価値観の大いなる転換期に、若者はどこに希望を見出すのか?1970年以降生まれ以外「立ち入り禁止」の新鮮なスタジオで、新世代がジレンマを解く!ニッポンの明日は、どっちだ!?飯田 泰之 エコノミスト 駒澤大学准教授 1975年 東京生まれ 財務省財務総合政策研究所上席客員研究員。専門は経済政策・マクロ経済学。 日本社会の諸問題を、経済学の視点から明快に分析する気鋭のエコノミスト。 猪子 寿之 チームラボ代表 1977年、徳島県出身 2001年東京大学工学部計数工学科卒業と同時にチームラボ創業。プログラマ、ロボットエンジニア、数学者、建築家、Webデザイナー、グラフィックデザイナー、CGアニメーター、編集者など、情報化社会の様々なものづくりのスペシャリストを率いる。 宇野 常寛 評論家 批評誌〈PLANETS〉編集長 1978年生まれ 青森県出身 現代ポップカルチャー分析を中心に、文芸批評、社
塾の講師を長年やっていて気づいたのが、文字から情報を取り出して理解することができない子がたくさんいるということ。その能力の低いこと、もはや文盲に近いです。あたしは便宜上こうした子たちを「プチ文盲」*1と呼んでいます。 塾で使うワークブックには、問題だけでなく、「要点のまとめ」や「アドバイス」などのコーナーがあります。そこを見るだけでかんたんに解けてしまう問題も多いです。ところが、「プチ文盲」の生徒たちは、「『要点のまとめ』のここを見て調べながらやってね」と言われてさえもまったく問題が解けません。ちなみにそういう生徒に「まとめ」の部分を音読させてみると、こんな感じ。 生徒「be動詞の疑問文は、be動詞を……ぶ……『ぶんあたま』って何?」 あたし「『ぶんとう』(文頭)」 生徒「……『ぶんとう』に出す。否定文ではbe動詞の後にnotを『よういる』」 あたし「『もちいる』(用いる)」 生徒「……『
出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題 - MIYADAI.com Blog これを現状分析と未来への提言に分けて読むと、現状分析の部分には同感だけど、提言としてはその方向性にやや疑問がある。 現状分析の部分はひとことで言えば「日本人は世代によらず『空気』への依存が強い」ということだろう。「空気」は、共通前提から生まれるが、その共通前提の作り方が世代ごとに変遷してきた。 団塊世代以前の日本人は、日本という国自体の持つ共通前提 団塊世代は世代意識から生まれる共通前提 新人類世代は「分かる奴には分かる」という世代内差異を用いて集合的アイデンティティを構築 それ以降は、共通前提の構築の困難さから「繋がりの社会性」を指向(参考→「繋がりの社会性」は繋がりを指向しない -- Baldanders.info) ということで、その強迫的な共通前提構築への執着が暴走したものが「KY」である
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20071213/1197521756 何やら、立派にみえることを勧めている人を発見しました。曰く、「世界にただ在るものとして在る強さを持て」とのことです。他人からの評価に右往左往することなく、『エヴァンゲリオン』のシンジやアスカのように他者からの評価に汲々とすることなく、独り屹立する自分自身、なるものを推奨しておられるようです。「本心からしたいことをしなさい。誰にとって価値がなくとも、誰に承認されずとも、あなたは別に好き勝手に存在していいのである。人は本質的に、無限に自由なのだから。」。そのうえで自己承認欲求を後ろ向きなもの、とid:y_arimさんは述べてます。もし個人が、ロードス島の巨神像や足摺岬の灯台のように揺るがなく立つことが出来るとしたら、それはそれで美しいことだとは思います。 しかし、そんなことって娑婆世界を生きる私達
1. 私がソーシャルブックマークにネガコメを書かない4つの理由(松岡美樹さん) いつものことながら、どうでもいいところにピコーンとなりました。 私がSBM上に異論をあまり書かない理由は以下の通りだ。 字数制限その他の制約により、SBM上では自分の意図を完全に説明しにくい(相手に異論を述べる場合には、特に十分な説明が必要だと私は考える) 機能上の特性から、SBM上では双方向の議論がしにくい 議論とは、相手の反論権が担保された状態でやるものだと私は考えている(でなきゃおもしろくない) 上記1~3の理由により、SBM上では私の考えるスタイルの議論が成立しない 私なら、こうまとめる。 私がSBM上に異論をあまり書かない理由は以下の通りだ。 議論の意思なき異論の表明をしたくない 異論を表明するときは議論の基礎となりうるよう十分な説明を付したい 議論の基点となりうる異論の表明は相手が反論しやすい場で行
