と形容した。それに対比させ、フランスの社会学者で精神科医のJ・ガベルは、プロレタリアートの未来希求的なユートピア意識を「アンテ・フェストゥム的」と呼んだ。「プロレタリアートが自由と革命を希求する強烈な未来意識は、新しい時代の到来という祝祭的な気分をすでに先取的に予感している点で、「前夜祭的(アンテ・フェストゥム)」というにふさわしい」(木村敏『時間と自己』)というわけだ。そして、木村はこれに分裂病者

    保守革命の「時間と自己」 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 大杉重男氏に応えて - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    『子午線』4号に掲載されている拙論に対する、大杉重男氏のブログ記事を読んだ。 http://franzjoseph.blog134.fc2.com/blog-entry-79.html 言うまでもなく、私はこの大杉の論にほぼ全面的に反対である。その理由は拙論を読んでもらえれば分かると思うので全面的には論じないが、二、三の点について述べておきたい。 まず、大杉が指摘する拙論の「事実誤認」について。大杉は、1930年代の「思想と実生活」論争が、50年代に形成された「平野史観」の「後年」ということはあり得ないと言う。 当たり前だ。大杉は、拙論の一文だけを取り上げているが、ここの「後年」とは、「平野史観」の「後年」ではなく、該当箇所直前の引用文にある、「自然主義を貫流する」「実行と芸術」というパラダイムが形成された「後年」を指す。平野謙は、「「実行と芸術」という問題意識に、近代日文学を貫流するひ

    大杉重男氏に応えて - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 中村光夫をめぐる誤解 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    中村光夫が小説家に読まれなくなった理由については、かつて次のようなやり取りがあった。 蓮實重彦 これは必ずしも私小説論には限りませんが、小説理論をおまとめになった『日の近代小説』とか、『日の現代小説』とか『小説入門』のなかで「肉声を響かせなければいけない」ということをいつも言っておられますね。その「肉声を響かせなければいけない」ということと、当時理解されていた私小説という言葉に対する先生の姿勢とは、矛盾するはずのものなわけですね。 中村光夫 そうですね。 蓮實 その矛盾を衝いた人は、いないんじゃないでしょうか。 中村 いないですね、幸いにして……(笑)。 蓮實 もちろん「肉声を響かせる」というばあいの肉声が、言葉を通していかに小説という虚構のなかに響き得るかというのが、先生の主題であるわけですね。 中村 まあ、そうですね。 蓮實 それがどうしてこれほどの誤解ができてしまったのか。それは

    中村光夫をめぐる誤解 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 大西巨人の「転向」(すが秀実) - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    2月25日に行われた、上記講演(二松學舎大学における公開ワークショップ「大西巨人の現在 文学と革命」にて)を拝聴。聴衆の誰もが感じただろうが、きわめてスリリング、圧巻の内容だった。今後、何らかの形で活字になる可能性もあるだろうから、ここでは私的な感想のみを。 一言で言えば、転向問題の、したがって革命概念のパラダイムチェンジが提起されたのではないか。 無謬の人のように思われてきた大西巨人に「転向」を見出すという視角が、まず挑発的だ(それはいまだ定まらぬ、大西の年譜問題にも関わろう)。もちろん、同時にそれは、「転向」者によってのみ、「革命運動の革命的批判」(中野重治)が可能なのだということを、より明確にすることでもある。 おそらく、このことは、すがと渡部直己による大西へのインタビュー「小説と「この人を見よ」」(『批評空間』Ⅱー24、二〇〇〇年)において、すでにすがが次のように指摘していたことで

    大西巨人の「転向」(すが秀実) - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 転向の問題 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    外山恒一の「野間易通 徹底批判」を読んだ。 http://www.warewaredan.com/noma.html むろん、両者の論争そのものに対して何か言えるわけではない。その資格もない。ただ、外山論文の第二章、「サブカル」についての歴史的な考察は、自分の考えていることに大いなるヒントとなった。 まずは、両活動家が、お互いに「サブカル」というレッテルを貼りあっていることに新鮮な驚きを覚える。両者の間では「サブカル(野郎)」が罵倒語として機能しているのだ。もはや、「サブカル」が罵倒語となり得るのは、活動家だけではないだろうか。 外山論文にあるように、この場合「サブカル」とは政治の喪失を意味する。したがって、「サブカル」とレッテルを貼られることは、「お前は非政治的だ」と言われているに等しい。確かにこれは、政治活動家にとっては致命的だろう。 かつて、文学にも「政治と文学」というパラダイムが存

    転向の問題 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 神々のたそがれ(アレクセイ・ゲルマン) その3 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    ルマータが、他の観察者(地球人)と決別するという作品の展開は、また、ロシアのみならず日の1930年代をも想起させてやまない。当時の日文学を席巻した「芸術と実行」や「政治と文学」といった問題である。 平野謙は、中野重治と「政治と文学」論争を交わすことになったのは、亀井勝一郎の影響だと言っている(『文学・昭和十年前後』)。亀井の『転形期の文学』や『文学における意志的情熱』を読み、自然主義文学における「芸術と実行」という問題と、プロレタリア文学の「政治と文学」とがつながったのだ、と。 田山花袋らが苦しんだ実行者と観照者の問題は、そのまま次元をかえて亀井勝一郎の体験者と表現者の問題としてよみがえっている。この問題を明瞭に私に悟らせてくれた人も、亀井勝一郎以外になかったのである。 平野が言うには、亀井は、小林多喜二の死やプロレタリア文学作家同盟の解散を、プロレタリア文学の敗北と受け止められずに蔓

