まず本戦前日9月14日から15日の開戦時までの両軍の動きをフォローしておこう。すでに関ヶ原の西方、山中村のあたりには9月3日から西軍の北陸方面部隊を指揮していた大谷吉継が布陣していた。東軍は三成らのこもる大垣城に当てられた本隊とは別に、三成の居城である佐和山城攻略に動く可能性があった。その通り道に大谷隊がいる。 その向かいの松尾山には小早川秀秋が8千の大軍をもって盤踞(ばんきょ)しているが、秀秋は東軍に内通していることが疑われており、頼りにはならない。大谷一隊をもって、東軍の別動隊と対峙することになるが、兵数的に圧倒されてしまう。 三成としては、自己の佐和山城を守ることと、盟友大谷を無駄死にさせないためにも、大垣城を出て大谷隊と合流することが必須の課題となっていたはずである。そこで三成ら大垣城の西軍は14日の夜中から城を出て関ヶ原へと移動することになる。 行程は、東軍が密集している中山道は