ニコ動で人気が出れば仕事で評価されなくてもいい ちょっと思うところがあったのでメモ。 バリバリ働いて出世するのが良い人生とは限らないというゆとり的な風潮も手伝ってか、特に仕事で評価されることも求めない。そういえばそうだったなー、と思った。色んなところでずっと語られてきたことだと思うんだけど、すとんと腑に落ちた。 大きな企業に入って働いてー、出世してー、という「いわゆる成功のビジョン」が色んなところでぶっ壊されてきたなあ、と。自分がやりたいことをしよう、と言われ続けてきたなあ、と。 「働いて出世するのが良い人生とは限らない」というのは実にその通りだ。自分がやりたいことをやれ、というのも全くその通りなんだが、実際の所、やりたいことが特にない人というのも、どうやら世の中には割といる。 そういう人の為には、「やりたいこと」を無理やり考えさせるよりは、「いわゆる成功のビジョン」というのを一応提示して
「話すことと書くこと - tomityの日記」 「304 Not Modified: ブログで論理思考のスピードを身に付ける」を読んで。 ブログに書くことで論理思考のスピードを鍛えるという話と、話すときのことの違いについて。 「出力を楽しむブログ - 北の大地から送る物欲日記」でブログに書くことで考えを外に出すことの訓練を行うという話を書いたけど、ブログのように文章を書くということと、誰かと何かを話すってことは、似てる部分もあれば、違う部分もありそうです。 こうして、自分の脳をブログという外部装置に出し続けることによって“スピード”が鍛えられていくと思うのです。このスピード、私は未だに苦手で、ブログではまともなことを言ってますが、実際に会って突然質問されると答えに詰まってしまうときがあります。もしかしたら、ブログを考えてから書かずに、書きながら考えているからかもしれません。書いたものを読み
●日本の騒音問題に思う~NZからの一時帰国時から(11月1日11時42分配信 ツカサネット新聞) 一時帰国時の率直な感想として、日本はうるさい。自分の意図に反して耳に入ってくる音の何と多いことか。 自動販売機が「アリガトウゴザイマス」とお礼を言ってくれる。店のドアが「ピンポン、ピンポン」と来客を迎える。トラックは「バックシマス、ゴチュウイクダサイ」と、わざわざ教えてくれる。公共交通機関の中では、駅と駅との間のわずか3分に「ゴジョウシャアリガトウゴザイマス」に始まって、車内での注意事項だの、近辺の店や見所などを延々と紹介してくれる。そのほとんどが、電子合成音だ。 善意で始められた「サービス」なのだと信じたい。無機質な機械からモノを買うのは味気ないだろう、とか、お客様に「すいませーん」と店の奥まで声を掛けさせる訳にはいかない、とか、事故にならないように、マナー違反が少しでも減るように、観光客が
症候群、といってもいい気がする。 恋愛論とか最たるものなんだけど。世の中には、「どう考えても特殊な状況における個人的な問題なんだけど、それを一般的な問題にしたい、凄くしたい」という病気にかかっている人がたくさんいる。そりゃもう数限りなくいる。 新聞やテレビといったマスメディアが、例えば特殊な事件をネタにしてWebやオタク、アニメやゲームといったものを一般的に叩くことに憤る人は多い。が、翻ってみると、「特殊なネタ→一般化」を駆使する病というのは、マスメディアに限らずあたり一面に蔓延しているのである。もうこれは風土病などというレベルの騒ぎではない。数十年も前から発生している、思考的疾患のアウトブレイクである。 かく言う私も「一般化病」を長年患っている患者の一人である。筋金入りの患者といってもいい。病気自慢を貫徹する為にも、ひとつこの病気について一般化を行ってみよう。一般化病患者の辞書に「自己撞
あなたは、あるいは私は、何の為に「釣り乙」「ネタ乙」というコメントを書き込むのだろうか。放流される予定の魚に、「お前は釣られたんだぞ」と言い含めてやる理由は何だろう? はてな匿名ダイアリーであるとか、2ちゃんであるとか。 主に匿名畑の掲示板でよく見るのだが、何か体験談、経験談っぽいものが書き込まれ、それにある程度以上の反響や共感が集まった場合、その中には「釣り」「ネタ」と指摘する声が割とある。結構ある。大体ある。 「釣り」「ネタ」というのは、この場合は「実話ではない、創作・妄想」という様な意味になると思う。体験談・経験談に対して「実話じゃないでしょ」「(釣り|想像|妄想)でしょ」と指摘する・あるいは野次る声をしばしば見る、という話である。 その「声」には、きちんとした根拠と説得力を備えたものもあれば、そうでもないものもある。 考えたいことは、大きく分けて二つある。 ・釣りを指摘する効果につ