    神々のたそがれ(アレクセイ・ゲルマン) その3 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 神々のたそがれ(アレクセイ・ゲルマン) その2 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    前作『フルスタリョフ、車を!』で、ゲルマンは、スターリンが自らの排せつ物に塗れて死んでゆく姿を描いた。これほどまでに、スターリンの死を惨めに描いた作品もないだろう。 スターリンの死を、まさにこれこそ「神の死」だとばかりに、即物=汚物的に描いたのである。と同時に、全編泥や汚物に塗れたこの『神々のたそがれ』の世界は、あのとき前作の主人公クレンスキーが、スターリンの腹を激しくさすったあまりにあふれ出た排せつ物に覆われてしまったかのような、スターリンの死後=ポスト・スターリンの世界を描こうとしているように思える。 作で「神」と呼ばれる「ドン・ルマータ」は、その神=スターリンの死後、なお神として祭り上げられた男なのである。だからこそ、「神様はつらい」のだ。 だが、ここで疑問が生じる。スターリンの死は1953年なのだから、作の舞台は1930年代ロシアではないかと述べてきたことと、それは矛盾しないか

    神々のたそがれ(アレクセイ・ゲルマン) その2 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
  • 神々のたそがれ(アレクセイ・ゲルマン) その1 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    このとてつもない怪物的な映像を、いったいどのような言葉で捉えればいいのか。何度見ても、途方に暮れてしまう。 ゲルマンは国内外で「反ソ」の作家と目されてきた。確かに、長編第一作『七番目の道連れ』(1967)で、早くも達成二年後に裏切られた革命を描き(トロツキー的?)、続く『道中の点検』は、ゴルバチョフのペレストロイカまで公開されなかった(あの「反スタ」ソルジェニーツィンも秘密上映会で見たがっていたという)。前作『フルスタリョフ、車を!』では、とうとうスターリンの死を、観念的にではなく、その死後硬直した遺体=肉体を画面にさらけ出すという不敬を働いた。ゲルマン自身、自分は党員ではなく、共産党映画で論争していたと公言している。 だが、反ソでありながら、単なる反スタや、反革命ではなかったところに、この監督の真骨頂があろう。「ロシアは悪の国家なのに、ロシア人は善人なのです」。ゲルマンの言葉には、彼が

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  • 江藤淳と大江健三郎 戦後日本の政治と文学(小谷野敦) その1 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    江藤淳と大江健三郎: 戦後日政治と文学 (単行) 作者: 小谷野敦出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2015/02/25メディア: 単行この商品を含むブログ (13件) を見る 上記の書評が、「週刊読書人」4月24日号に掲載されています。 以下、書の内容とはまた別につらつら考えたことを。 書を読んでいて強く思ったのは、「非現実的」で「感情論的」な「反米右翼」と化していくという、書が描く江藤淳の末路は、やはり江藤が平野謙を批判したときに、すでに決まっていたのではないかということだ。 江藤は「青春の荒廃について」(1962)で、平野の「青春」の根幹をなすプロレタリア文学運動を批判した。中村光夫にならって、プロレタリア文学運動に、「青年たちの心を根こそぎにしていったひとつの強力なロマン主義の運動」を見出したわけだ。 江藤に言わせれば、だとしたらそこからの「転向」は、「敗北して青

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  • 『異邦人』論争下の花田清輝 - KAZUO NAKAJIMA 間奏

    武井昭夫が、はじめて花田清輝の話を聞いたのは、ちょうど中村光夫と広津和郎による『異邦人』論争のさなかだったという。 新日文学会の大会でそれをめぐる議論の途中、花田が「射殺されたアラブ人の立場からものを見ろ、その立場から論じた人が一人でもあるか」と言うと、「一瞬、会場はシーンとなった」と(「芸術運動家としての花田清輝」)。 広津は、カミュのいわゆる「不条理」を、実生活から遊離した「心理実験室の遊戯」と批判した。それに対して中村は、「不条理」は「思想」でも「感情」でもあり、それこそ「現代の機械主義」による「生活の画一化と繰り返し」の洗礼を受けた都会に見られる、極めて一般的、国際的な「生活様式」だと反論した。 おそらく、花田にとっては、この論争が「思想と実生活」論争の縮小再生産にしか見えなかっただろう。それは、すでに「政治と文学」論争を経て、文学中心のものの見方が不可能になったにもかかわらず、

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  • KAZUO NAKAJIMA 間奏

    出口の見えないガザの状況から、またしてもサイードが盛んに呼び戻されている。例えば、篠田英朗は「オリエンタリズム」をキーワードとして、現状を次のように分析する。 欧米諸国の指導者たちは、イラクやアフガニスタンでの失敗から、「オリエンタリズムの対テロ戦争」に懐疑的になったはずだった。ところがウクライナ情勢をめぐり、ロシアという「東方」を侮蔑し、邪悪で弱いものとみなしたい衝動を押し殺せなくなった。そして23年10月7日のハマスのテロ攻撃を見て、イスラエルの占領統治の歴史を忘れ、邪悪で弱い中東のテロリストを駆逐する正しく強い白人、という構図を振り回す魔力に引き寄せられ、感情的なイスラエル支持を打ち出した。 ガザ危機をめぐり欧米諸国が浴びている「二重基準」の批判は、いわば世界を二分法的に理解したいという「オリエンタリズム」の思考への批判である。欧米人たちも、無意識的に「オリエンタリズム」に陥ってしま

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