メディアがネットを嫌いな理由は何だろうということを考えていたら、副産物として「ブログは無名な素人である方が有名人やメディアなどの有名な団体よりも有利な点があるんだぁ」という思考に至りました。 最初から読者数が多いという足枷 まず、メディアが何故ネットを嫌いなのだろうと考えたのですが、考えるうちに「ネットが自分を嫌いであるように見えるから」ではないかと思いました。 そうなってしまう原因は「読者数が多い事」なのではないかと思いました。 メディアや有名人がブログを開始しようとすると、無名な人がブログを開始するのと比べると注目されます。 注目されると、その主体に対して反感を持つ人がやってきてブログを荒らすことがあります。 有名な企業などでも同様だと思います。 そのため、まずは自分に対して好意的な人だけを集めたコミュニティを形成するところから開始するのが非常に困難になります。 読者数が適切な数で、同
OSAKA ELECTRIC AND ROCK DIARY OSAKA ELECTRIC AND ROCK (http://f13.aaacafe.ne.jp/~eandr/) のおまけとしてのblog Over the Rainbow -キモオタの遠吠え- http://d.hatena.ne.jp/heartless00/ id:heartless00 氏が文字通り吠えている。 シロクマ氏「愛情欲求滅却は不可能だ」に対する反論 - Over the Rainbow -キモオタの遠吠え- http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20071119/1195503549 何点か違和感を持った。 > これは私の予想でしかありませんけど、最近あきらかにオタク的じゃないオタクが増えてますよ。脱オタどころかダメなヤツがアニメブーム、萌えブーム、オタクブームに乗って入オタし
ブログは不幸や怨念の増幅ツールじゃない - ekken 『ファイトクラブ』という映画がある。チャック・パラニューク氏の同名小説を映画化したもので、自分はこの映画が大好きなのだが、これに出てくる「ファイトクラブ」というのは、お互いに殴り合い、痛みを感じることによって、自分が生きていることを実感する。 ネットにおいても、(言論として)相手を殴って、相手が返してくることを目的としている人はいる。殴り返されることで、生きている実感を感じる訳だ。 ただ、オリジナルのファイトクラブは、お互いに殴り合うことを了解した同士でやるので問題にならないが、ブログファイトクラブは、了解してない相手に絡むという点が違う。 いきなり殴られた方としてはたまったものでないが、理不尽な言いがかりだと思うのなら、相手にしなければいい。荒らしはスルーという対処方法もそうだろう。他の言葉でいえば、こういう人は構ってちゃんなんだし
11月23日、「ブログ限界論」をテーマにしたRTCカンファレンスに出席した。このテーマについてはご存じの通り、上原仁さんの事前アジェンダ設定がかなりの波紋を巻き起こし、さまざまなブログでさまざまな意見が書かれた。議論がどう広がっていったのかについては、徳力基彦さんのブログに詳しく書かれている。 当日、会場で話したことや話し足りなかったことなどを、この場で補足しておきたい。 昨年ごろから、ブログの世界に地殻変動が少しずつ起きてきているように思う。その地殻変動をシンボリックに体現しているのが、今年のアルファブロガー・アワードだ。アルファブロガーたちが選んだノミネートブログのリストを見ると、これまでのようなIT系や経済社会論壇系から外れて、より幅の広い分野に広がってきていることがわかる。たとえば、このノミネートリストの中でかなりの票を集めているらしい『会社法で遊ぼ。』。診療所勤務の医師の方が書か
レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります 大昔。そんなに忙しくはないけれど人間は圧倒的に足りてない、そんな病院に一人飛ばされて、 世界と自分をつないでくれるのはダイヤルアップの電話回線一本きり。 馬鹿だったけれど若かったから、せめて電話回線の向こう側の人たちに、 「自分がここにいる」ということに気がついてほしかった。Webを立ち上げたきっかけ。 大学に戻って、自分のページにも人が来てくれるようになって、 「自分がもう少しだけましな人間になるための道具」としてのネットに期待を寄せたのが、 ちょうどblog をはじめた頃。 時間はたって、来てくれるお客さんの数は増えた。 ネットというのは、コミュニケーションの道具としてはたしかに優秀なんだけれど、 学習の役にはまだあんまり立たない気がして
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